泥と鋼の協奏曲
アムズガルドの結界を抜けた瞬間、オリビアの頬を打ったのは
それまで知っていた穏やかな微風とは
全く異なる、刺すような冷気と混沌とした魔力の匂いだった。
『オリビア、高度を上げるぞ!』
ロンドの短い警告と共に、二人は雲の層を突き抜けた。
眼下に広がるのは、魔王軍の侵攻によって荒廃し
かつてのような精霊の加護を失った「死の荒野」である。
かつて地図上で見ていた幻想的な光景は
そこにはなく、灰色の大地と
ひび割れた岩肌がどこまでも続いていた。
「これが……外の世界……」
エルフとして長寿を享受し
永遠に続くかのような平和の中にいたオリビアにとって
この風景は残酷なほどの現実味を帯びていた。
呼吸をするたびに、埃っぽい空気が肺に張り付く。
数時間の飛行の末、ロンドが高度を下げた。
地平線の彼方に
歪な形をした鉄の廃材を積み上げて作られた、
粗末な集落が見えてきたからだ。
かつての繁栄を知るエルフの街とは対照的な、
生きるための執念が渦巻く場所
――「辺境の交易都市・カエルム」である。
集落の門に降り立つと
そこには泥にまみれた人間や獣人たちが列をなしていた。
彼らの目には、アムズガルドの同胞たちのような余裕はない。
ただ、今日という一日を生き延びるための
野獣のような鋭い光が宿っている。
「ヒッポグリフだと?
……おい、エルフのお嬢ちゃん、場違いな場所に来たな」
門番の屈強な獣人が、不審げな視線を向けてきた。
オリビアは背筋を伸ばし、臆することなく答える。
「オリビア・ノースウッド。
冒険者として登録しに来たわ」
「冒険者? 冗談だろ。
その澄ました顔と、手入れされた服でか?」
獣人は鼻で笑い、彼女の隣に控えるロンドを一瞥した。
ヒッポグリフの気高さは
この過酷な場所では逆に浮き立ってしまう。
オリビアは自身の非力さと
街を出たばかりという未熟さを自覚していた。
だが、彼女の瞳は揺れない。
「私は樹守として
何百年もこの世界を支えてきたわ。
掃除の一つもできない者が
この荒野で生き残れるわけがないでしょう?」
その時、集落の奥から一人の老人が杖をつきながら現れた。
カエルムのギルドマスター、老練なドワーフのバルドである。
彼はオリビアの背後にある、炭化した世界樹の残骸の匂いと
彼女の手にある小さなナイフ
そして彼女の意志を、一瞬で見抜いた。
「……いい目だ。だが、お嬢ちゃん。
ここはエルフの楽園じゃない。
お前のその『丁寧さ』が
この汚泥の中で何の役に立つのか
まずは証明してもらうぞ」
バルドが指さしたのは
集落の入り口を塞ぐようにして這い回る、鋭利な爪を持つ大型の魔物、
グレーターボアの群れだった。
結界を失った荒野では
魔物たちは常に飢え、集落を喰らおうと待ち構えている。
『オリビア、やるか』
ロンドが低く唸る。オリビアは静かにナイフを抜き放った。
恐怖はある。足も震えている。
だが、このナイフは今や単なる玩具ではない。
この過酷な世界で、自分とロンドが生きるための、唯一の「鍵」だ。
「ええ、やるわよ、ロンド。
私たちが『生きていた』ことを、この荒野に刻み込むために」
彼女は、広場の樹皮を磨く時のように
一点の無駄もなく、しかし激しくナイフを構えた。
それが、元・樹守の少女による、冒険者としての最初の一歩だった。
「来るぞ、オリビア!」
ロンドの短い警告と同時に
巨大なグレーターボアが一頭、地響きを立てて突進してきた。
その突進は重戦車のごとき威圧感を放ち
集落の門の土壁を容易く突き破るほどの勢いだ。
オリビアは逃げなかった。
いや、逃げる場所もなかった。
彼女はエルフ特有の俊敏さで地面を蹴り
ボアの突進の軌道を横へと滑るように回避した。
しかし、風圧だけでバランスを崩しかける。
(速い……!
街の広場で拾っていた枝とは、重さが違う!)
ボアが勢い余って停車し、再び長い牙をこちらへ向けた。
オリビアは息を呑む。だが、彼女の瞳は冷静だった。
かつて世界樹の根元の、誰も見向きもしないような小さな「澱み」を見極め
それを払ってきた観察眼が、いま目の前の獣を細部まで分析している。
(動きが重い。あの左前足……わずかに引きずっている。
昨日の戦いで負った傷が、まだ癒えていないのね)
『ロンド、上だ! 左前足を狙わせる!』
二人の思考は、言葉を交わすよりも速くシンクロする。
ロンドが猛然と舞い上がると
その巨大な翼が巻き起こした突風がボアの視界を遮った。
獣が苛立ち、牙を剥いて吠えた瞬間
オリビアはボアの死角――左脇下へと踏み込んだ。
彼女が手にしたのは、英雄が振るう聖剣のような逸品ではない。
ただの錆びたナイフだ。
しかし、オリビアはその刃の先端に、全神経を集中させた。
「――そこ!」
彼女の狙いは、ボアの心臓ではない。
ボアの左前足の付け根、筋肉の束が収束するわずかな「継ぎ目」だ。
そこは、樹守として硬化した枝の傷を磨く際
最も繊細な感覚が必要とされる箇所と重なっていた。
彼女にとって、魔物の身体はもはや戦う対象というより
「修復」すべき歪んだ構造物に見えていた。
スパッ、と微かな音が響く。
ナイフの刃は深く、正確に獣の神経を断ち切った。
「グオォォオッ!」
激痛に絶叫したボアが崩れ落ちる。
しかし、群れは止まらない。
残りの三頭が、怒り狂った目でオリビアを囲い込んだ。
今度は突進ではない。鋭い爪による、四方からの同時攻撃だ。
オリビアは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
万事休す――そう思った瞬間、彼女はとっさに地面に這いつくばった。
泥だらけの荒野の地面。だが、それが彼女の命を救った。
『オリビア、今だ!』
上空から急降下したロンドの鋭い爪が
ボアの一頭を空中へと引きずり上げる。
空中で姿勢を崩した隙を突き、オリビアは泥を蹴って跳躍した。
空中で旋回し、ロンドの背中を足場にしてさらに高く飛ぶ。
かつて世界樹の頂で、空を見上げていた少女の身体能力が
極限状態で開花する。
重力を利用した落下速度。
そのすべてをナイフの切っ先の一点に込める。
シュッ。
静かな音とともに、二頭目のボアが動かなくなった。
残り一頭となったボアが、恐怖を感じたのか後ずさりする。
オリビアは荒い息をつきながらも
ナイフを構え直した。
その瞳には、最初のような戸惑いはもうない。
「掃除は終わりよ」
冷徹なまでの冷静さと、獲物を屠るという冒険者特有の激情。
その二つが彼女の中で混ざり合い
オリビア・ノースウッドという人間を
エルフの「樹守」から「冒険者」へと変貌させていた。
ボアが逃げ出した瞬間、辺りには静寂が戻った。
土埃が舞う中で、オリビアは膝をつき
泥で汚れたナイフをそっと拭った。
『……悪くない腕前だ、主よ』
ロンドが満足げに鼻を鳴らし、彼女の隣に降り立つ。
門番の獣人も、遠くで見ていたギルドマスターのバルドも
言葉を失ったまま彼女を見つめていた。
ただの無謀なエルフだと思っていた少女が
荒野の泥の中で
最も効率的で、最も残酷な「清掃」を行ったのだ。
オリビアは立ち上がり、汚れた衣服を払うと
まっすぐにギルドマスターを見つめた。
「まだ登録の資格は、あるかしら?」
その問いかけには、かつての控えめな少女の面影はなく
荒野の牙を持つ一人の戦士の響きがあった。




