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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第十八話「真理は書き残しを開く」

真理は、ユイのノートパソコンを前にするときだけ、妙な呼吸になる。


それは緊張というより、もっと実務的な種類の集中だ。感情がないわけじゃない。むしろ逆で、感情が大きすぎるからこそ、それを机の上に散らさないようにしている。泣くとか、怒るとか、心配するとか、そういうことはあとでまとめてやればいい。今必要なのは、読むこと、拾うこと、繋ぐこと。ユイがどこか“物語の向こう側”にいるのだとしたら、こちらがやるべきことは感傷ではなく解析だ。そう腹を括ってから、真理は毎晩のようにこの部屋へ来ていた。


部屋はユイがいなくなった日から、ほとんど時間が止まっている。


机の端に積まれた資料、半分だけ飲まれたペットボトル、付箋の貼られた参考本、充電器に繋がれたままの古いスマホ、そして開きっぱなしだった原稿ファイル。最初は警察への説明や家族の確認のために必要最低限しか触れられなかった。けれど今は違う。真理はもう、ここを“失踪者の部屋”としてだけ見ていない。ここは接続点だ。ユイが残した書き癖、没案、変換ミス、下書き、言い淀み、保留した構想。その全部が、向こうとこちらを繋ぐ手がかりになっている。


昨日、青いノートの“ダサいタイトル”のページまで辿り着いた。


『星屑の檻と、わたしの透明な絶望』


思い出すだけで腹が立つくらいダサい。あのとき真理は本気で却下したし、ユイも最後には笑って認めていた。でも、その下に小さく残されていたメモが問題だった。


『採用しない。でも、この時の会話は使うかも』


そこから先のページに、何かある。


今の真理には、その確信があった。


夜の十時を過ぎていた。真理の部屋ではなく、今日はユイの部屋にいる。理由は簡単で、青いノートを持ち出したくなかったからだ。あのノートはもう、ただの思い出の物じゃない。向こうへ届く接続点そのものだ。ならば、動かさない方がいい。机の前には真理、背後のベッドにはユイの母、窓際には腕を組んだ弟が立っている。三人で夜中に失踪した娘の黒歴史ノートを覗いている状況は、冷静に考えるとかなりひどい。でも、ここまで来るともう体裁を気にしている場合じゃなかった。


「そのページ、昨日の続き?」


母が小さな声で聞く。


「うん」と真理は答えた。「たぶん今日の当たりはこの辺」


弟が露骨に嫌そうな顔をする。「姉貴の“当たり”って響きがもう嫌なんだけど」


「気持ちはわかるけど黙って」


真理はノートを開く。青い表紙は端が擦れていて、角が少し潰れている。高校の終わりから大学の頭くらいまで、ユイがいちばん迷走していた時期のノートだ。物語メモと愚痴と断片と会話案が全部混ざっていて、本人は見られたら死ぬと言っていた。今となっては、その“死ぬほど見られたくないもの”がいちばん本人証明になるのだから皮肉が強すぎる。


真理はゆっくりページをめくった。ダサいタイトル案の次のページ。そこには、赤ペンで大きくバツをつけられたメモが並んでいる。


『ヒロインを正統派にしすぎると弱い』

『優しすぎる、綺麗すぎる、読者に読まれすぎると“部品”になる』

『でも崩しすぎると嫌われる』

『怖いくらいがいい?』

『いや、怖いだけだと安い』

『“美しいのに、不穏。優しいのに、どこか壊れてる”くらいが刺さる気がする』


真理はそこで息を止めた。


これだ。


直感だった。でも、これまでの断片の流れと妙に噛み合う。ユイが向こうにいる世界で、最初から強い違和感を放っていたヒロイン。危険で、美しくて、でもただの敵ではなさそうな存在。真理は直接見たわけじゃない。けれど、十一話以降の断片の向こうから、そういう輪郭を何度も感じていた。


「……ヒロインのメモ?」


母が後ろから覗き込んで言う。


「たぶん」と真理は答えた。「しかも、かなり初期の」


弟が窓際から近づいてくる。「何か今の、姉貴っぽかったな」


「今さら?」


「いや、姉貴ってこういうときだけ妙に冷静にキャラ分析するじゃん。現実の人間相手には雑なくせに」


その一言に、真理は思わず苦笑した。たしかにそうだ。ユイは自分の作品に出てくる登場人物には異様な熱量で向き合う。そのくせ、自分や周囲のことになると途端に雑になる。大事な人ほど、真正面から扱えなくなる。だから今、家族や真理への言葉は断片でしか送れないのかもしれない。


ページの端に、さらに小さな文字があった。鉛筆で、ほとんど消えかけている。


『“役割”として必要とされるだけじゃなく、“その子”として見てほしい、が芯かも』


真理はその文を見た瞬間、妙な寒気を覚えた。


これは、たぶん重要だ。


ヒロインがただのヒロインじゃなくなる条件。必要とされる役割と、個人として見られたい気持ち。その二つがぶつかるとき、キャラクターは急に生き始める。書き手としてのユイがそれを考えていたのなら、向こうの“ヒロイン”は今、まさにその軸で動いている可能性がある。


「……どうしたの」


母が不安そうに声をかける。真理は視線をノートから外さずに答えた。


「たぶん、今のユイがいる場所で、かなり大事なページかもしれない」


「それ、わかるの?」


「わかるっていうか……ユイがもし本当に、自分の書いてたものの向こうにいるなら、このメモはそのまま“誰か”の核になっててもおかしくない」


弟が眉をひそめる。「つまり?」


「つまり、向こうにはこのメモ通りの“ヒロイン”がいるかもしれないってこと」


部屋が少し静かになった。


母は正直、まだ全部を理解していないと思う。異世界だの物語の向こうだの、そういう話をすぐに飲み込める人ではない。けれど、それでも彼女は最近、否定から入らなくなっていた。真理の見つけた断片があまりに生々しく、あまりにユイらしすぎるからだろう。信じるというより、もう普通の説明では足りないと受け入れ始めている。


「じゃあ、そのヒロインって子が、由衣ちゃんの近くにいるの?」


母の問いは、想像以上に本質を突いていた。


真理は数秒考え、それからゆっくり頷いた。


「たぶん。しかも、かなり近い」


そのときだった。


ノートの上に置いていたスマホが、小さく震えた。真理は反射的に手を伸ばし、すぐに止まる。通知は来ていない。画面も暗いままだ。でも、震えた感触だけはたしかにあった。


「……今、来た」


「何が」と弟が聞く。


真理はスマホを手に取り、画面をつけた。何もない。ロック画面も普通だ。けれど、ノートの方を見ると、ページの端に薄い線が浮いている。鉛筆の跡ではない。今しがた滲み出したみたいな、新しい線だ。


真理は息を詰める。


それは文字になりきれていない。最初はただの線だった。けれど、ゆっくりと形が整っていく。


――き

――ら

――い


三文字だけ。


「……は?」


弟が低く言う。


真理はその文字を見たまま、頭の奥で何かが繋がるのを感じていた。


ヒロインのメモ。役割として必要とされるだけじゃなく、その子として見てほしい。怖いだけじゃ安い。美しいのに、不穏。優しいのに、壊れてる。そして今、ノートの上に浮いた“きらい”という三文字。


向こうの誰かが、これに反応している。


「これ……」真理は小さく呟いた。「ユイじゃない」


「違うの?」と母が不安そうに聞く。


「違う。たぶん、向こうの……ヒロインの方」


口にした瞬間、自分でもぞっとした。異世界の登場人物が、現世のノートへ反応している。しかも、“きらい”という感情だけをはっきり残して。


弟が一歩近づく。「何が嫌いなんだよ」


それは、真理にもわかった気がした。


ヒロインのメモに、自分の核を書かれていること。現世の人間に、自分が“作られた存在”として読まれかけていること。あるいは、そのメモが“正しい”と理解されてしまうこと。その全部が、たぶん嫌なのだ。


「……めちゃくちゃ気の強いな、その子」


真理が思わずそう言うと、ノートの端の“きらい”が一瞬だけ濃くなり、次の瞬間すっと消えた。


母も弟も言葉を失っている。


真理だけが、なぜか少しだけ笑いそうになっていた。怖い。普通に怖い。でも同時に、その“きらい”の残し方が、妙に生々しいからだ。ユイの創作物の中の都合のいいキャラではない。たぶん本当に、向こうで誰かが怒っている。嫌がっている。自分が見られることに反応している。


それはつまり、ユイが一人で向こうにいるわけではないということでもある。


真理はノートの空白部分に、慎重に指を置いた。直接触れていいのかはわからない。でも、何もしないまま見ているのも違う気がした。


「……あんた、たぶんヒロインだよね」


半分独り言みたいに言う。


当然、返事はない。


けれど、その代わり、ページの端がほんの少しだけ冷たくなった気がした。


「由衣ちゃんの近くにいるなら」


真理は続ける。


「守ってあげて、とは言わない。たぶんそういう関係じゃないんでしょ。けど、勝手に殺すのはなし」


母が「真理ちゃん」と小さく止めるような声を出す。弟は真顔のままだ。でも真理はやめなかった。


「あと、嫌いでもいいけど、ちゃんと見てやって」


自分でも変なことを言っているとは思う。行方不明の友人の小説ノートに向かって、異世界のヒロインかもしれない誰かへ話しかけているのだから。でも、今はこれがいちばん自然だった。


少しの間があって、ページの下端にまた細い線が走った。


今度は一文字だけ。


――は


そこで止まる。


「……“は”?」と弟が言う。


真理は首を傾げた。“はい”の、は、かもしれない。“は?”の、は、かもしれない。“はっきり言わないで”の、は、かもしれない。わからない。でも、何かを返そうとはしている。


それだけで十分だった。


「今の、記録して」と真理は弟に言った。


「俺?」


「スマホ持ってるでしょ。時間とページ番号。あと、文字の出方」


弟は一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐにスマホを構える。こういうところ、素直じゃないのにちゃんと動く。真理は少しだけ助かる。母はまだ戸惑っているけれど、ノートから目を離していない。見えない何かを信じるというより、“今ここで起きたこと”から目を逸らさないと決めた顔だった。


真理はノートを次のページへめくる。


そこには、さらに雑多なメモが散っていた。


『ヒロインを先に出す案あり?』

『本来の登場時期を崩した方が主人公とぶつけやすい』

『でも、“登場が早い理由”が必要』

『ただバグってるだけでは弱い』

『ヒロイン側にも“物語を感じ取る”要素?』


真理の背筋にまた寒気が走る。


これだ。


いまユイのいる向こうの世界で、最初から“設定と違う”と感じていたヒロイン。そのズレは、単なる事故じゃない。もともとユイ自身が、“ヒロインを早く出すかもしれない”“物語を感じ取る要素を持たせるかもしれない”と考えていた。その没案か保留案が、向こうでは現実になっている可能性が高い。


「由衣……あんた、どこまで撒いてたの」


思わず出た本音に、母が不安そうに聞き返す。


「悪いことなの?」


「悪いというより、面倒すぎる」


真理は苦笑した。


「投稿した本編だけじゃなくて、使わなかった案まで向こうにあるかもしれない。ってことは、今の由衣がいる場所って、一個の作品じゃない。書きかけ全部の層の中みたいなものかもしれない」


弟が小さく舌打ちする。「最悪じゃん」


「最悪だよ。だから拾える」


真理はそう言って、ノートの余白へ視線を落とす。今のページそのものが手がかりだ。向こうのユイは、たぶんこの辺りをまだ全部思い出せていない。でもこちらが読めば、逆に向こうへ“ここを見ろ”と押し返せる可能性がある。


「……次、これを返す」


真理がそう言うと、弟が眉を上げた。


「何を?」


「“ヒロインを先に出す案あり?”の辺り。これ、今の由衣に必要だと思う」


母が少し心配そうに言う。「そんな、難しいことして大丈夫なの」


「大丈夫かはわからない。でも、今の由衣はたぶん一人で全部思い出してるわけじゃない。なら、こっちで見つけたものを向こうに返さないと」


真理はノートのページ番号、メモの位置、余白の癖、インクの色までざっと記録する。もう完全に“観測”の手つきだった。十一話から十五話で断片を受け取るだけだった自分は終わった。今はもう違う。こちらから読み、拾い、返す側に入っている。


そのとき、ノートの端がもう一度だけ微かに揺れた。


三文字。


――や

――だ


今度ははっきりしていた。


真理は思わず笑ってしまった。


「うわ、すごい嫌がってる」


弟が引く。「何で笑えるの」


「だって、この反応の仕方、由衣の“嫌いなタイプのキャラ”じゃないんだよ。ちゃんと嫌がって、ちゃんと感情で返してる。たぶん本当にいるんだ、この子」


母はまだ半信半疑の顔をしていたけれど、“やだ”という文字を見たあとで、少しだけ表情が変わった。異世界のヒロインとか、物語の向こうとか、そういう説明の難しいものではなく、“嫌だと言う誰か”として見えたのだろう。


真理はそのページをそっと撫でる。


「じゃあ余計、読み飛ばせないな」


ノートの中には、ユイの過去がある。黒歴史も、迷いも、保留した設定も、言い切れなかった本音もある。でも今はそれだけじゃない。向こうのユイ、向こうのヒロイン、向こうで起きている物語そのものに繋がる回路になっている。


だったら次は、こちらから“ページ”を返す番だ。


真理はノートを閉じずに、別のメモ帳を開いた。大きく書く。


『返す候補

・ヒロイン先出し案

・物語を感じ取る要素

・正統派だと弱い

・役割として必要とされるだけじゃ嫌』


書いてから、最後の一文だけ丸で囲んだ。


これがたぶん、いちばん重要だ。


ユイがその向こうでこのヒロインと向き合っているのなら、ここは絶対に外せない。設定としてではなく、その子がどういう痛みを抱えているかの核だからだ。


「真理ちゃん」


母が控えめに声をかける。


「その子、由衣ちゃんの味方なの?」


真理は少し考えた。


「……味方じゃないかもしれない」


「敵?」


「それも違うかも」


自分で言いながら、少しだけ笑う。


「たぶん、一番厄介で、一番大事な人」


その答えは、驚くほどしっくりきた。


ノートの上では、さっきの“やだ”の痕跡がもう消えかけている。けれど真理には十分だった。向こうには、ユイの近くにいるヒロインがいて、その子は自分が読まれるのを嫌がっている。嫌がっているのに、反応してしまうくらいには、こっちへ引っ張られている。


これはただの救出劇じゃない。


真理はようやく、その輪郭をはっきり掴み始めていた。


ユイは、自分の作品世界の中で生き残ろうとしている。

でも同時に、その世界の“中心にいる誰か”とも深く関わってしまっている。

そして、その誰かは、こちらを嫌いながらも無視できない。


「……いいじゃん」


真理は小さく呟いた。


弟が眉をひそめる。「何が」


「やっと面白くなってきた」


母が「そんな言い方」と呆れたように言う。けれど真理は少しだけ笑ったまま、ノートを見つめていた。面白い、というのは不謹慎かもしれない。でも事実でもある。絶望的で、怖くて、意味がわからなくて、それでも“読み解ける”と感じる瞬間、人は前に進める。


ユイが向こうで書いているなら、こちらも読む。

読むだけじゃない。返す。

そしてその途中で、ユイの物語の中のヒロインとも、たぶん向き合うことになる。


ノートを閉じる前に、真理は余白へ一言だけ書き足した。


『嫌でも読む。ごめん』


それは向こうのヒロイン宛てでもあり、ユイ宛てでもあり、そして少しだけ、自分自身に向けた宣言でもあった。


もう後戻りはしない。

由衣を探すためなら、作者の恥ずかしい書き残しも、ヒロインの嫌がる本音も、全部開く。

開いて、読んで、返していく。


ページを閉じた瞬間、ノートの表紙の内側で、ほんの一瞬だけ銀色の線が走った。


真理は見逃さなかった。


「……ああ、やっぱり」


向こうも、こっちを見ている。


そう確信しながら、真理は青いノートを胸の前で抱えた。

そこにいたのは、失踪した友人の残した黒歴史の山ではない。

まだ終わっていない物語の、次の扉そのものだった。


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