血の契約、退却の調べ
「……これ以上は、分が悪い!」
ルカは意識が戻るや否や、周囲の影の騎士を蹴散らしながらオリビアの腕を掴んだ。彼の身体には依然として影の侵食が残っていたが、その瞳にはかつてない鋭い光が宿っている。
「オリビア、峡谷の底へ飛び込むぞ。ここを死に場所にさせるわけにはいかない!」
「ええ……今の私たちには、これ以上は無理ね」
オリビアは血を流す掌をルカの肩に強く押し当てた。二人の魔力が、血液を媒体にして混ざり合う。それは調律師同士が交わす、命を賭した「血の契約」だった。
ルカが持っていた短剣を岩壁へと突き立てる。オリビアがその刃に調律の魔力を流し込むと、岩壁がまるで波紋のように柔らかく揺らぎ、二人の身体を飲み込んだ。バルバトスが放った影の騎士たちが刃を振り下ろした先には、すでに二人の姿はなかった。
峡谷の中腹にある、巨大な岩の割れ目。二人はそこへ滑り込み、呼吸を整えた。
外からは影の騎士たちの咆哮が響いているが、この場所はかつて世界樹の根が癒やしのために使っていた「防護結界」の内側であり、影が侵入することはできない。
「……助かった。お前のその血の調律には、心底驚かされたぜ」
ルカは苦笑しながら、手当て用の布を傷口に巻いた。彼の顔色は少しずつ生気を取り戻している。
「あなたが生きていてくれたからよ。……でも、バルバトスはもう底にいる。彼を倒すための『完全な調律』には、あと一つのピースが足りない」
オリビアは、聖堂で手に入れた二つの短剣を並べた。そこには、勇者アレクサンダーが遺した、最後のメッセージがかすかな光となって浮かび上がっていた。
『根を癒やすには、調律師が自らの記憶を捧げ、守護者としての魂を世界樹に還す必要がある』
ルカがその一文を読み上げ、眉をひそめた。
「魂を還す……? つまり、俺たちはバルバトスを倒した後、人間としての生を終えるということか?」
「……かもしれないわね。でも、バルバトスに世界を蹂躙されるくらいなら、私はそうする」
ルカは少しの間黙り込み、それから短剣を鞘に収めて腰に下げた。
「そうか。……なら、最後まで付き合うさ。死神とエルフが世界を救って消えるなんて、皮肉で最高の物語じゃないか」
二人は結界の中で、最後の準備を整える。
身体の傷を癒やし、短剣の魔力を研ぎ澄まし、そして互いの「失いたくない記憶」を語り合った。
外ではバルバトスが嘲笑うように風を鳴らしているが、この小さな空間だけは、穏やかな時間に包まれていた。
「……行こうか。これが、俺たちの最後の調律だ」
二人は立ち上がり、結界を解除した。
峡谷の底――バルバトスが待つ深淵の中心へ、二人は迷いのない足取りで飛び降りた。




