第三十二話「書かれていない日常」
封鎖区画の奥で感じた“次の揺れ”は、結局その場では現れなかった。
あれほどはっきりと空間が歪んだのに、いざ踏み込もうとすると、何もない。ただの石畳と、乾いた風と、遠くの王都の音だけが残っている。
「……逃げた、わけじゃないですよね」とノエルが言う。
「逃げるというより、まだ“決まってない”んだろう」とセオドアが答えた。「発生条件が揃っていない。あるいは――」
「あるいは?」
「こちらが近づきすぎたことで、別の分岐に押し出された」
それは、可能性としてはあり得る。
でも、どちらにしても同じことだ。
「つまり、まだ来るってことだよね」と私は言った。
「ええ」とリゼットが頷く。「あの規模の歪みが消えるとは思えません」
鍵の担い手が肩をすくめる。
「いいじゃん。あとでまた遊べる」
「遊びじゃない」とリゼットが即座に返す。
「わかってるよ。でも、重く考えすぎると判断鈍るでしょ」
軽い。軽すぎる。
でも、それがこの人の役割だとも思う。
鏡の担い手は何も言わない。ただ、少しだけ遠くを見ている。あの人は常に“今”じゃなくて、“今を含んだ全体”を見ている感じがする。
そして――
アリアは、静かだった。
彼女はさっきから、ずっと考えている。
温泉で見た“自分の終わり”と、ユイがそれを「採用しない」と書いたこと。その両方を抱えたまま、次へ進もうとしている。
私は少しだけ迷ってから、声をかけた。
「……大丈夫?」
アリアは一瞬だけこちらを見る。
「何がですか」
「いろいろ」
少しだけ間が空く。
それから、彼女は小さく息を吐いた。
「大丈夫じゃないですよ」
正直すぎて、逆に安心する。
「でも」
彼女は前を向く。
「だから止まる、にはなりません」
「うん」
「止まったら、それこそ“あの終わり”に戻るだけなので」
その言葉は、静かだったけど強かった。
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結局、私たちは一度、外縁の手前まで戻ることにした。
完全に撤退するわけじゃない。
ただ、今の状態で奥へ進むのは危険すぎる。
「一旦、情報を整理するべきです」とセオドアが言った。
「賛成」と私は答える。「さっきのやつ、まだちゃんと理解しきれてないし」
ノエルが大きく頷く。
「あと、普通に休みたいです」
「さっき温泉入ったばかりでしょ」
「精神的な話です!」
リゼットが小さく笑った。
その笑い方が少し柔らかくて、私はちょっと驚いた。この人、こういう顔もするんだなと思う。
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王都の外縁にある小さな休憩区画。
本来は巡回兵や調査官が使う場所で、簡単な机と椅子、水と保存食が置かれている。豪華ではないけど、落ち着くには十分だった。
「……なんか、こういう場所久しぶりかも」とノエルが言う。
「何が」とリゼット。
「普通の場所」
その言葉に、少しだけ空気が緩む。
確かにそうだ。
最近はずっと、書庫だの地下だの、構造の深い場所ばかりだった。
“ただの部屋”にいるのが、逆に新鮮に感じる。
私は椅子に座って、少しだけ息を吐いた。
「……ねえ、整理しよう」
「何をですか」とセオドア。
「今の状況」
私は指を折りながら言う。
「まず、王都崩壊の未採用案はまだ残ってる」
「はい」
「鏡がいるから、分岐は見える」
「ええ」
「鍵がいるから、構造は開ける」
「そうだね」と鍵の担い手。
「でも――」
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「“そのあと”がまだ決まってない」
沈黙。
それが一番の問題だった。
壊すことはできる。
分岐を増やすこともできる。
でも。
「選ぶのが難しい、って話だったよね」と私は言う。
「その通り」と鍵の担い手。
「壊すだけなら簡単。でもそのあとどうするかは、全部君たちの問題」
「丸投げすぎない?」
「役割分担だよ」
その言い方に、私は苦笑する。
でも、否定できない。
アリアが静かに言う。
「選ばないといけないのは、確かです」
「うん」
「でも、まだ材料が足りません」
セオドアが頷く。
「担い手が揃っていない。剣も歌も不在。情報も不足している」
「つまり?」とノエル。
「まだ“決める段階ではない”」
それは、救いでもあり、焦りでもあった。
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そのとき。
ふっと、空気が揺れた。
全員が同時に顔を上げる。
「……来た?」とノエル。
「違う」と私は言う。
これは、さっきの歪みじゃない。
もっと――
「薄い」
セオドアも同じことを感じていた。
「境界の揺れだ」
私はすぐに紙を引き寄せる。
でも、書く前に気づく。
これは、外じゃない。
**内側から来ている。**
水面の揺れに似ている。
あの温泉と、同じ感覚。
「……まさか」と私は呟く。
机の上に置いてあった水の入った器を覗き込む。
そこに――
映っていた。
現世。
真理が、またノートを開いている。
そして、その横に――
見慣れた人がいた。
母だ。
「……っ」
思わず息が詰まる。
母は、真理の隣に座っている。
何か話している。
聞こえない。
でも、わかる。
あの顔は――
心配している顔だ。
ノエルが覗き込む。
「これ、また現世……?」
「うん」
リゼットは少し距離を置いたまま、警戒を解かない。
「接続が安定しているわけではないはずです。なぜここで」
セオドアが言う。
「場所の問題ではない。状態だ」
「状態?」
「こちら側の構造が揺れているから、向こうと繋がりやすくなっている」
つまり。
今の私たちは、
**“外と繋がりやすい状態”にいる。**
それは――
チャンスでもあり、危険でもある。
真理が何かを書く。
ゆっくりと。
そして、顔を上げる。
今度は――
はっきりと、こっちを見た。
「……見えてる」
私は小さく言った。
アリアが横に立つ。
「ええ」
「これ、繋がってる」
「完全ではないですが」
それでも、十分だった。
私は紙を握る。
書くべきか。
迷う。
ここで下手に書けば、また何かが壊れる。
でも――
母がいる。
真理がいる。
私は、深く息を吸った。
そして、短く書く。
『大丈夫』
それだけ。
短く。
曖昧に。
でも、確実に届く言葉。
水面が揺れる。
真理が目を見開く。
母が、何か言う。
声は聞こえない。
でも、その口の動きで、なんとなくわかる。
「……ほんとに」
ノエルが呟く。
「繋がってるんだ」
私は頷く。
「うん」
そのとき。
水面が、大きく揺れた。
違う。
これは――
「来る」と鏡の担い手が言った。
全員が立ち上がる。
さっきのとは違う。
もっと強い。
もっと近い。
空間が、今度こそ裂ける。
そして――
**次の“何か”が、こちら側へ現れようとしていた。**




