演算の枷、手垢の恵み
地下の空気は、いつも錆びた鉄と古い革の匂いが混じり合っている。
エレン・ミラーは、手元の古い端末が放つ淡い緑色の光の中にいた。画面には、彼女が今まさに縫い合わせようとしている高級ハンドバッグの展開図が表示されている。等間隔に並んだ完璧な針目を、端末のAIがわざと不規則に書き換えていく。
「ここだ」
エレンは呟き、針を落とした。AIが算出した『熟練職人特有の、わずかな運針の乱れ』。それを忠実に再現するために、彼女は数ミリ単位で指先の力を加減する。完璧な直線よりも、この計算された「手垢」にこそ、地上に住む人々は数千倍の価値を見出す。皮肉なことに、その「人間らしさ」を最も正確に模倣できるのは、エレンのような、最新の「枠」から見捨てられた者たちだけだった。
指先に走る、慣れた痛み。
エレンは、古びた工房の壁にある、AR機能の剥げかけたモニターを横目で見た。光り輝く向こう側のニュースが、最新のチップによる「世界の最適化」を熱狂的に報じている。画面の中の均一な笑顔は、エレンの街の電力で動いている。彼らの完璧な日常が眩しさを増すほどに、エレンの周囲の影は濃くなっていく。
「エレン、聞いたか?」
工房の片隅で、自身も古い時計の歯車を研磨していたオーナーが声を上げた。顔は影に沈んで見えない。
「来月のインフラ維持費がまた上がるそうだ。街のデータセンターがまた増設されるらしくてね。電力の優先順位が一段階、引き下げられた」
エレンは針を止めた。
「……私たちの取り分は?」
「場所代を三割、上げさせてもらうよ。そうしないと、この部屋の明かりすら維持できない」
エレンは返事をせず、再び針を動かした。自分が一針縫うごとに、地上では真正性が称えられ、地下では街灯が一つ消えていく。この部屋を照らす頼りない電球の光すら、いつかはあちら側の捧げ物として奪われるのかもしれない。
使い古した道具を鞄に詰め、エレンは重い鉄の扉を開けて工房を出た。
夕暮れ時の学校の廊下は、卒業を目前に控えた浮き足立ちと、それ以上に重い選別の気配に満ちていた。
進路指導室のドアが開き、一人の少年が這い出すようにして出てきた。エレンの幼馴染、リアム・リードだった。
「リアム?」
声をかけたが、彼はすぐには顔を上げなかった。彼の耳元に装着されたARデバイスは、演算制限がかかっているのか、時折不器用なノイズを発して明滅している。
「……エレンか」
顔を上げたリアムの肌は、デバイスが提供するフィルターを失い、睡眠不足とストレスで酷く荒れていた。
「終わったよ。全部。親が、街のインフラ調整費を払うために、僕の演算契約を解約したんだ。追加の枠を買う金も、もうどこにもないって」
リアムは、力の抜けた手で壁を叩いた。
「来月からは、僕の脳に繋がっていたAIは消える。ここで脱落したら、僕に残された仕事は一つだけだ。データセンターの奥底で、AIの熱を冷ますための冷却水を運ぶ。一生、ただの冷却装置の一部として、歩き続けるんだ」
彼の絶望は、地下工房の錆びた匂いよりも重くエレンにのしかかった。
リアムの手は、エレンのそれとは違い、傷一つなく、最適化されたプロンプト入力のためだけに洗練されていた。
「私が……」
言いかけて、エレンは言葉を飲み込んだ。
自分には、誰かの未来を買い戻すだけの資本はない。あるのは、地上の富裕層を騙すための、偽りの「手垢」を刻む指先だけだ。
その夜、エレンは暗い街灯の下を一人で歩きながら、真正院の男、ハドソンの顔を思い浮かべていた。
あの男なら、エレンの「嘘」に、リアムの未来を買い戻すだけの値を付けるだろうか。
街の夜は、昨日よりも少しだけ暗くなっていた。
全5回で完結します。
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