第三十三話「向こう側が、踏み込んでくる」
水面が揺れた瞬間、空気の質が変わった。
さっきまでの“繋がっている”という感覚ではない。
もっと直接的で、もっと危険な――
**境界そのものが、こちらへ寄ってくる感覚。**
「下がって!」とリゼットが叫ぶ。
全員が反射的に距離を取る。
机が揺れ、水の器が音を立てる。水面の像が乱れ、真理と母の姿が歪む。
でも、消えない。
むしろ――濃くなる。
「……近づいてる」とノエルが言う。
「違う」とセオドア。
「“重なっている”」
その表現が一番しっくりきた。
こちらが向こうを見るんじゃない。
向こうが、こちらに重なってきている。
私は、無意識に一歩前へ出ていた。
「ユイ、危険です」とリゼット。
「わかってる」
でも、目が離せない。
水面の中で、真理がはっきりとこちらを見ている。
その隣で、母も同じように視線を向けている。
さっきまでは、偶然が重なった接続だった。
でも今は違う。
**向こうも“意図して見ている”。**
「……真理」
思わず名前を呼ぶ。
届くかどうかもわからないのに。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
水面の中で、真理の口が動く。
音は聞こえない。
でも、今度ははっきりわかった。
「――ユイ」
ノエルが息を呑む。
「……今、呼ばれましたよね」
「うん」
私は頷いた。
間違いない。
これはもう一方通行じゃない。
**双方向だ。**
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そのとき。
水面の中の真理が、ノートをこちらに向けた。
何かが書かれている。
文字はぼやけている。
でも、少しずつ、輪郭が浮かび上がる。
『そこにいるの?』
短い一文。
でも、それだけで十分だった。
私はすぐに紙を取る。
でも、手が止まる。
ここで書くことは、ただの返事じゃない。
**構造への干渉**になる。
セオドアが低く言う。
「慎重に。今の状態は安定していない」
「わかってる」
でも。
私はペンを握る。
書く。
迷いはある。
でも、止まらない。
『いる』
たった一文字。
それだけでいい。
水面が震える。
真理が、息を止めるような顔をする。
その隣で、母が――
泣いた。
「……っ」
胸が締まる。
ノエルが、そっと呟く。
「お母さん……」
私は何も言えなかった。
ただ、見ているしかない。
あちらの時間が、こちらに流れ込んでくる。
母が、何かを言う。
声は届かない。
でも、口の形でわかる。
「ほんとに?」
真理が、強く頷く。
そして――
ノートに、さらに書き始める。
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その瞬間。
空間が、裂けた。
今度ははっきりと。
視界の端で、黒い亀裂が走る。
「来た!」とリゼット。
剣を抜く音。
セオドアが結界を展開する。
鏡の担い手が前へ出る。
鍵の担い手が、楽しそうに目を細める。
「タイミング最悪だね」
「最悪じゃない!」と私は叫ぶ。
「むしろ――」
言い切る。
「重なってるから来たんだ」
セオドアがはっとする。
「……そうか」
「現世と繋がった状態で、構造が不安定になってる」
「だから、より深い層が引き寄せられた」
つまり。
今現れている“これ”は、
ただの敵じゃない。
**現世と異世界の境界が揺れた結果、引きずり出された存在。**
亀裂が広がる。
そこから、何かが現れる。
人の形をしている。
でも、完全じゃない。
輪郭が曖昧で、ところどころ欠けている。
顔が、定まらない。
男にも女にも見える。
年齢もわからない。
でも――
「……これ」とノエルが震える声で言う。
「人、ですよね」
「元はな」と鏡の担い手。
「でも今は違う」
その存在が、一歩前に出る。
足音がしない。
ただ、そこに“現れる”。
そして――
口を開く。
「――どうして」
声が、二重に聞こえる。
こちら側と、向こう側。
両方から同時に。
「どうして、書かなかった」
その言葉に、私は息を呑んだ。
理解する。
これは――
「没キャラ……?」
鍵の担い手が笑う。
「いいね。来たね」
その存在は、こちらを見る。
いや――
**私だけを見ている。**
「どうして」
もう一度。
今度は、はっきりと。
「どうして、途中で終わらせた」
頭の奥が、軋む。
記憶が揺れる。
確かにある。
書こうとして、やめたキャラ。
設定だけ作って、使わなかった存在。
名前すら決めずに、放置した誰か。
「……っ」
言葉が出ない。
そのとき。
アリアが前に出る。
「下がってください」
「でも――」
「今は、あなたが前に出るべきじゃない」
その声は、強かった。
私は一歩、下がる。
アリアが、その存在と向き合う。
「あなたは、何を求めていますか」
「決まってる」
その存在は言う。
「続きを」
一瞬、静寂が落ちる。
そして――
その背後で、空間がさらに歪む。
まだいる。
一体じゃない。
「まずい」とセオドア。
「増えるぞ」
「未確定の存在は、連鎖する」
つまり。
ここで止めないと、
**“書かれなかったもの全部”が出てくる。**
リゼットが剣を構える。
「戦闘に入ります」
鏡の担い手が言う。
「弱点はない。存在理由そのものが核だ」
「最悪じゃないですか!」
ノエルの叫びが響く。
鍵の担い手が、軽く言う。
「でも、やることはシンプルだよ」
「何」
「書けばいい」
私は、ペンを握る。
でも、手が震える。
これは、さっきの敵と違う。
ただの構造じゃない。
**私の“やらなかったこと”そのものだ。**
そのとき。
水面の中で、真理が叫ぶ。
声は聞こえない。
でも、わかる。
「書いて」
その一言で、手が止まる。
そして――
動く。
私は紙に、書く。
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物語は、まだ終わっていない。
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その一文が落ちた瞬間、
世界が、もう一度、大きく揺れた。




