第二十話「あなた、本当にユイなの?」
第十一話からここまで、私はずっと“返す”ことだけを考えてきた。
真理から届いた最初の紙片に返事をしたいと思った。
そこから、家族のいる場所を見た。
未送信の手紙の箱を開き、青いノートを辿り、真理へ最初の断片を送った。
そして第十八話で、真理は青いノートの中にあったヒロイン設計へ触れ、第十九話では、ついにアリア自身が“読まれる側”として反応した。
ここまでの流れは、全部ひとつの線で繋がっている。
向こうが私を探し、こちらが向こうへ痕跡を返し、互いにページをめくり合っている。
それは確かに前進だった。嬉しかったし、苦しかったし、間違いなく熱もあった。
でも、前に進めば進むほど、避けられなくなる問いもある。
**本当にそれは、あなたなのか。**
その問いが来ることを、私はたぶんずっと知っていた。
知っていたからこそ、ここまで“断片”で逃げてこられたのかもしれない。
断片は便利だ。
共有記憶の一文、青いノートのページ、コンビニの風景、ダサいタイトル。
それらは相手に届くし、確かに私らしい。けれど断片である限り、最後のところまでは踏み込まなくて済む。
私は私だと、真正面から言い切らなくて済む。
でも第二十話の朝、私はその逃げ道がもう残っていないことを知った。
北棟書庫の奥、第二閲覧室よりさらに小さい記録室に入ると、机の中央に薄い銀の板が置かれていた。未送信の手紙の箱でも、透明な観測板でもない。初めて見る道具だ。表面は鏡のように光を返すのに、こちらの顔は映らず、代わりに白い霞のようなものが内側でゆっくり流れている。
「何これ」
私が椅子を引きながら聞くと、セオドアは珍しく最初から説明に入った。
「境界応答板。質問を通すための板だ」
「質問?」
「今までは断片の送受信だった。だが、第十九話で人物核が直接反応した以上、次に起こるのは“問い”だ。向こうも、もう雰囲気や記憶の断片だけで満足しない」
私は、そこで少しだけ指先を止めた。
向こうも、満足しない。
たしかにそうだ。真理ならそうなる。
あの人は、感情だけで飛びつくタイプじゃない。飛びついたあと、必ず確認する。信じると決めた相手ほど、ちゃんと疑う。雑に信じないし、雑に許さない。それが真理だ。だからこそ、ここまで来られた。
ノエルが、板の横に記録用紙を重ねながら緊張した声で言う。
「昨夜から向こうの応答が少し変わってるんです。今までは断片とか、反応とか、そういう“にじみ”だったんですけど、今日は違う。もっと、意志がはっきりしてる」
「……真理?」
「たぶん」
リゼットが壁際から口を挟む。
「感情の確認ではなく、本人確認に入った可能性が高いです」
本人確認。
その四文字は、やけに重かった。
私は椅子に座ったまま、机の上の板を見つめた。光を返さない銀の面が、こちらを待っているように見える。
アリアは、今日は最初からいた。
窓辺ではなく、部屋の奥の書棚にもたれ、腕を組んでこちらを見ている。第十九話のあとで少し疲れた様子はある。でも逃げていない。そのことが、今は妙に心強かったし、同時に不安でもあった。今日の問いは、きっと私だけに向くものではない。私が“誰か”を問われるなら、アリアもまた“どう見られるか”の余波を受ける。
「始める前に確認しておく」とセオドアが言う。「今日は情報を送ることが目的じゃない。問われたことにどう答えるか、その構造を観測する」
「構造って」
「答えの内容だけではなく、“何を答えられないか”も含めてな」
私は苦笑した。
「嫌な言い方」
「嫌な事実だからな」
そこで、部屋の空気が変わった。
誰かが入ってきたわけじゃない。
結界が揺れたわけでもない。
でも、空気がこちらを向いた。そんな感覚がした。
銀の板の表面に、薄い線が一本走る。
次いでもう一本。
それらが交差し、文字の形を作り始める。
ゆっくりと。
逃げ道を塞ぐみたいに、はっきりと。
――あなた、本当にユイなの?
私は、呼吸を忘れた。
真理だ。
たぶん誰よりも、この問いを投げる資格がある人。
そして、誰よりもこの問いを投げてほしくなかった人。
部屋の中がしんと静まる。ノエルが紙を握る音さえ大きく感じた。リゼットは一歩前へ出かけて止まり、セオドアは板から私へ視線を移す。アリアだけが、少しだけ目を伏せた。
あなた、本当にユイなの?
これまでの断片は、全部“ユイらしさ”を証明していた。
雨の日の屋上。ダサいタイトル。青いノート。家族だけが知っている癖。
でもそれらをいくら積んでも、“本当にユイか”という問いには最後まで届かない。
だって、もし誰かが私の書き癖や思い出や家族との記録を全部なぞれたら、同じ断片は作れてしまうかもしれない。
極端に言えば、いまここにいる私は、“ユイだったもの”を引き継いだ何かである可能性だってある。
異世界の肉体に入り、物語を書き換え、向こうと繋がり始めた存在。
それが本当に、現世の由衣と同一だと、誰がどう証明する?
真理はそこまで考えている。
だからこの問いを送ってきた。
私はすぐには口を開けなかった。
答えようとすればするほど、言葉が安っぽくなる気がしたからだ。
“本物だよ”なんて、いくらでも言える。
“生きてるよ”も、“戻りたいよ”も。
でもそのどれも、今ここで真理が欲しい答えではない。
「答えないんですか」と、アリアが静かに言った。
私はそちらを見た。彼女は書棚にもたれたまま、表情を動かさない。
「答えたいよ」
「でも?」
「でも、“はい、そうです”って言った瞬間、嘘になる気がする」
アリアの目が少しだけ細くなる。
セオドアは黙っている。
ノエルはたぶん意味が半分しかわかっていない。それでも必死に聞いている顔だった。
「どういう意味ですか」とリゼットが問う。
私は板に浮かぶ問いを見つめたまま、ゆっくり言葉を選んだ。
「私は、たぶん由衣のままだよ。真理と屋上にいた私だし、母の癖を知ってる娘でもあるし、弟の言い方に腹が立つ姉でもある。でも同時に、ここに来てから変わったものもある。この世界のユイとして見たもの、書いたもの、選んだものが、もう私の中にある。だから“前と完全に同じ由衣です”って言い切るのは違う」
それは真理への答えである前に、自分自身への確認でもあった。
私は変わった。
変わっていない部分もある。
その両方が本当だ。
観測板の文字はまだ消えない。
向こうが続きを待っている。
私は息を吸った。
「真理は、たぶん“由衣らしい断片”が欲しいんじゃなくて、“今の私が、自分で自分をどう名乗るか”を聞いてる」
セオドアが小さく頷いた。「その解釈は正しいだろう」
「だったら、断片じゃ駄目だ」
そう言ってから、私は机の上の白紙へ手を伸ばした。
今日は情報送信じゃない。
でも、言葉は必要だ。
向こうへ届くかどうか以前に、私は自分の答えをここで書かなければならない。
ペン先を紙に当てる。
すぐには書けない。
迷いが、そのまま手に出る。
すると、アリアが不意に言った。
「ねえ、ユイ」
私は顔を上げた。
彼女は少しだけ視線を逸らし、それから淡々と続けた。
「わたしが第十九話で“読まれるのが嫌だ”って言ったとき、あなた、ちゃんと見るって言ったでしょう」
「うん」
「だったら、自分にも同じことをしてください」
その言葉は、予想外に真っ直ぐだった。
「自分を、ちゃんと見て答えて」
私はしばらく彼女を見つめた。
やっぱり、この子はずるい。
欲しいときに欲しい言葉をくれるわけじゃない。むしろいつも少し遅い。でも、遅いくせに一番必要なところへ届く。
「……わかった」
小さく返して、私は紙へ書いた。
『真理へ。私は由衣のままじゃない。でも、由衣がいなくなったわけでもない。』
そこで一度、手が止まる。
重い。
でも、まだ続けなければ駄目だ。
『そっちにいた私が書けなかったことを、こっちで書いてる。こっちで見たことを、そっちの私が知らない。だから完全に同じとは言えない。でも、屋上の続きも、青いノートも、あんたにだけ見せた最悪な下書きも、捨ててない。捨てられない。』
書いている途中で、胸の奥がじくじくと熱くなった。
これは記述の反動じゃない。
もっと単純に、自分のことを自分で説明する痛みだ。
私はさらに一行、書き足す。
『だから、“前の由衣そのまま”じゃなくても、今の私を由衣だって呼んでほしい。』
書き終えた瞬間、部屋の空気が強く震えた。
ノエルが思わず声を上げる。「来ます!」
銀の板が白く曇る。
そこに今度は、文字ではなく情景の断片が差し込んできた。
現世。
真理の部屋ではなく、由衣の部屋。
机の前に座る真理。
手元には青いノート。
その横に、私の古い原稿ファイルを開いたノートPC。
後ろのドアの隙間から、母が心配そうに覗き、弟は廊下の壁にもたれている。
真理は、今の文を読んでいた。
正確には、“文そのもの”が届いたわけじゃない。
でも、私が書いた答えの輪郭が、向こうで言葉として立ち上がっているのがわかる。
真理の顔が、少しだけ歪んだ。
怒っているようにも、泣きそうにも見える。
ああ、そうだ。
この人は、こういうとき簡単に泣かない。先に腹を立てる。
唇が動く。
「……ずる」
声は聞こえない。でも読める。
次に、真理はノートPCへ何かを打ち込む。
画面に文字が走る。
その瞬間、銀の板の表面に新しい問いではなく、返答が浮かび上がった。
――それ、本人しか言わないやつ
私は、そこでようやく笑ってしまった。
真理らしい。
泣くでもなく、感動の台詞でもなく、まずそこなのだ。
でも、その一文に全部入っている。
“完全に納得した”でもなく、
“全部信じた”でもなく、
“でも、それはたしかにあんただ”という認定。
胸の奥の何かが、そこで少しだけほどけた。
「……来ましたね」とノエルが震える声で言う。
「来たな」とセオドア。
リゼットは深く息を吐いてから、私を見た。
「これでいいんですか」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
これでいい。
たぶん、そうだ。
でも“これで終わり”じゃない。
真理はたぶん、まだ完全には安心していない。
私だってそうだ。
私は自分を説明できたけれど、全部を説明しきれたわけじゃない。
ただ、一番大事なところ――変わったことを認めながら、それでも今の私を“由衣だ”と呼んでほしい、という願いだけは渡せた。
「いいと思う」と、代わりにアリアが言った。
皆が彼女を見る。
彼女は少しだけ壁から身を離し、いつもより静かな声で続けた。
「少なくとも、“昔の自分そのままでいようとしない答え”だった。そういうの、たぶん向こうの真理は嫌いじゃないでしょう」
私は苦笑する。
「何そのわかったような言い方」
「だって、真理はあなたの友人なんでしょう」
「そうだけど」
「だったら、“変わってないって嘘をつく由衣”より、“変わったことごと受け止めてほしい由衣”の方を選ぶと思います」
その言い方が、妙に優しかった。
アリアは外側を嫌う。
現世に読まれることを嫌う。
でも、それでもなお、真理という存在を雑に扱わない。たぶん彼女の中で、真理はもう“外側の邪魔者”ではなく、私を形作る大事な一部として認識され始めているのだと思う。
「……ありがと」と私は言った。
アリアは少しだけ目をそらす。
「今日は礼を言われる筋合いはないです」
「何で」
「わたしも、自分のために言ったので」
その答えに、私は少しだけ納得した。
そうか。
アリアもまた、自分が“読まれること”によって変わるのなら、私にだけは自分をごまかしてほしくなかったのだ。
私が自分をちゃんと見て答えるなら、彼女もまた少しだけ、自分の変わり方を受け止められるのかもしれない。
観測板の文字がゆっくり薄れていく。
最後に残ったのは、真理の返答の一部だけだった。
――今のあんた、ちゃんと連れて帰す
その一文は、さっきの“本人しか言わないやつ”よりずっと重かった。
私は一瞬、息を忘れた。
真理は、もう“昔の由衣”だけを取り戻そうとしていない。
変わった今の私ごと、連れて帰すと言っている。
その覚悟に、胸の奥がじわじわ熱くなる。
嬉しい。
嬉しいけれど、それだけでは済まない。
連れて帰すということは、向こうも本気で踏み込むということだ。
現世側はもう、完全に受け身ではない。
「……強いなあ」
思わず漏れた言葉に、リゼットが少しだけ首を傾げる。
「真理さんがですか」
「うん。たぶん私より強いとこ、いっぱいある」
「だから繋がったんでしょうね」とリゼットは静かに言った。
たしかにそうだ。
真理は読者ではない。
ただの家族でもない。
私の書くことの弱さも、卑屈さも、逃げ方も知っていて、それでもページをめくる側に回れる人だ。
だからここまで来られた。
ノエルが、ほっとしたように肩を落とす。
「じゃあ、これで二十話の山は越えましたかね……」
「言い方がちょっとメタだな」と私が言うと、ノエルは「あ」と気まずそうに口を押さえた。セオドアはそんなことを気にも留めず、記録紙に何かを書き込んでいる。たぶん彼の中では、これも重要な観測結果の一つなのだろう。
“本人確認に対して、完全一致ではなく変化込みの自己定義を返した場合、現世側は受容の方向に動く”。
そういうふうに整理されるのかもしれない。
でも、今だけはそれでいい。
理屈に変えられても、消えないものがあるとわかったから。
部屋を出る前、私はもう一度だけ銀の板を見た。
問いは消え、返答も薄れ、ただ白い霞だけが残っている。
でも、そこにはもう“断片”以上のものが通った感触がある。
十一話から十九話までで積み上げてきたものが、ようやく一つの答えになった。
雨の日の屋上。
青いノート。
未送信の手紙。
ダサいタイトル。
ヒロインの嫌悪。
外側への警戒。
読まれることへの拒絶。
その全部を通った先に、第二十話の問いが来た。
**あなた、本当にユイなの?**
そして私は、初めて真正面から答えたのだ。
“昔のままじゃない。けれど、いなくなったわけでもない”と。
それはたぶん、この物語が長く続いていくために絶対必要な答えだった。
もしここで“私は前と同じです”と言い切っていたら、話は浅くなっただろう。
逆に“もう別人です”と切っていたら、現世も異世界も両方壊れたはずだ。
変わったことを認めて、それでも名前を引き受ける。
たぶん、物語の中に落ちた作者がここから先へ進むには、その答えしかなかった。
廊下へ出ると、すでに外は夕方だった。高窓から差す光が、石床へ長く伸びている。ノエルは記録紙を抱えて先に走り、案の定リゼットに止められ、セオドアは次の接続式の調整を始めるため別室へ消えていく。
私だけが少し遅れて歩き出す。
その横へ、アリアが並んだ。
しばらく互いに何も言わなかった。
でも、その沈黙は前よりずっと息苦しくない。
第十九話で“読まれること”に反応した彼女と、第二十話で“自分は誰か”に答えた私。
どちらも一つ、言い逃れをやめたからだろう。
「ねえ」と、私が言う。
「何ですか」
「真理の返答、どう思った?」
アリアは少し考えてから答えた。
「……嫌いじゃないです」
意外だった。私は思わず彼女の顔を見る。
アリアは前を向いたまま、淡々と続ける。
「“前のあなた”だけを取り戻そうとしなかったでしょう。そこは好きです」
「好きです、って」
「言い方に文句がありますか」
「ちょっとだけ」
「じゃあ訂正します。そこは、安心しました」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
安心。
アリアがそんな言葉を使うのは珍しい。
でもたしかに、真理が“今の私ごと連れて帰す”と言ったことは、アリアにとっても意味があったのだろう。
向こうが私を読むなら、“こっちで変わった私”ごと読んでほしい。
それはたぶん、アリア自身が“ヒロインとして読まれる”ことに対して望んでいる形とも重なる。
「……じゃあ次、真理にあんたのこと、もう少し返してもいい?」
私が半分冗談めかして言うと、アリアはすぐに顔をしかめた。
「それは嫌です」
「即答だ」
「そこはまだ嫌です」
「まだ?」
その問いに、アリアはほんの少しだけ口元を緩めた。
「そのうち、考えます」
その返事だけで、十分だった。
十一話から二十話までの流れは、これでひとつ綺麗に閉じる。
真理との接続が始まり、家族の存在が重くなり、青いノートが開かれ、ヒロインが読まれ、最後に“今の私”が認められた。
ここから先は、もうただの証拠集めではない。
真理は“今の私”を連れて帰すと言った。
アリアは“そのうち、考える”と言った。
現世も異世界も、もう私のために少しずつ変わり始めている。
第二十話の終わりとして、これ以上ないくらい綺麗だった。
けれど同時に、それは始まりでもある。
次は、たぶんこちらから返す番だ。
断片ではなく、もっと大きなものを。
真理へも、家族へも、そしてアリアへも。
私は廊下の先に落ちる夕方の光を見ながら、小さく思った。
ここまで来たなら、もう中途半端には書けない。
私が誰かを名乗るなら、
私に関わる人のことも、ちゃんと書かなきゃいけない。
第十一話から第二十話まで。
それは“接続の章”だった。
そしてここから先は、きっと――**選び取る章**になる。




