第五話「揺らぎ」
安土城は、静まり返っていた。
張り詰めた空気の中、足音だけがやけに大きく響く。
「——丹羽長秀、接近中」
報せが届いた瞬間、広間の温度がわずかに下がった。
その名が持つ重みを、誰もが理解している。
かつて同じ主に仕え、同じ戦場を駆けた男。
明智光秀は、静かに目を閉じた。
「……長秀殿か」
短く息を吐く。
「出来れば、戦いたくはないな」
隣にいた春日部が首をかしげる。
「なんで?」
光秀はわずかに視線を落とした。
「元より我らは、織田を支えるための武士であった」
「本来、刃を向ける相手ではない」
その言葉には、作りではない重みがあった。
春日部はしばらく考え——ふっと口元を緩める。
「……それ、使えるかも」
光秀がわずかに目を細める。
「交渉か」
「うん。ダメ元だけどね」
春日部は肩をすくめた。
「でも——やる価値はあるでしょ?」
やがて設けられた対面の場。
空気は冷え切っていた。
正面に立つのは、丹羽長秀。
その眼は鋭く、敵意を隠す気もない。
「では聞こう」
低く、重い声が響く。
「なぜだ、光秀」
「なぜお屋形様を討った」
一切の飾りのない問い。
だが、その裏にある怒りは明白だった。
光秀は逃げなかった。
「……止めたかったのだ」
丹羽の眉がわずかに動く。
「お屋形様は、確かに偉大であった」
「だが——急ぎすぎていた」
言葉を選びながら、しかし迷いなく続ける。
「このままでは、いずれ内から崩れる」
「それを、止めたかった」
静かな声だった。
だが、それだけでは足りない。
丹羽は冷たく言い放つ。
「それで討つか」
「納得できる話ではないな」
沈黙が落ちる。
空気が重く沈み込む。
——その時だった。
「……一つ、いい?」
軽い声が、場を切り裂いた。
春日部。
丹羽の視線が鋭く向く。
「何だ、小娘」
春日部は気にした様子もなく続けた。
「もし光秀さんがやらなかったらさ」
「——本当に何も起きなかったって言い切れる?」
丹羽の目が細くなる。
「何が言いたい」
「断定じゃないよ」
春日部は肩をすくめる。
「ただ、ちょっと“違和感”があってさ」
一歩だけ、間を置く。
「今回の動き」
「……違和感だと?」
「うん」
春日部は軽く指を立てた。
「例えばさ」
「——羽柴秀吉の戻り、早すぎない?」
空気がわずかに揺れる。
「それに兵のまとまり方」
「なんか出来すぎてる」
丹羽は何も言わない。
だが否定もしない。
春日部は続ける。
「あとさ——あの城」
「どう思った?」
丹羽の眉が、わずかに動いた。
「……妙な城だとは思った」
「でしょ」
春日部は小さく笑う。
「あれ、“戦うため”の城じゃないよ」
一拍。
「あれは——“見せるため”の城」
「……見せる、だと?」
「威圧、っていうかさ」
「“逆らえない”って思わせるための城」
空気が、変わる。
「戦う前に、心折りに来てる」
「そういう作りになってる」
丹羽は黙る。
だが、その沈黙は先ほどとは違っていた。
春日部はあえて踏み込まない。
「普通じゃないよね?」
わずかな間。
「断定はしない」
「でも——」
声を少しだけ落とす。
「全部を秀吉に任せるの」
「ちょっと危なくない?」
長い沈黙。
やがて丹羽が口を開く。
「……証拠はあるのか」
即答だった。
「ない」
一切の迷いがない。
「だから、賭け」
その言葉に、丹羽の目がわずかに変わる。
春日部は一歩前に出た。
「でもその代わり——勝ち筋はある」
「あなたが来たことで、それが現実になる」
「……ほう」
初めて、興味が混じる。
「信じなくていい」
「ただ、一度だけ」
「——あーしに賭けてみない?」
沈黙。
重い、長い沈黙。
やがて——
丹羽は静かに口を開いた。
「……条件がある」
光秀と春日部が視線を向ける。
「貴様らの言う“勝ち筋”」
「それが虚言であった場合——」
その声は冷たかった。
「私は即座に離反する」
「そして次は、容赦なく討つ」
はっきりとした敵意。
だが同時に——
今は討たない、という意思でもあった。
春日部はにやりと笑う。
「いいよ」
「それで十分」
光秀は深く頭を下げる。
「……かたじけない、長秀殿」
丹羽はそっぽを向いた。
「礼は不要だ」
「まだ何も、信じたわけではない」
そう言い残し、踵を返す。
だがその足取りは——
わずかに、軽かった。
外へ出た春日部は、小さく息を吐いた。
「……ギリギリ、かな」
光秀が隣で呟く。
「信じたとは言えぬな」
「うん。でもそれでいい」
春日部は空を見上げる。
「“疑い”が入った時点で、流れは変わる」
その視線の先——
遠く、摂津の方角。
そこにあるのは、異様な存在感を放つ城。
「……あの城」
光秀が呟く。
「崩せるのか」
春日部は首を振る。
「崩すんじゃないよ」
「使うの」
光秀の目が細くなる。
「……なるほど」
春日部は小さく笑った。
「さあて」
「あーし達の反撃——ここからだよ」
風が吹き抜ける。
戦はまだ、始まったばかりだった。




