聖遺物の代償
エレンの部屋には、窓がない。代わりに壁一面を覆うのは、剥き出しの配管と、処理能力の不足でノイズを吐き出し続ける古い空調設備だ。
彼女は、ハドソンという男から「個人的な依頼」として預かっていた最高級の原皮を、作業台の上に広げた。希少な仔牛の革。その滑らかさは、エレンの荒れた指先には眩しすぎた。
「AIを消して」
エレンは端末に短く命じた。緑色のガイドラインが消え、画面が暗転する。青白い光とともに、かすかな駆動音も消えた。
静寂が訪れた。
いつも彼女の思考の端を走っていた、効率と最適化を促す囁きが消える。エレンは大きく息を吐き、針を手に取った。
ここからは、彼女だけの時間だ。
AIを消した瞬間、皮肉にもエレンの動きは、かつてどの演算モデルが示したよりも精密に、そして迷いなく動き始めた。彼女の脳内に刻まれた数万回、数十万回の反復。AIが「職人の癖」として数値化しようとしていたものは、彼女の肉体そのものに溶け込んでいた。
一針、一針。
革を貫く音だけが、狭い部屋に響く。
エレンは、わざと針の角度を零点数ミリだけ傾けた。そこには『迷い』が必要だった。若き職人が、自身の才能の限界に直面し、それでもなお先に進もうとして震えた、その瞬間の再現。
夜が深まるにつれ、集中は狂気に近づいていく。
視界が狭まり、指先の感覚だけが肥大化する。
あえて力を込めすぎた箇所で、針が彼女の左手の親指を深く突いた。鮮やかな赤が、白に近い仔牛の革に小さな染みを作る。
エレンは手を止めなかった。
彼女は自分の血を、そのまま革の裏地に擦り込んだ。
「……これが、あなたたちの欲しがっているもの」
吐き捨てるように呟いた言葉は、誰にも届かない。彼らのAIには、決して流すことのできない不純な液体。
翌朝、エレンは完成したバッグを抱え、真正院の門を潜った。
そこは、空気が明らかに違っていた。高精度なARデバイスが描き出す幻影が、街の汚れを完全に消し去り、空には永遠の青空と、舞い散る光の粒子が配置されている。
「お入りください、ミラーさん」
案内された奥の部屋で、ハドソン・ヴァン・ダインが待っていた。
彼は、最新のARゴーグルを敢えて外し、生の、しかし奇妙に焦点の合わない眼差しでエレンを迎えた。
「待っていたよ。不完全な聖女」
エレンは震える手でバッグを差し出した。
ハドソンはそれを、まるで壊れやすい鳥の雛を扱うように受け取った。彼は手袋を外し、エレンの血が滲んだ箇所を、慈しむように指先で撫でる。
「素晴らしい……。この躊躇、この痛み。演算機が百万年かけても生み出せない、神の不手際だ」
ハドソンは恍惚とした表情で、自らの端末を操作した。
「君が望む、すべての『枠』を買い戻せるだけの権利を、今君のデバイスに送った。リアム・リードの名義に書き換えるのも自由だ」
エレンの端末が震え、かつて見たこともないほど膨大な演算時間の残高が表示された。
「だが、条件がある」
ハドソンは微笑み、エレンの手元をじっと見つめた。
「近々、私のサロンで公開制作を行ってもらう。全世界に同時配信し、完璧さに飽き飽きしている人々に見せてやるんだ。本物の『人間』が、血を流して物を作る、その冒険を」
真正院の窓の向こう、彼女の街を照らす数少ない電気が、また一つ、静かに消えたような気がした。
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