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「お前はバグだ」と断罪された令嬢ですが、10年前の「カラス」様との約束を果たします。  作者: ちゃこ太郎


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十年前の童話①

 窓を叩く雨音がはっきり聞こえてくるほどの静寂が占拠するこの空間は私の唯一の避難所だった。湿気で一層くるくると跳ねるこのみっともない髪を笑う者は誰もいない。ここに来るとやっと呼吸ができる。今にも決壊しそうになっていた目元を力任せに拭い、酸素を求めて大きく息を吸えば、ちっぽけな二つの肺を満たすこの羊皮紙のほのかに甘い香りだけが私を癒してくれた。

 何度かそれを繰り返して、滲んだ世界が正常になった、その時。


 ――カサリ。


 雨音に掻き消されそうな、あまりにも小さな音だったが、私の耳には雷鳴の如く響いた紙を捲る音。バクバクと今にも静寂を打ち破らんばかりに脈打つ心臓を何とか宥めつつ、暗がりの奥の奥、貴族専用ルームに備え付けられた革張りのソファーに彼は足を投げ出して寝転んでいた。

 歳は成人を迎えた一番上の兄と同じぐらいだろうか?闇と同化した真っ黒な髪に時折ゆらりと揺れるランタンの灯りが反射している野暮ったい黒縁眼鏡。服装は何の飾り気もない白シャツにズボン。ここは身分の高い者だけが使用できる空間にも拘らず、彼のその風貌は全く似つかわしくない。


 ――それなのに、何でだろう?


 誰よりもそこにいるのが当たり前のように思えてくるのは。私など存在していないかのように気にも留めず、ただページを捲り続ける指先に目が離せない。

 ごくりと唾を嚥下した音が自分でも鮮明に聞こえた。だから、だろうか。規則的にページを捲るその指先がピタリと止まり――


「……本を読む人間を見たことないのか?それとも迷子か、お嬢ちゃん。」


 私の耳にしっかりと届くだけに留まらず、この空間に反響。面と向かってぶつけられたことのない言葉に、ぽかんと口を開けて唖然とする私に向かって追撃する彼の言葉。


「ここにはお前に読める本なんてないぞ。」

「――ぶ、無礼者っ!」


 自分の口から出た声が思いの外大きくて、咄嗟に口を押さえれば、黒い彼は小さく鼻で笑って一言。


「図書館では静かにしろって習わなかったのか?」


 進んでいない手元の本から視線を外さず、確実に私へと放たれたその言葉たちに、湿気でくるくるになった髪がより一層ボリュームを増した気がした。

 瞬時に、何か言い返してやりたい!と湧き出る感情のまま考えたが、確かに彼の言う通り、さっきの声はうるさかったと自覚があるから何とも言い返し難い。吐き出す言葉を見失った口だけが餌を求める魚のようにパクパクと開閉する。言い返せずにいる私を他所に、止めていた指先を動かし始める彼。置いてけぼりにされたことに腹が立ち、さらに膨らみ始めた髪の毛を何とか両手で押さえながら、彼の側にずかずかと詰め寄った。


「随分と可愛らしい物を読んでらっしゃるのね。」

「……何?」

「カタジール語で書かれた童話集でしょう?」

「まさか、読めるのか?オルトリンデの公用語じゃないのに。」


 彼が手にしている本のタイトルには見覚えがあった。幾度となく逃げ込んだここには当たり前だが無数の本がある。逃げるためだけに利用するには悔しいからと色んな本を読み耽っていたが、まさかそれが役立つ日が来ようとは。

 初めて彼が本から視線をずらし、私の方を見たことに、勝った、なんて得意げに鼻を鳴らしながら、覚えてしまっていた最初の一節を声に出して読んでみせた。


「『森の奥深い場所に、一匹のタヌキがいた。彼はいつも人に化けては、森に来た人間を騙し、物を奪うような狡賢い奴だった。』でしょう?」


 どうだ参ったかと言わんばかりに胸を張って答えれば、彼は私を一瞥し、掛けていた黒縁眼鏡の鼻当てを白く伸びた中指で押し上げながら、ふっ、と小さく笑みを漏らす。

 まさかどこか間違っていたのだろうか。不安げに彼を見つめ返せば、肩を揺らしながらくつくつと笑い出す彼に何がそんなにおかしいのかと首を傾げた。


「おかしな奴だな。」

「ど、どこがですか!無礼にもほ、うぐ。」


 喉元で霧散する言葉たち。唇に押し当てられた彼の指先があまりにも冷たくて瞠目する私に一音一音言い聞かせるように紡がれた、うるさい、の言葉で頬が一気に紅潮していく。吐き出せなかった言葉たちが唾液に溶けて、嚥下。落ち着いたはずの癖毛がいつの間にか毛量を増して、わなわなと震える私の様子にまた彼は肩を揺らして笑った。

 一頻り笑った彼が、疲れたとでも言いたげに一息吐き出して開いていた本を閉じた。次いで、ぎしり、とソファーを鳴らしながら起き上がる。すっかり広がってしまった髪の毛を何とか両手に収めながら、急に空いた小さなスペースと彼を瞬き多めで交互に見つめた。


「ふっ……こんなに笑ったのは久々だ。礼を言うよ。」


 頭にハテナを浮かべる私を見て、また口元を押さえ始めた彼が空いたスペースを二、三度軽く叩いた。一番上の兄が何か悪いことをする時の笑顔を貼り付けて。

 

「ほら、どうぞお嬢ちゃん。」

「私は、お嬢ちゃん、じゃありません!それに何故私があなたの隣になんて。」

「そんなに毛を逆立ててまるでガッティーナみたいだな。」

「ガッティーナ?」


 聞き慣れない単語に首を傾げる私を見て、彼はついに声を上げて笑い出す。それが私にとって良くない言葉なんだと瞬時に理解し、キッと彼を睨み付けると悪かったなんて言いながら全然悪びれる様子もない。

 

「そんなとこに突っ立っているとお前の髪がおれより先に天井と仲良くなりそうだな。」


 ギリギリと奥歯を擦り合わせて、どうするか逡巡。そうこうしている間に逃げ道を塞ぐように彼が再度空いたスペースを軽く叩いた。彼の思い通りになるのは癪だと思ってはいるが、こんな風に自分と話してくれる人がいて、そんな人から隣に座っても良いと言ってもらえるなんて、何だか居場所を与えられたようでむず痒くも嬉しくて、色んな感情がないまぜになりながら、あくまでも不承不承座る体で私のために空けられたそこへ腰を下ろす。


「これ全部読んだのか?お前の歳で。」

「まだ途中です。カタジール語は難しい言い回しも多くて……。」

「確かにそうだな。お前が今読んだタヌキの話は全部読んだのか?」

「触りだけ、何とか。」

「ふっ……まさかハッタリだったのか。」

「また馬鹿にして!」

「馬鹿になんてしてない。今のは感心したんだ。……そうか。それなら、続きを教えてやる。」

「本当?」


 思ってもみなかった彼からの提案に耳がぴくりと反応。思わず上がっていく口角を彼にバレないように押さえながら、隣に座って初めて捉えたアッシュグレーの瞳を見つめ、上擦った声で聞き返せば、「おれは嘘は吐かない」という言葉とともに先ほどまでとは打って変わって、ランタンの灯りにも負けないほどの温かな微笑みが返ってきた。

 胸の辺りにむずむずと何とも言えない感覚に襲われる私を他所に閉じていた本を開く彼の指先。そして、その指を辿るように始まる物語。


「森の奥深い場所に、一匹のタヌキがいた。彼はいつも人に化けては、森に来た人間を騙し、物を奪うような狡賢い奴だった。」


 冒頭の一節。私が先ほど得意げに語った一節を彼がもう一度紡ぎ始める。眠りを誘うほどの低く優しい声音だけがそこにあって、いつの間にか窓を叩く雨音は聞こえなくなっていた。

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