鏡の中の楽園
真正院のパーティ会場は、音のない熱気に包まれていた。
エレンは、壁際に置かれた冷たい大理石の柱に背を預け、自分の視界を疑っていた。
会場を照らす照明は、エレンの街のどんな太陽よりも眩しい。それらは計算し尽くされた波長で、ゲストたちの肌を、宝石のように滑らかに輝かせていた。
「見てごらん、この不規則な曲線。これが、彼女が針を刺した時に流した血の跡だ」
中央の展示台を囲む人々が、エレンのバッグを覗き込み、感嘆の吐息を漏らしている。
「なんて贅沢なんだ。AIには決して許されない、無駄な、そして純粋な痛みだ。これに触れていると、自分がまだ『生身』であることを実感できるよ」
真正院の巨大な窓の向こう。エレンの街の方向が、かつてないほど暗いことに気づく。
対照的に、この部屋の照明は、自分の目の裏を焼くほどに眩しい。ハドソンが祝辞の中で、彼女がバッグを縫い上げる映像をそのまま全世界へ予告として送ったと告げたとき、エレンの胃の奥から熱い吐き気が突き上げた。
彼女はたまらず、会場を後にした。
その夜、エレンは一睡もできなかった。手元にある膨大な演算時間の残高が、誰かの街から奪った光の欠片であるように思えてならなかった。それでも翌日、彼女はリアムの部屋を訪ねた。この重すぎる権利を、一刻も早く手放したかった。
リアムの部屋は、昨日までの絶望が嘘のように、青白いモニターの光と、かすかな機械の唸りで満ちていた。
「エレン……」
リアムは振り返った。彼の耳元のARデバイスは、最新の最高等級であることを示す金色のラインを明滅させている。彼は再び、最適化された未来へと繋がったのだ。
だが、リアムの目は死んでいた。
「……枠は、戻ったのね」
エレンが声をかけると、リアムは力なく笑った。
「ああ。戻ったよ。最高級のAIが、僕の脳内で絶え間なく答えを囁き続けている。次に何を言い、どの筋肉を動かせばいいのかをね」
リアムは、自分の手を見つめた。
「……でも、昨日の夜、全世界に配信されたあの予告映像を見たんだ。君の公開制作のテザーをね。君の手元が、あの血の滲んだ革が、僕の視界を埋め尽くした」
彼の声が、かすかに震えた。
「君に救われたという事実が、僕の『人間としての死』を証明している。君の不完全さが、僕の完璧な隷属を嘲笑っているんだ」
あまりにも整然とした、しかし絶望に満ちたその言葉。それがリアム自身の心からの叫びなのか、それとも端末のAIが彼の感情を最も効率的に言語化したものなのか、エレンには判断がつかなかった。ただ、その滑らかな響きが、かえって恐ろしかった。
「リアム、私は……」
「帰ってくれ」
リアムは、エレンを見ようとしなかった。
「もう、僕に構わないでくれ」
エレンは、何も言えずに部屋を出た。
彼女が必死に縫い留めたはずの友情は、ひと針ごとに、その裂け目を広げていた。
廊下に出ると、窓から見える街は、今日もまた昨日より少しだけ暗くなっていた。
真正院からの「公開制作」の本番を告げる通知が、エレンの古い端末を震わせた。彼女はそれを見ることなく、ただ暗い家路を急いだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
楽しんでいただけたら評価などをいただけると幸いです。励みになります。




