銀霧の果てに
この街は、太古から脈々と生き続ける巨大な世界樹『イグドラル』の根幹に
抱かれるようにして築かれている。
街の建築様式は、生きた樹木の枝を精霊の加護によって硬化させ
複雑に絡み合わせた半有機的な建造物が主流だ。
壁面には淡い青色の光を放つ発光苔が張り付いており
夜間には街全体を幻想的な星空のただ中にあるかのような
穏やかな明かりで満たしている。
この街に住む長命のエルフたちは
穏やかな年月を何世紀もかけて積み重ねてきた。
オリビア・ノースウッドもまた、そのエルフの一人である。
彼女は、この街で代々「樹守」と呼ばれる清掃人の一族に生まれた。
仕事は、世界樹イグドラルの枝葉に溜まる精霊の澱みを払い
結界のほころびを修復すること。
それは、エルフたちの永遠に近い平和を影から維持するための
専門的かつ不可欠な職務だった。
厩舎の扉を引くと、鼻をくすぐる干し草の香りが広がった。
そこにいたのは、黄金色の毛並みと
誇り高い鷲の頭部を持つ魔獣――ヒッポグリフのロンドだ。
ロンドは、かつて両親が森で傷ついた状態で保護し
一族の知識を総動員して救い出した、彼女にとって唯一無二の家族だった。
『オリビア、今日も空は澄んでいる。
少しばかり腹が減ったが
お前の支度が終わるのを待っていたよ』
頭の中に直接響くのは
老練な戦士のような落ち着いた念話だ。
オリビアは笑みを浮かべ
専用のブラシでロンドの毛並みを整え始める。
一族に伝わる「丁寧さ」は、清掃という名の大切な職務においても
ロンドとの日常的な対話においても、彼女の誇りだった。
「待たせてごめんね、ロンド。今日も良い天気ね」
だが、彼女の手元は丁寧でも、その心は常に街の結界の外
地平線の向こうを向いていた。
(……エルフは長寿ゆえに、変化を嫌う。
この尊い仕事も、私にとっては永遠の牢獄のように感じることがあるの)
そんなある日の夕暮れのことだった。
穏やかな茜色に染まっていた空が
突如として粘り気のある毒々しい紫色へと塗り替えられた。
結界が砕ける音とともに、魔王軍がなだれ込んできた。
街は瞬く間に炎に包まれ
何世紀もかけて積み上げられたエルフの平和が
わずか数分で瓦礫の山と化した。
ロンドが翼を広げ、魔族を薙ぎ払う。
オリビアも手元にあった護身用のナイフで応戦するが
圧倒的な力の差の前には無力だった。
その時、彼女の視界を神聖な白銀の閃光が切り裂いた。
『――【極光の閃撃】』
煙の中に立っていたのは
伝説の転生勇者、アレクサンダー・中山。
彼の一撃が魔族を塵へと変えていく。
その圧倒的な力と、「守る」という意志の強さに
オリビアは言葉を失い、ただその背中を見つめた。
一夜明け、灰と化した街で
オリビアは自分の手を見つめていた。
その手には
昨日まで掃除道具の隅に差していた小さなナイフが握られている。
「……ここにはもう、私が守るべき日常はない」
彼女はノースウッド家の古い鞍をロンドの背に取り付けた。
街の門番の老人が、その覚悟を察して重い閂を外す。
彼は、オリビアが日々行っていた清掃が
実は街の結界の「軋み」を修復し
この都市を延命させていた唯一の行いだと知っていた。
「死ぬなよ。この街の誰もが、エルフの命の長さに甘え
精霊の加護が永遠だと信じ、傲慢になっていた。
だが、お前だけは毎日、目に見えない木の傷を癒やし
この街が『生かされている』ことに感謝していた」
老人は、彼女の瞳に宿る、決して濁ることのない強い光を見つめる。
「お前がその丁寧さで
この壊れた世界そのものと向き合えば
……お前なら、何かを変えられるかもしれないな」
重厚な木の扉が、乾いた音を立てて外側へと開かれた。
扉の向こうには
精霊の加護もない、剥き出しの自然が広がる広大な荒野があった。
それは、かつて憧れ続けた未踏の地であり
同時に彼女が冒険者として生きるための舞台だった。
「行くわよ、ロンド。私の物語を、ここから始めるの」
『ああ、いつでもいい。お前の行く先が
例えどんな地獄であろうとも、私はお前の翼だ』
ロンドが地面を蹴り、強靭な翼で空を掴む。
重力を振り切り、街の銀霧を突き抜けた二人の視界に
見たこともないほど広大な大地が広がった。
かつての「樹守の少女」はもういない。
彼女は今、広い空の下で、自らの意志を翼に託して飛び立った。




