第十話「静かな継承」
安土城は、穏やかだった。
戦の直後とは思えないほどに。
風が、静かに吹き抜ける。
兵たちの声も、どこか緩んでいる。
春日部は廊下を歩きながら、ぼんやりと考えていた。
(まあ……池田城落としたって言っても)
(本隊には全然ダメージ入ってないし)
(これじゃ——普通は離れるか)
それでも——
(……残ってる人もいる)
それが少し、不思議だった。
その時。
「退屈だな」
声。
振り向くと、柱にもたれかかる男。
前田慶次。
腕を組み、つまらなそうに空を見ている。
「戦が終わったばっかでしょ」
春日部が呆れる。
「終わったから退屈なんだよ」
即答。
「血の匂いがしねえ場所は、どうにも落ち着かねえ」
(うわあ……)
春日部は軽く引いた。
(この人、やっぱりヤバい)
「で?」
慶次が視線だけこちらに向ける。
「次はどうする」
試すような目。
完全に。
(ほんと、この人ブレないな)
春日部は肩をすくめた。
「まだ決めてない」
「ほう?」
「情報足りないし」
少しだけ、間。
「……あと、ちょっと様子見」
慶次の口元が歪む。
「逃げじゃねえのか?」
「違う」
即答だった。
「勝つための待ち」
一瞬の沈黙。
そして——
「いいねえ」
慶次が笑う。
「そういうのは嫌いじゃねえ」
その笑みは、どこか楽しそうだった。
少し離れた場所。
そのやり取りを、静かに見ている男がいた。
丹羽長秀。
腕を組み、何も言わない。
ただ、見ている。
春日部の動き。
言葉。
周囲の反応。
そして——
慶次。
(……異質だな)
内心で呟く。
あの男は制御されていない。
にもかかわらず、暴れていない。
(縛っておらぬ……か)
視線を春日部へ戻す。
(いや——)
(縛る必要がないのだな)
小さく、息を吐く。
理解はしている。
池田城での戦。
あの判断。
あの速さ。
(理に適っている)
だが——
(……我らの戦ではない)
ほんのわずか。
胸の奥に、引っかかるものが残る。
それでも。
結論は、出ていた。
やがて。
広間に、数人が集められた。
光秀。
春日部。
慶次。
そして——長秀。
空気は、静かだった。
「……長秀殿?」
光秀が口を開く。
「何用か」
長秀は一歩前に出る。
ゆっくりと。
迷いのない足取りで。
「一つ、申し上げる」
その声は、落ち着いていた。
「此度の戦——見事であった」
春日部が目を瞬かせる。
(え、急に褒められたんだけど)
長秀は続ける。
「無駄がない」
「早い」
「そして——確実に勝つための戦であった」
評価。
はっきりとした。
光秀は静かに頷く。
「かたじけない」
だが——
長秀はそこで言葉を切った。
一拍。
そして。
「……ゆえに」
空気が、わずかに変わる。
「我が役目は、ここまでと判断した」
沈黙。
「……何?」
春日部が思わず声を漏らす。
光秀の目が細くなる。
「それは……」
長秀はまっすぐ前を見る。
「もはや、老骨の出る幕ではない」
静かな声。
だが、その重みは大きい。
「だが——」
一瞬だけ、間。
「見誤ったわけではない」
視線が、春日部へ向く。
「これは、“勝つ戦”だ」
春日部は言葉を失う。
(いや、ちょっと待って)
(それって——)
「え、なんで辞めるんですか?」
思わず口に出ていた。
空気が止まる。
「普通に戦えるでしょ?」
率直すぎる言葉。
慶次がくくっと笑う。
長秀は、わずかに目を細めた。
「……そうだな」
否定はしない。
「だが——」
視線を外す。
「これは、我らの知る戦ではない」
その一言。
それが、すべてだった。
沈黙。
光秀が静かに口を開く。
「……決意は、固いか」
「ああ」
即答だった。
迷いはない。
「ならば——止めはせぬ」
短い承認。
長秀は、深く一礼した。
「長重」
呼ぶ。
控えていた男が、一歩前に出る。
丹羽長重。
若い。
だが、その目は真っ直ぐだった。
「父の命により、参上いたしました」
静かな声。
長秀は頷く。
「行け」
「は」
「春日部殿のもとで学べ」
一瞬の間。
「我らとは違う戦を、その身で知れ」
長重は、深く頭を下げた。
「……承知」
静寂。
その空気を、慶次が破る。
「いいねえ」
楽しそうに笑う。
「時代が変わる音がする」
誰も否定しない。
それが、事実だったからだ。
長秀は、もう振り返らない。
その背は、静かに遠ざかっていく。
止める者はいない。
春日部は、その背中を見ていた。
(……なんか)
(思ってたのと違う)
勝ったのに。
強くなってるのに。
(これ——)
胸の奥に、言葉にできない感覚が残る。
それでも。
前には進んでいる。
確実に。
風が吹く。
安土の空に、雲が流れる。
戦はまだ、終わっていない。
だが——
何かが、確かに変わった。




