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微睡みの代償

峡谷に吹き荒れる冷たい風が、オリビアの頬を撫でる。その寒さで、彼女はふと目を覚ました。

周囲は不気味なほどに静まり返っている。隣で眠っているはずのルカの気配がない。


「……ルカ?」


オリビアが上体を起こした瞬間、背筋に悪寒が走った。

ルカの姿がないのではない。岩陰にいる彼の姿が、まるで霧のように透け、消えかかっているのだ。


「そんな……!」


慌てて駆け寄り、ルカの肩を揺さぶる。しかし、触れた指先は硬い岩に触れたような感覚を残すだけで、彼の身体は半ば「影」に置き換わっていた。


『……残念だね、守護者の娘』


どこからともなく、バルバトスの冷ややかな声が響く。


『この峡谷には、古の魔王が遺した「忘却の澱み」が溜まっている。眠ることは、即ち己の存在をこの淀みに明け渡すこと。……彼の方は、あと少しで永遠にこの地の影の一部になる』


岩陰から、影の騎士たちがぬらりと姿を現した。休息によって体力を回復させるどころか、二人はバルバトスの罠にはまり、存在そのものを浸食されていたのだ。


「出しなさい……ルカを返して!」


オリビアは震える手で短剣を抜こうとする。だが、その手首には黒い影の枷が巻き付き、力が思うように入らない。

彼女自身もまた、影にその存在を貪られ始めていた。


『さあ、調律師の調べを、絶望の絶叫に変えてくれ。それがこの最果ての地の正しい終焉だ』


バルバトスの嘲笑とともに、影の騎士たちが一斉に二人へと飛びかかる。

武器を持たないオリビア、そして影の中に沈みゆくルカ。

これ以上ない絶体絶命の窮地。その時だった。


『――オリビア、諦めるな!』


空から、か細い声が聞こえた。ロンドだ。

彼は自分の魔力を全て使い切り、オリビアの瞳に「最後の光」を流し込んだ。

それは癒やしではなく、かつてアムズガルドの神殿で代々受け継がれてきた、「魂の目覚め(ウェイクアップ)」の術式。


「うっ……あぁぁぁっ!」


激痛がオリビアの全身を走る。影の枷が引きちぎられ、視界が真っ白に染まる。

彼女は倒れ伏すルカを抱きかかえ、持てる全ての魔力を指先に集中させた。


「……私の言葉が届かないなら、世界樹の根が直接あなたを呼び戻すわ!」


オリビアは短剣を自分の掌に突き立て、その鮮血を峡谷の岩肌に叩きつけた。

流血は峡谷の澱みと反応し、強烈な化学変化を起こす。

「調律」とは、ただ音を合わせるのではない。

「不協和音を、無理やりにでも浄化の調べへ上書きする」こと。


彼女の瞳が、青く輝き出す。

その光は、沈みかけていたルカの意識を強引に引き戻した。


「……くっ、オリビア……」


ルカが薄く目を開ける。しかし、二人の周囲にはすでに、数十もの影の騎士が刃を振り上げ、目前に迫っていた。

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