背中は遠い。
気付かなかった。ずっと、気付けなかった。
「はあっ、はあっ!」
走り慣れていない足がもつれる。重たいドレスなんて脱ぎ捨ててしまいたいと初めて思った。それでも、足を止めないで突き進む暗い廊下。
忘れたことなんて、一度もなかった。迎えに来てくれると言ったのに。必ず、迎えに来てくれると言ったのに。何度思ったか。図書館へ行く度に、あのソファーであなたが待っていると期待して、落胆して。繰り返し、繰り返し。そして、私の準備がまだ出来ていないからあなたは来ないのだと、自分を奮い立たせて。
「待っていたの……!」
十年も、ずっと。
教師が見たら卒倒するに違いない。叱られることは確実だ。それでも、構わなかった。今は、構わなかった。抱き締めた童話を抱え走る私を、廊下に差し込む月明かりは見逃してくれた。
「どうして……!」
追い掛ける背中に自問自答。どうして、気付けなかったんだろう。ずっとそばにいてくれたのに、どうして。何度も感じたのに。指先の熱も、悪戯っぽく笑った顔も、どこかで引っ掛かっていたのに。コルヴォの欠片を私は確かに感じていたのに。
――見つけた、けど。
わからないこともある。髪の色は、わかる。髪染めを使えばプラチナブロンドを黒にすることはできる。だけど、瞳の色は?アルマール様の瞳はオリエンタルブルー。コルヴォはアッシュグレー。全然違う色なのに。それに眼鏡だって……眼鏡?
「……アズライト。」
今でも、その色は鮮明に覚えている。ずれた眼鏡の隙間から見えた、一瞬のアズライト。幼い私は図鑑で見た鉱石の名で覚えてた。でも、あの色は確かに、オリエンタルブルーだった。まさか、同じ人だなんて考えもしなかった。
「でも、何で……それに、私。」
足が、止まる。ゆっくり、速度を落として、停止すると、そこからぴくりとも動かなくなった。走ったせいか、動悸が激しい。上下に肩を揺らしながら、息を整えようとするけど、苦しくて堪らなかった。
「きっと、傷付けた。」
知らなかった、でいいの?気付かなかった、で許されるの?迎えに来てくれなかったから、おあいこでしょ、なんて言えるわけない。
ギュッと腕の中に閉じ込めた本を抱き締める。足が動かない。重力に負けて段々と傾いていく顔。床に映る、自分の影を見つめながら、あなたの傷を想った。
忘れたわけじゃなかった。いつだって私を強くしてくれたのはあの日の約束だった。それなのに、私は裏切った。そう思われていた、きっと。だって、選べたはずだもの。殿下の婚約者にならずに、あなたを待つ人生を。
「十年も、ずっと……。」
私も同じだった。約束を抱えていた。でも、あなたは、見守っていて、くれたの?私を、ずっと。違う人の手を取った私ごと全部。
あの日から図書館に通っていたことも。カタジール語を覚えたことも。童話に憧れてミモザを植えたことも。あなたは見ていたの?殿下と婚約した日も。殿下と手を取り庭園を歩いていた日も。あなたは見ていたの?ずっと。近衛騎士としてそばで、何も知らないふりをして、何も気付かないふりをして。どんな顔で。どんな気持ちで。どんな想いで、あなたは――
「……見つけてください。」
顔を上げる。暗い廊下の先を真っ直ぐに見つめた。消えて行ったあなたの背中が私に残した言葉。見つけてください、と言った。確かに。
「見つけても、いいの?」
答えは、ない。重みを増した本をゆっくり額に押し付けて思い出す、あなたの顔。コルヴォではなく、アルマール様の。私を真っ直ぐに見つめて。
「……まだ、聞いてない。」
アルマール様は話を聞いて欲しいって言った。でも、私はまだ聞いていない。アルマール様の話を。十年前、何故オルトリンデにいて、急に離れたの。その後、何で会いに来てくれなかったの。十年間、何をしていたの。私が、殿下と婚約してから、あなたは何を思っていたの?それに、私も。まだ、話していない。私の話を。
一歩、踏み出す足。石化していた足が嘘のように動き出す。一歩、また一歩。速度をつけて、前へ、前へ。
「待って……!」
あの日、伸ばせなかった手。私は幼くて、あなたの羽を借りることができなかった。どんなに忌み嫌われていても、要らない子と言われても、私はあそこを飛び立つ勇気がなかった。でも、今は違う。私は、こんなにも走れるようになったから。
「だからっ!」
だから、今度は私が迎えに行くわ!
自分の足で、あなたを。コルヴォを。アルマール様を。迎えに行くから。だから、どうか。
「見つけさせてくださいっ!」
コルヴォじゃなくて、十年ずっと私を見てくれていたアルマール様を。知りたいことがたくさんある。知らないこともたくさんある。だから、聞かせて欲しい。アルマール様の話を。私もちゃんと話したいから。十年ずっと大事に抱えていた、この、約束を。
重たくなっていく足。それでも必死に動かした。躓きそうになっても、汗で張り付く髪を振り払って、見えない廊下の先にある背中を追って。
「アルマール様っ!」
手を伸ばして、今、その背中を掴むから。




