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夜、皆が寝静まる中、息を潜めてこっそりと動く陰があった。闇に紛れる様に黒い布を纏い、廊下を足音を立てず静かに動いていく。
「どこに行くの?」
柱の陰からナディルが姿を現し、その人物に声を掛けた。声を掛けられた人物はびくっと身体を震わせて顔に巻かれた布を少しだけずらす。赤い瞳が警戒して訝しげに声をあげる。
「何で眠ってないの?」
「俺、こういうの効かないから」
睨みつけるエンコにナディルはにっこりと微笑む。
彼女は晩餐で舞う際に眠りの暗示をかけていた。彼女の踊りを堪能した者は皆、深い眠りの中にいるはずであった。
「こんな夜中にどこに行こうとしてるのかな。女性の独り歩きは危ないよ」
ナディルの言葉は優しいが、その瞳は笑ってはいない。
エンコは観念した様子で顔を隠していた布を外す。真っ赤なうつくしい髪が揺蕩う様に暗闇の中踊る。
「お願い、通して。エンコは貴方達と一緒に行けないの」
彼女は大きな丸い瞳を哀しげに伏せて、懇願する様にそう告げる。
黙ったまま道を譲る気配の無いナディルにエンコは再度乞う。
「お願い。
……好きな人がいるの」
ぽつり、と恥じらいを含んだ声で言った。
「駆け落ちでもする気?」
「……」
呆れた様に問い掛けるナディルにエンコは何も答えなかった。
「ごめんね、君を行かせる訳にはいかない」
ナディルはにっこりと、有無を言わせない笑顔で言う。
「竜妃様と約束しているし、俺のかわいい妹の為にもここは通せないよ。
だって君はもう『持って』いるでしょ?」
そう言って彼女に一歩、近づく。
エンコは一瞬身を構えると、素早く舞った。神をも魅了するその舞いは星明かりの下でも鮮やかで見惚れてしまう。豪華な衣装が無くてもその美しさは格別だ。
舞う彼女の辺りが次第にぼんやりと明るくなり、段々と赤く強い光が現れる。やがて煌々とした炎が湧き上がり、大きく燃え上がったかと思うと人の形を成した。
眩く神々しい光が端正な顔立ちの男性の姿に変わる。彼らの崇める自然が神格化した炎の化身だ。
「どうしても、ここを通してもらうわ」
強い意志を持った瞳が揺らめく。
「それはできないよ」
ナディルもにっこりと微笑んで手袋を外す。
神格化した炎の神ーー話には聞いていたが、ナディルは実際にその姿を見るのは初めてだった。それが何者であるかはわからないが、物理攻撃は有益では無いだろうと判断した彼は魔力で戦う事を決心する。本当は、ナディルは自分の中の魔力を使うのは少し抵抗があった。しかしこの状況では止む終えない。
ナディルの左手から禍々しい黒いた闇が溢れ出す。
「……何ソレ。気持ち悪い」
醜悪な魔力の気配に、エンコは顔を顰めると喚び出した炎の化身に命ずる。
「お願い、ロギ様」
炎の化身は渦を描き、大きな火柱を立てる。周りの温度が急激に上昇して肌が焼ける様に熱い。日干し煉瓦の壁や天井からはパラパラと焦げた砂が落ちて来る。
その炎はナディルを捕らえようと勢いを増して向かってくる。
ナディルは左の手から深い闇を呼び寄せると辺りが暗く染まる。
炎の柱を深い闇で呑み込もうとするが、流石に神格化した程の相手の炎を完全に消し去る事はできない。勢いを殺した炎を転げる様に身を屈めながら交わして、辛うじて避ける。
そのまま炎の化身に近づき腰の剣を抜き斬りつける。
炎の化身は避ける様子も無く、ゆらりと揺らめいただけで、やはり直接攻撃する事は出来ない。
そうなれば、魔法で応戦するかエンコ自身を狙うしかない。
しかし彼女を狙うにしても、狭い廊下で道を塞ぐ様に立ち憚かる炎の化身を抜けていかなければならない。
それならば、とナディルは闇の霧の様な魔法を展開する。辺りは靄が立ち込めた様に視界が悪くなる。
その中で煌々と光を放つ炎化身は、ナディルに再度浴びせる様な炎の雨を降らせる。
ナディルは顔を顰めて降りかかる炎を払うと、闇は一層濃さを増した。
「何これ、よく見えない」
突然の靄に不安そうに辺りを見回すエンコ。すぐ側の炎の化身の顔すら良く見る事ができない。
炎の化身が手を翳すとエンコの周りを炎が護る様に取り囲む。彼女は明るくなった周囲にほっとする。しかしナディルの姿は見えない。彼の居た場所へ幾つもの炎の塊を飛ばすが、姿は疎か手応えさえ全く感じられなくなっていた。
ふと気配を感じて足下を見ると、黒い蔦の様な陰が無数に伸びてきてエンコを捕らえようとする。
「ロギ様!」
エンコが怯えて叫ぶと彼女の周りの炎のが一層輝き、陰を焼き尽くす。黒い蔦は天井からも背後からも彼女を捉えようと伸びて来る。
「嫌っ」
エンコは身を捩る。炎は明るさを増して、それと比例するかの様に周りの闇が深くなる。靄状だった闇はやがて全てを飲み込む深い闇へと変わっていた。
「君の力はとても強い。でも使いこなせていないね。実戦に慣れていないんだね」
ナディルの声が暗闇に響いて反響する。
エンコは酷く動揺する。
「それに心もとても脆そうだ」
耳元で囁くように嗤う声に寒気を感じる。
炎が眩しくて目がチカチカする。ナディルの声が反響して頭が痛い。目の前が暗くなっていく。
ーー助けて、スルーズ!
彼女の頭に浮かんだのは、会いたくて仕方の無い相手だった。思わず、縋るようにその名前を呼ぶ。
「へぇ、スルーズって言うんだ」
ナディルの声がまた響く。今度は耳元ではなく、頭の中に。混乱すればする程、深い闇に身を沈めていく様だ。
この闇は、エンコの心の闇だ。




