第三十話「湯けむりの中の分岐」
戦いのあと、空気は妙に軽かった。
さっきまでの歪みが嘘みたいに、封鎖区画の奥は静まり返っている。
壊れた設定の残滓も、未完成の揺れも、今は感じない。
その代わりに、別のものがあった。
「……なんか、あったかくない?」
ノエルが言う。
私は足を止める。
たしかに。
空気が、ほんのりと温かい。
地下とは違う。
戦闘後の熱気とも違う。
もっと――やわらかい温度。
「水の気配がする」とリゼットが言う。
鍵の担い手がくすっと笑う。
「いいね。そういう流れ」
「何が」と私は聞く。
「戦ったあとに癒しがあるやつ。読者が喜ぶやつ」
「メタいこと言うな」
「だってそういう構造でしょ、これ」
否定できないのが腹立つ。
でも、嫌じゃない。
「……行こう」と私は言う。
アリアが一歩前に出る。
「こっちです」
迷いはない。
さっきの戦闘とは違う“導き”。
危険じゃない方向。
でも、意味のある場所。
少し進むと、視界が開けた。
そこは、広い空間だった。
石造りの壁に囲まれた、円形の広場。
中央には、水が湧いている。
透き通った湯。
白い蒸気が、ゆっくりと立ち上っている。
「……温泉?」とノエル。
「温泉だね」と私は言う。
でも、ただの温泉じゃない。
水面が、揺れている。
ただの波じゃない。
何かを“映している”。
「これ……」と私は近づく。
覗き込む。
そこに映っていたのは――
見覚えのある部屋。
私の部屋。
現世の。
机。
パソコン。
散らかったノート。
そして。
そこに、真理がいた。
「……っ」
思わず息が止まる。
真理が、私のノートを開いている。
何かを書いている。
その手が、止まる。
顔を上げる。
――こっちを見る。
「……見えてる?」
思わず呟く。
アリアが横に来る。
「どうしました」
「これ……」
アリアも水面を見る。
そして、少しだけ目を見開く。
「……現世」
「うん」
その一言で、全員が集まる。
ノエルが覗き込む。
「うわ……すごい」
リゼットは警戒したままだが、視線は離さない。
セオドアは静かに観察している。
鍵の担い手は、楽しそうに言った。
「記録温泉だね」
「何それ」と私は言う。
「記録の層が薄くなってる場所。過去とか、別の層とか、そういうのが映る」
「……便利すぎない?」
「その代わり、見たくないものも見えるよ」
その言葉に、私は少しだけ息を呑む。
でも、目は逸らさない。
水面の中で、真理が何かを書く。
紙に。
ゆっくりと。
その文字は、こちらには見えない。
でも――
「……書いてる」
「ええ」とアリアが言う。
「あなたに向けて」
その言葉に、胸が締まる。
距離は遠い。
でも、確かに繋がっている。
「……いいね、これ」とノエルが言う。
「ちょっと感動してる」
「感動するの早いよ」と私は言う。
「いや、だって……」
ノエルは少しだけ言葉を探してから言った。
「ちゃんと、戻れる感じする」
その一言に、空気が少しだけ変わる。
重さが、少し軽くなる。
私は、少しだけ笑った。
「……うん」
戻る。
それも、ゴールの一つだ。
でも、それだけじゃない。
今はもう、わかっている。
そのとき。
アリアが、静かに言った。
「……もう一つ、見えます」
「え?」
彼女は別の場所を指す。
水面の端。
そこに、別の像が揺れている。
私はそちらを見る。
そして――
言葉を失った。
そこに映っていたのは、
王都の中心。
心塔。
その頂上に――
アリアが立っている。
白い光に包まれて。
静かに。
消えようとしている。
「……っ」
反射的に目を逸らしかける。
でも、止める。
見ないといけない。
これは、本来の分岐。
正史。
アリアは、その光景をじっと見ていた。
表情は、変わらない。
でも、指先がわずかに震えている。
「……これが」
彼女は小さく言う。
「“正しい終わり”ですか」
私は答えない。
答えられない。
その代わりに、私はペンを握る。
そして、水面の横に座る。
「ユイ?」とノエル。
「ちょっと待って」
私は紙を広げる。
書く。
迷わない。
『この終わりは採用しない』
その瞬間。
水面が揺れる。
アリアの消える光景が、歪む。
完全には消えない。
でも、確実に変わる。
「……変わった」とノエル。
セオドアが静かに言う。
「分岐の固定が外れたな」
アリアが、ゆっくりとこちらを見る。
「……あなた」
「うん」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
私は少しだけ笑う。
「でも、やるって決めたから」
アリアは、しばらく何も言わなかった。
それから――
ほんの少しだけ、笑った。
「……そういうところ、嫌いじゃないです」
その一言に、胸が少しだけ軽くなる。
鍵の担い手が、横で言う。
「いいね、これ」
「何が」
「構造と感情、ちゃんと繋がってる」
「うるさい」
でも、否定はしない。
その通りだから。
リゼットが周囲を確認する。
「ここは、一時的に安全です」
「じゃあ」とノエルが言う。
「ちょっと休憩、いいですか」
私は頷く。
「いいよ」
その一言で、緊張がほどける。
湯けむりの中。
水の音。
静かな空間。
戦いのあと。
分岐のあと。
そして――
少しだけ、日常。
私はふっと息を吐いた。
この時間があるから、進める。
ずっと戦い続けるだけじゃ、壊れる。
アリアが隣に座る。
少しだけ距離を空けて。
でも、遠くない。
「ねえ」と私は言う。
「何ですか」
「さっきのやつ」
「どれですか」
「消えるやつ」
アリアは少しだけ目を細める。
「……見ましたね」
「見た」
「どう思いました」
私は少しだけ考える。
それから、正直に言う。
「嫌だった」
「そうですか」
「めちゃくちゃ嫌だった」
アリアは、少しだけ笑った。
「よかったです」
「何が」
「同じなので」
その言葉で、空気が少しだけ変わる。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
私は水面を見る。
もう、さっきの光景ははっきり映っていない。
でも、消えたわけじゃない。
まだ、そこにある。
「……消すよ」と私は言う。
「ええ」
「ちゃんと」
「お願いします」
短い会話。
でも、それで十分だった。
湯けむりの中。
物語は、次の段階へ進む準備をしている。
戦いだけじゃない。
選択だけでもない。
**この時間も、全部必要だ。**
私は目を閉じる。
少しだけ休む。
そして、また進む。
次は――
剣か、歌か。
それとも。
もっと厄介な“没設定”か。
でも、もう迷わない。
この物語は、
**選び直す物語だから。**




