十年前の童話②
「また来たのか。」
奥のソファーに足を組んで座る彼が、顔を上げて呆れたように笑っていた。投げられた言葉にぴくりと耳を動かしつつも、当たり前のように空けられたスペースに勢い良く腰掛ければ、やたらとよく沈むソファーにひっくり返りそうになった。
「だって昨日約束したじゃない、また明日って。」
「……いい天気なんだから外でお友達と遊んだ方がいいんじゃないか?」
「そんなお転婆じゃないもの。」
唇を尖らせながら言う私を見て彼は、ふーん?と何か言いたげに笑いながら、手に持っていた本を閉じると、横に備え付けられていたテーブルに二、三冊積み上げられた本の上に重ねて置いた。
どう見てもまだ読みかけだったのに飽きてしまったのだろうか。首を傾げる私を他所に、積み上げられた本とは別に置かれた、あの、カタジール語で書かれた童話集を手に取る。それがまるで私のために用意されていたみたいで何故か胸が痛い。
「タヌキの話の続きでいいのか?」
「うん。」
「――森の中でタヌキは考えた。そうだ、次にやってきた人間の家に居座ってもっといい暮らしをしてやろう、と。」
静かな図書館の中で物語を辿る低い声。カサリとページを捲る音がうるさいくらいに鼓動し始めた心音を掻き消すほど鮮明に聞こえた。
「ある日、森に一人の女がやってきた。綺麗な花を持った女だった。タヌキは『よし、この女にしよう』と決め、男に化けた。」
「どうして男に化けたの?」
「……その方が騙しやすいからだろうな。」
答える彼のまつ毛がわずかに揺れる。アッシュグレーの瞳の奥を探るも、続きを読むぞ、という声にハッとして、視線が物語に引き戻された。
「――タヌキは女が通るであろう道に寝転がった。ここにいれば女はきっと声を掛けるだろう。タヌキの思惑通り、女は男に化けたタヌキに駆け寄り、声を掛けた。」
本から視線を外し、私を見遣る彼。ばちりと視線が交錯し、意図がわからず首を傾げれば、ふっ、と鼻で笑われて。なんで今笑ったの、と聞こうとした私の言葉を封じるように、低い声は物語を進めた。
「『大丈夫ですか』、そう声を掛けながら女はタヌキを抱き起こした。あまりにも自分の予想通りの展開にタヌキは笑いそうになったが、それを堪え、『食べ物は、ありませんか』と掠れ声で答えた。」
「タヌキは人の家に居座りたいのに、どうして食べ物を求めたの?」
「急に家に行きたいなんて言って、お前はおれを連れて帰るか?」
「……帰らない。」
「そういうことだ。」
正解を当てたご褒美だろうか。私の頭を二、三度軽く撫でる彼の手。味わったことのない感触に、頬が一気に紅潮し、ボフッと毛量が増加する。ふふっ、と横から漏れた笑い声に反発するように「子供扱いしないで」と唇を尖らせれば、さらに彼は肩を振るわせて笑った。
キッと睨みつけるように見上げれば、申し訳ないなんて口で言いながら全く悪びれる気配はない。それどころか、皺の寄った私の眉間に指先を当てながらグリグリと掻き回し、「悪いタヌキに化かされても気付かなさそうだ」なんて。そんなわけないじゃない、と少し赤くなってしまったであろう眉間を押さえながら反論するも、やれやれと彼は肩を竦め、本へと視線を戻した。
「――女は困った。花と水はあるが生憎食べ物は持ってきていない。その間にも男は苦しそうに呻いている。困り果てた女は男に皮袋を差し出しながら『麓に私の家があるの。そこまで食べ物を取ってくるから待っていて』と答えた。」
結局タヌキの思惑は外れたんだとおかしくなって、やっぱり最初から家に連れて行ってもらった方が良かったんじゃない?なんて軽口を叩こうとした私の言葉に被さるように迫真の演技でタヌキを演じ始めた。
「立ち上がろうとする女の人の腕を掴み『きっとあなたが帰ってくるまでに獣に喰われてぼくは死んでしまう。』なんて脅し始めた。」
タヌキの台詞に合わせて私の腕を掴み、見下ろされているのに、まるで懇願されているかのような顔で見つめられ固唾を飲む。掴まれた腕がじわりと熱を移す。眼鏡の奥にあるアッシュグレーの瞳に映り込んだ私と目が合った。だらしなく口を開け放した自分が見えて、慌てて口を引き結べば、パッと離れていく手。
ふっ、と意地悪く笑う彼に化かされた心臓がうるさくて悔しい。どうにかしてそれを隠したくて、無邪気に物語の催促をするのに必死だった。
「……もうすぐ夕暮れがやってくる。このまま男を置いていけば、男の言う通り獣に食べられてしまうかもしれない。女はつい決心をして男を家に連れ帰ることにした。」
「まんまとハメられたわ……。」
「ふっ……麓の家まで男に肩を貸した。女は男の体が見た目以上に軽いことに驚いたが、それ以上に鼻腔をくすぐる独特の香り。」
「独特の香り?どんな?」
「さあ……詳しくは書かれていないけど、タヌキだから刺激的な香りじゃないかな。」
「刺激的……。」
それは一体どんな香りなのだろうか。獣臭いとはまた違う香りなのだろうか?自分の匂いすら気にしたことがないのに、他人の匂いなど意識したはずもなく。
自分の匂いは大丈夫か気になって手の甲を鼻にくっつけてみるも、無臭。自分ではわからないものなのかも。もしかしたらタヌキも完璧に化けていたつもりで、自分の匂いに気付かなかったのかな。そう思うと自分の匂いがどんなものか少し不安になって鼻につけていた手の甲をずいっと彼の前に差し出してみる。
「……何だ、これは。」
「匂う?」
一瞬、困惑した表情を浮かべたが、すぐににっこり笑って、私の手の甲に鼻先を当てる。少し冷たかった彼の鼻が徐々に温まっていく感覚が直に伝わってじわりじわりと恥ずかしさが込み上げてきた。
――もしかして、もの凄く恥ずかしいことをしているのでは?
急いで手を引っ込めようとしても、逃すまいとがっしり掴まれた手。力を入れて引いてもびくともしない。ウサギみたいに鼻が動いて、一気に血が全身に巡っていき、頭がクラクラした。
「刺激的な香りだな。」
「……っ!」
――タヌキと同じ匂いがするってこと?
わなわなと唇を振るわせる私の元へ戻ってきた手の甲を急いで見えないところに隠し、人一人分距離を取って座り直せば、本で顔を隠しても肩が揺れているから、彼が笑っているのだとよくわかる。逃げ出したい気持ちと続きが気になる気持ちとのせめぎ合いをしている最中、低くもどこか甘さを含んだ声が耳に心地良く響いた。
「今日はここまで。また明日。」
彼の声を合図にしてソファーから勢い良く立ち上がり、一目散に出口を目指す。扉の前で一度彼を振り返れば、ソファーで足を組み、ひらひらと私に向かって手を振るその様は何と優美なことか。それに対抗する術を持たない私は逃げるように図書館を飛び出す。
「ふっ……本当に刺激的な香りだな。」
ぽつりと落とされた彼の言葉は振り返ることなく廊下を走る私の耳には届かなかった。




