第十四話「動かぬ理由」
徳川の陣は、変わらなかった。
整い、乱れず、静かに回っている。
兵は騒がない。
命令は短く、無駄がない。
誰もが、自分の役割を理解している。
——何も起きていないように見える。
だが。
何も起きていないはずがなかった。
本陣。
徳川家康は、動かない。
ただ座している。
それだけで、場は保たれている。
「申し上げます」
井伊直政が一歩進む。
「羽柴勢壊滅の報、各地へ伝わり始めております」
「そうか」
短い返答。
「周辺勢力も、様子見に入るかと」
「だろうな」
会話はそれで終わる。
だが——
次の言葉は、家康からだった。
「兵を下げよ」
沈黙。
本多忠勝が顔を上げる。
「……は?」
「前線を一段引け」
「敵前で、でございますか」
榊原康政が問う。
「構わぬ」
間。
「道を空けよ」
空気が止まる。
「それは……」
康政が言葉を選ぶ。
「敵を通すおつもりか」
家康は、わずかに目を細めた。
「敵ではない」
一拍。
「まだな」
沈黙。
誰も、すぐには理解できない。
忠勝が低く言う。
「……大谷吉継、にございますか」
家康は答えない。
代わりに、ゆっくりと口を開く。
「羽柴は終わった」
「黒田が動いた」
「そして——大谷が来る」
言葉を並べる。
順に。
確かめるように。
「繋がっている」
直政が、わずかに息を詰める。
「……すでに流れがあると」
家康は首を振る。
「決まってはおらぬ」
一拍。
「だが——流れてはいる」
沈黙。
「では」
康政が問う。
「我らはどう動くべきか」
家康は、迷わない。
「何もせぬ」
その一言。
忠勝の眉がわずかに動く。
「好機を逃すことにはなりませぬか」
「ならぬ」
即答。
「なぜです」
家康は、ゆっくりと目を開く。
「動く必要がない」
それだけ。
説明はない。
だが。
誰も、言い返さない。
理解はしていない。
だが——
「……承知」
従う。
三人が下がる。
足音が遠ざかる。
本陣に、再び静寂が戻る。
家康は、一人になる。
風が、帳を揺らす。
(流れたか)
誰にも聞こえない声。
(ならば——)
言葉は続かない。
目を閉じる。
(来る)
それだけ。
風が吹く。
何も動いていない。
だが。
確実に、何かが近づいていた。




