第九話 敬うべき人たち
長門の大講堂の扉が、弦一郎の後ろで重く閉まった。
弦一郎は入口に立ち、目が室内の光に慣れるのを待った。
大講堂は士官次室より広く、海自で見てきたどの作戦指揮室とも違う空気があった。
威圧感ではない。
多くの人間が、それぞれ重いものを抱えたまま同じ部屋に座っているとき、空気が自然とそうなるような——そんな沈んだ重さだった。
弦一郎は部屋全体を見渡した。
長机の上座。
谷口尚真大将が主席に座っていた。
六十歳。
白い軍服。
勲章。
その顔には、弦一郎が一目で分かる種類の表情があった。
すべてを静かに収めたい人間の表情。
そういう顔を、弦一郎はこれまでにも見たことがある。
何人かのベテランの上司。
退官を間近に控えた上官。
正しさを声高に主張することよりも、最後に物事を丸く収めることを最高の美徳とする人たち。
谷口の手には、すでに白いハンカチがあった。
まだ汗は拭いていない。
だが、いつでもその動作を始められそうだった。
谷口の隣には、小林躋造中将。
海軍次官。
五十三歳。
顔つきは険しく、目は鋭い。
室内を見渡すその視線は、複雑な状況の中で一人一人の重さを測ることに慣れた人間のものだった。
人そのものを見ているのではない。
一人一人が、予算にどれだけ影響するか。
人事に。
海軍省全体の行政機構に。
政府との関係に。
その重さを計算している。
そして——。
山本英輔。
連合艦隊司令長官。
弦一郎の視線が、その人の上で少し止まった。
口髭は微動だにしない。
背筋は伸びている。
鷹のような目は正面を向き、弦一郎を見るでもなく、特定の誰かを見るでもなく、自分だけが知っている何かが遠くにあるかのようだった。
昨夜。
新喜楽。
菊正宗の灯り。
あの座敷にいた山本英輔には、弦一郎にも言葉にできない、わずかな緩みがあった。
高橋にからかわれ。
弦一郎に「おじさん」と呼ばれ。
碗皿で三度負け。
最後には、倒れた猪口を一本ずつ起こしていた。
だが今は違った。
日露戦争から、この一九三〇年まで。
帝国海軍全体を肩に乗せて歩いてきた男。
連合艦隊司令長官。
その顔だった。
弦一郎は視線を下へ向けた。
第一列左側。
白い軍服の大佐。
姿勢は正しく、一点の乱れもない。
手元には資料が置かれていた。
井上成美。
弦一郎が頭の中で、その名前と顔を結びつけるまでに、予想より少し時間がかかった。
知っている。
もちろん知っている。
だが、弦一郎が知っている井上成美は、この時代の井上ではなかった。
もっと後。
戦争を見た井上。
敗戦を見た井上。
帝国海軍という組織が終わるところまで見た井上。
戦後、多くの旧海軍軍人がそれぞれのやり方で過去と折り合いをつけていく中、井上成美は海軍というものを最後まで考え続けた。
責任。
教育。
組織。
なぜ、あそこまで行ったのか。
弦一郎の記憶にある井上成美は、そういう問いの影を背負っていた。
しかし——。
今。
一九三〇年。
目の前にいる井上成美には、まだそれがない。
まだ若い。
海軍大学校で戦略を考えている一人の軍人。
資料を持ち、その顔には冷静な、何かを待っているような表情があった。
答えを知っている人間の顔ではない。
誰かが、ようやくその問いを口にするのを待っている。
そんな顔だった。
弦一郎は視線を向かいへ移した。
第一列右側。
南雲忠一大佐。
四十三歳。
顔色は鉄のように硬い。
手は机の端を押さえている。
その目には——。
本物の怒りがあった。
演じているのではない。
信じているものを守ろうとする人間の怒り。
弦一郎は南雲忠一の顔を見た瞬間、反射的にミッドウェーを思い出した。
一九四二年六月。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
米軍艦載機。
混乱。
炎上。
四隻の空母。
後世、南雲忠一という名前には、いつもミッドウェーがついて回った。
判断が遅かった。
兵装転換をめぐって迷った。
決断力がなかった。
もし、あのとき違う選択をしていれば。
もし索敵を。
もし第二次攻撃隊を。
もし。
もし。
後からなら、いくらでも言える。
弦一郎も、そういう文章を何度も読んだ。
だが。
一九三〇年。
長門の大講堂。
この四十三歳の南雲忠一を見て。
その顔にある、本物の怒りを見て。
弦一郎は——。
教科書には書かれていなかったことに気づいた。
この人は、ミッドウェーまでずっと何かを信じていた人間だった。
意志は条件を超えられる。
鍛錬は数の差を埋められる。
精神は物量を凌駕できる。
皇国の興廃此の一戦にあり。
その精神さえ失わなければ、不可能は不可能のままではない。
本気で、そう信じていた。
信念のない人ではなかった。
むしろ——。
信じすぎた。
そして、その信仰が後に現実とぶつかった。
一九三〇年の南雲忠一は、まだその終点へ辿り着いていない。
その信仰は、まだ結果によって打ち砕かれていない。
弦一郎は南雲を少し長く見た。
それから、その隣。
宇垣纏中佐。
金縁眼鏡。
四十歳。
海軍大学校の戦術関係の資料を開いていた。
指でどこかのページを押さえ、ある数字を極めて丁寧に確認している。
教師が試験問題に穴がないか、最後に確認するようなやり方だった。
宇垣纏。
「黄金仮面」。
その渾名が、どこまで当時すでに定着していたかはともかく。
後世、宇垣の自尊心や傲慢さは、よく語られた。
自分が学問的に根拠がないと思ったものを、誰が言ったことであろうと、簡単には受け入れない。
だが弦一郎は、今、目の前の宇垣を見て、その傲慢の裏側にあるものも少し分かった気がした。
この男は、本当に数字を見る。
根拠を見る。
理屈を見る。
自分が不快だから反論するのではない。
相手が間違っているなら、どこが、なぜ、どの数字で間違っているのか。
それを確かめようとする。
あの学識は本物だった。
あの厳密さも、本物だった。
傲慢。
確かにそうかもしれない。
だが、その後ろには真剣に物事へ向き合っている人間がいる。
そして、さらに角。
小澤治三郎中佐。
四十四歳。
腕を組み、凶悪な石像のような顔で一番端の椅子に座っている。
誰も見ない。
目は、まだ何も書かれていない黒板の一点へ向けられていた。
何かが、そこへ現れるのを待っているように。
弦一郎は小澤治三郎の横顔を見た。
他の人間を見たときとは違う。
圧力でもない。
威圧でもない。
もっと純粋なもの。
政治。
感情。
面子。
そういうものを全部取り払ったあと、最後に残る何か。
レイテ沖。
一九四四年。
小澤治三郎。
ほとんど艦載機を失った空母部隊を率いて北上。
ハルゼーの第三艦隊を、栗田健男の主力から引き離す。
囮。
勝ち目は、ほとんどない。
航空戦力も足りない。
対空火力も足りない。
敵は圧倒的。
それでも行った。
自分が生きるか、死ぬか。
そこを方程式から外す。
全体の作戦が成立する確率。
それだけを見る。
そういう人間。
弦一郎は、一九三〇年の小澤の目を見た。
この人は、後になってそういう人間になったのではない。
もう、このとき何かがある。
自分の生死を、必要なら計算から外せる。
そういうものが、この目の奥にすでにある。
弦一郎は心の中で、この部屋にいる顔を一度ずつ見直した。
教科書が教えたのは、結果だった。
教科書は、一九三〇年の南雲忠一の信仰が本物だったとは教えてくれなかった。
宇垣纏の厳密さの後ろに、真剣な人間がいることも。
小澤治三郎の純粋さが、一九三〇年にすでにそこにあったことも。
井上成美が静かな顔で、誰かが正しい問いを口にするのを待っていることも。
教えてくれなかった。
後世、人間には結果が貼りつく。
成功。
失敗。
勝者。
敗者。
愚将。
名将。
そして、その札を見ながら過去を見る。
でも。
今。
一九三〇年。
この人たちには、まだ札がない。
この人たちは一九三〇年に、まだ一番いい姿のままだった。
弦一郎は、もっと昔のことを思い出した。
館山。
初めて、本当に海を見た午後。
潮。
光。
水平線。
そのとき、胸の中で何かが開いた。
海自に入ろう。
そう思った。
海自に入った後、ある先輩がこんなことを言っていた。
「この制服を着るなら、引き継ぐのは今日のものだけじゃない」
そのとき弦一郎は、完全には分かっていなかった。
分かったつもりでいた。
今。
長門の大講堂。
入口。
これらの顔を見て。
初めて、分かった。
海上自衛隊は、戦後の廃墟から何もないところへ突然生まれたのではない。
技術。
操艦。
教育。
組織。
思想。
成功。
失敗。
全部、どこかから流れてきた。
引き継いだものは、ここから来ていた。
この人たちから。
まだ戦争に焼かれていない、一九三〇年の帝国海軍から。
弦一郎は思った。
今日、ここに立っているのは、教えに来たからではない。
未来人だから、お前たちは間違っている。
そう言いに来たのでもない。
答えを全部持ってきたわけでもない。
自分が未来で引き継いだものを、元あった場所へ返しに来た。
それだけなのかもしれない。
弦一郎は自分の席を見つけ、座った。
※ ※ ※
山本英輔が口を開いた。
声に起伏はない。
「海野少佐」
弦一郎は顔を上げた。
「昨夜の復盤を」
一拍。
「ここでもう一度やれ」
弦一郎は立ち上がり、兵棋盤へ向かった。
※ ※ ※
兵棋盤の上には、艦艇模型がすでに並んでいた。
昨夜。
新喜楽。
碗。
皿。
猪口。
土鍋。
箸。
あれとは違う。
縮尺。
諸元。
座標。
海里。
速力。
射程。
すべてが、現実の海へ繋がっている。
この兵棋盤と昨夜の畳。
その距離は、今日弦一郎が立っている場所と、千代の膝の上で酔い潰れた場所との距離でもあった。
弦一郎は米軍空母部隊を示す標識を手に取った。
青軍。
盤の一番遠い側へ置く。
艦載機を表す符号を複数、波次ごとに並べる。
「第一戦」
声は、自分で思ったより落ち着いていた。
「赤軍は漸減邀撃」
戦艦。
前衛。
符号を動かす。
「前衛部隊で青軍の戦力を削り、最終的に——」
長門。
赤城。
主力。
「艦隊決戦へ持ち込む」
一拍。
「従来なら、これでいい」
弦一郎は青軍の空母を、さらに遠くへ動かした。
「しかし」
艦載機を一つ取る。
「青軍は、赤軍の主力艦と同じ距離で戦う必要がありません」
一つ、前へ。
「索敵」
もう一つ。
「発見」
さらに一つ。
「攻撃隊」
複数の符号を、長門と赤城の方向へ動かす。
「仮に、複数波、百機を超える規模で航空攻撃を投入するなら——」
一拍。
「赤軍主力が青軍の戦艦を一隻も視認しないまま」
艦載機の符号を長門と赤城の上へ置く。
「先に、空から攻撃されます」
部屋が静かになった。
南雲忠一の顔色が、さらに硬くなる。
手が机の端を押さえる。
唇は一本の線になっていた。
宇垣纏はページを押さえたまま、ある数字を確認している。
だが目の端は兵棋盤を見ていた。
小澤治三郎。
あの石像のような男の目の中で、最初の符号が長門の上へ落ちた瞬間、何かが一瞬だけ光った。
ほんの一瞬。
すぐに収まった。
だが弦一郎は見た。
※ ※ ※
第二戦。
弦一郎は潜水艦を示す符号を取った。
赤軍前衛を回り込み、後方へ。
補給線へ。
「青軍は、赤軍主力との直接砲撃戦を放棄します」
潜水艦を後方へ動かす。
「潜水艦部隊を赤軍後方へ展開」
燃料艦を一隻倒す。
「燃料」
補給艦を倒す。
「弾薬」
輸送艦も倒す。
「食糧」
一つずつ。
「補給線を切る」
長門の模型が、艦隊の陣形から少し孤立した。
「燃料が尽き、補給が断たれた条件では——」
一拍。
「赤軍主力艦隊の戦闘力は激減します」
南雲の目が動く。
弦一郎は続けた。
「撃沈されたからではありません」
長門を指差す。
「動けない。撃てない。帰れない」
一拍。
「そうなれば、どれだけ大きな砲を積んでいても——」
「ただの固定目標です」
弦一郎は燃料艦の隣の符号を、自分の側へ移した。
「これは消極的な戦法ではありません」
「資源の消耗率を、我が方に有利にするための積極的な選択です」
帝国海軍の貯油量。
言わない。
工業生産力。
言わない。
米国と日本、その差。
言わない。
だが机の上には予算資料がある。
数字は、そこにある。
わざわざ弦一郎が言う必要はなかった。
南雲忠一が立ち上がった。
突然、というより。
怒りが積み重なり、ある線を超えた瞬間、体が先に決めたような立ち上がり方だった。
「もういい!」
声が大講堂に響いた。
怒り。
苦しみ。
弦一郎には、すぐにはどちらなのか分からない。
「これは——」
一拍。
「海賊の戦い方だ!」
南雲は兵棋盤を指差した。
倒れた補給艦。
「卑怯者の戦だ!」
「帝国海軍は、建軍以来そんなものに頼ってきたのではない!」
手が机を叩く。
「我々は武人だ!」
「砲で語り、艦隊で決する!」
「砲撃!」
「魚雷!」
「肉薄!」
「正面から敵主力を叩く!」
南雲は弦一郎を睨んだ。
「それが海戦だ!」
「水面下に隠れ、輸送船を狙い、燃料を断ち、相手を飢えさせる!」
一拍。
「そんなものを帝国海軍の戦と言えるか!」
弦一郎は南雲の目を見る。
そこにある怒りは本物だった。
自分を守るためではない。
信じてきたものを守るため。
その信仰を冒された者の、本物の怒り。
南雲はさらに続ける。
「皇国の興廃此の一戦にあり!」
一拍。
「堂々たる決戦で、帝国の運命を決する!」
言葉を探す。
そして吐き出す。
「こんな、イギリス式の!」
「商人式の!」
「勘定ではなく!」
商人式。
その言葉を聞いて、弦一郎は昨夜の高橋是清を思い出した。
高橋は言っていた。
世界全部を敵に回すのか。
それとも、力をつけ、機を見て追い越すのか。
南雲忠一。
高橋是清。
同じ時代。
同じ国。
同じ帝国。
それなのに、まるで別の言葉を話している。
谷口尚真は、ついにハンカチで汗を拭き始めた。
小林躋造の視線が南雲と山本の間を行き来する。
何かを計算している。
山本英輔の口髭は動かない。
表情もない。
止める気配もなかった。
弦一郎は深く息を吸った。
言葉ではなく、動作で続きを示す。
兵棋盤へ向き直った。
※ ※ ※
第三戦。
「夜戦」
弦一郎は特型駆逐艦を示す細長い符号を並べる。
「赤軍水雷戦隊、夜間接近。魚雷攻撃」
符号を青軍へ向ける。
「これは帝国海軍が最も誇る能力の一つです」
南雲を見る。
宇垣を見る。
「夜間操艦。訓練。魚雷戦。肉薄」
一拍。
「これは本物の優位です。否定しません」
南雲の顔が、ほんの少しだけ動く。
弦一郎は続ける。
「ただし、条件が一つ変わります」
青軍側に別の符号をいくつか置く。
「青軍は、赤軍と同じ形の夜戦をしません」
宇垣が顔を上げた。
「赤軍旗艦や部隊間通信の発信方向」
指を立てる。
「通信量」
「発信頻度」
「それを受信施設や前衛艦艇で拾う」
一拍。
「そこから、接近してくる方向を絞る」
弦一郎は青軍の哨戒線を広げた。
「そして、哨戒部隊」
「巡洋艦」
「駆逐艦」
間隔を取って配置する。
「接触」
符号を近づける。
「発見後、照明弾」
「距離を保ったまま砲撃」
特型駆逐艦を一つ倒す。
「赤軍接近」
二つ目。
「青軍後退」
三つ目。
「また砲撃」
四つ目。
「また距離を取る」
最後。
倒す。
「赤軍が魚雷を最も有効に使える距離へ——」
弦一郎は南雲を見た。
「青軍は付き合いません」
静かだった。
空気が変わる。
そして。
「ばかな」
今度は南雲ではない。
宇垣纏だった。
資料を静かに机へ置く。
金縁眼鏡を直す。
南雲の怒りよりも、ある意味では不快なほどの冷静さだった。
「海野少佐」
「いくつか、技術的な質問をさせていただきたい」
お願いではない。
質問という名の検証だった。
「第一。無線測向の精度」
一拍。
「海戦条件下。電波干渉。大気状態。海況。敵側の通信統制。複数発信源」
指が机を叩く。
「その条件で、あなたが言う『捕捉』とは、どの程度の精度を意味するのですか」
弦一郎は黙る。
宇垣は止まらない。
「方位を十度単位で絞れるのか」
「数度まで絞れるのか」
「距離はどう推定する」
「単一の受信点では方位しか分からない」
「複数地点で交差させるにしても——」
一拍。
「誤差は必ず出る」
弦一郎は心の中で素早く整理する。
正しい。
宇垣は正しい。
一九三〇年。
無線測向は万能ではない。
未来の電子戦や通信解析を、そのまま持ち込めるわけではない。
宇垣が第二の指を立てる。
「照明弾」
「有効照射時間」
「射撃管制」
「測距」
「諸元計算」
「修正射」
一つずつ。
「その時間差を、どう埋めますか」
金縁眼鏡を直す。
「照明が消えるまでに射撃解算が間に合わないなら——」
一拍。
「あなたの第三戦の前提は崩れる」
宇垣は弦一郎を見る。
「計算したことがありますか」
静かだった。
しかし、刺さる。
「あなたの言っていることには一定の論理がある」
「だが、理論と実戦の間には誤差がある」
一拍。
「私が聞いているのは精神ではない」
「諸元と計算です」
弦一郎は息を吸った。
第一。
無線測向。
宇垣は正しい。
誤差はある。
概念の否定ではない。
どこまで使えるか。
その上限を議論する必要がある。
第二。
照明。
これも本物の技術的問題だった。
宇垣は間違っていない。
弦一郎が答えようとした、そのとき。
「言わせろ」
角から声がした。
低い。
しゃがれている。
しかし、その一言で部屋の空気が静まった。
南雲が角を見る。
宇垣も見る。
小澤治三郎が、ゆっくりと立ち上がった。
腕は組んだまま。
部屋を一度見渡す。
南雲を一瞥した。
南雲は何か言おうとした。
だが、言わなかった。
小澤は兵棋盤へ歩き、弦一郎の隣に立った。
倒れた特型駆逐艦の符号を見て、しばらく黙る。
そして、事実だけを話すような声で言った。
「宇垣中佐の技術的な問いは正しい」
誰も見ない。
盤だけを見る。
「精度。照明時間。射撃計算」
「全部、詰める必要がある」
倒れた符号を一本取る。
元へは戻さない。
脇へ置く。
「しかし」
一拍。
「それは今日、一番大事な問いではない」
部屋が静まった。
小澤は弦一郎を見る。
「もし、水雷突撃が照明弾、測向、距離保持、そういう新しい方法で制圧される方向へ進むなら」
一拍。
「海野少佐の方向が正しいとして、具体的な誤差が多少違っていても——」
目が鋭くなる。
「我々は次に、どうする」
弦一郎を見る。
「答えろ」
部屋が静かになった。
この問いは、これまでのものとは全部違った。
南雲。
——お前は何を否定している。
宇垣。
——お前の数字は正しいのか。
小澤。
——正しいなら。
——次はどうする。
弦一郎は兵棋盤を見る。
頭が回る。
海大。
海自。
教科書。
演練。
未来で学んだものが、一つずつ浮かぶ。
「単一方向からの雷撃が通用しなくなるなら」
ゆっくりと。
「雷撃機は、一方向からまとまって突っ込むべきではない」
符号を二組取る。
「二つの方向」
一組を左。
一組を右。
「同時」
「あるいは、極めて短い時間差で侵入」
一拍。
「敵が片方へ回避すれば、もう片方へ舷側を晒す」
小澤の目が動く。
手が伸びる。
模型箱から符号をいくつか取る。
弦一郎の二組を、さらに調整する。
「左舷前方」
一組。
「右舷後方」
一組。
位置を置く。
「夾角を、およそ九十度」
一歩下がり、配置を見る。
「敵が左へ回頭しても、右へ回頭しても——」
一拍。
「どちらかの雷撃隊に腹を見せる」
小澤は盤を見る。
「これは勇気の問題じゃない」
「操艦の問題でもない」
一拍。
「幾何だ」
弦一郎は、その言葉を聞いた。
小澤はもう、自分で先へ進んでいる。
弦一郎は続ける。
「精密な無線連携がなくても」
「時間差」
「視覚信号」
「事前の進入方位」
「それだけで、ある程度は協調できます」
小澤が符号を動かす。
「第一隊が先に入る」
一組。
「敵の見張り、対空砲火、注意を一方向へ向ける」
別の組。
「第二隊は反対側」
「低空」
「あるいは雲」
「煙」
「海面反射」
「使えるものは全部使う」
弦一郎は小澤を見る。
小澤は続けた。
「第一隊の攻撃開始を、第二隊への目視信号にする」
符号が同時に近づく。
「完全な同時攻撃でなくてもいい」
「敵が一方に意識を向けた瞬間——」
一拍。
「もう一方が入る」
すべての符号を配置する。
小澤は一歩下がり、兵棋盤を見る。
角にいた石像が。
考える人間へ変わっていく。
その過程を、弦一郎は見た。
そして分かった。
小澤治三郎は、一九三〇年にすでにこういう人間だった。
誰かが枠組みと入口だけ示せば、あとは自分の頭で先を埋めていく。
これだ。
弦一郎に本当にできること。
答えを全部持ってくることではない。
この時代の天才たちが、その中で考えられる新しい枠を持ってくる。
それだけ。
小澤は弦一郎を見る。
「続けろ」
弦一郎はうなずいた。
「空母は——」
一拍。
「戦艦の代用品ではありません」
符号を遠くへ置く。
「砲の射程で戦う兵器ではない」
艦載機を前へ。
「航空機の行動半径で戦う」
「敵に、こちらの主力艦を見せる必要はない」
一拍。
「敵がこちらを撃てない場所から、こちらだけ攻撃する」
南雲を見る。
宇垣を見る。
小澤は盤を見ている。
「空母を戦艦の列に並べるのではなく——」
一拍。
「艦隊そのものを、航空機中心に組み直す」
部屋が静かになった。
※ ※ ※
その静けさは長かった。
谷口尚真。
ハンカチが宙で止まったまま。
汗を拭くのを忘れている。
宇垣纏は資料を静かに閉じた。
本から手を離し、机へ置く。
本人は気づいていないかもしれない。
何か一つ、姿勢を手放したようにも見えた。
南雲忠一は、まだ立っている。
だが、小澤が言い終え、符号を二方向へ配置した瞬間。
何か言おうとしていた姿勢が、ゆっくりと消えていった。
兵棋盤を見る。
その顔を表現するのは難しかった。
説得された。
違う。
降参した。
それも違う。
ただ、信じてきたものへ初めて小さな亀裂を入れるものを見た。
その亀裂は、まだ小さい。
今日、何かを全部変えるほどの大きさではない。
でも。
確かに、そこにある。
小林躋造は、小澤、弦一郎、山本へ順に視線を移す。
あの計算する目。
今は、何か結論を持っているようだった。
だが弦一郎には、それが何か分からない。
そして。
「皆さん」
井上成美の声だった。
大きくはない。
だが静かな大講堂では、はっきりと聞こえる。
その声には、彼の姿勢と同じ、端正な冷静さがあった。
全員が井上を見る。
井上は立たない。
座ったまま、資料を机の中央へ押し出す。
数字を、全員へ向ける。
「海野少佐は——」
一拍。
「諸先輩や指揮官の皆さんと、優劣を競おうとしているのではないと思います」
弦一郎は井上を見る。
井上は部屋全体を見渡した。
あの、何かを待っていたような表情。
今、ようやく待っていた問いが来た。
そんな顔だった。
「皆さんに、一つ考えていただきたい」
一拍。
南雲。
宇垣。
部屋の全員。
「皇国の興廃此の一戦にあり」
その言葉に皮肉はない。
逆説もない。
本当に、皆が信じている言葉をそのまま使う。
「では——」
一拍。
「総トン数が米軍より三割少なければ」
南雲を見る。
「皆さんは、戦わないのですか」
部屋では、誰も喋らない。
井上はさらに続ける。
「皇国は興らず、廃れたままでいいというのですか」
南雲の唇がわずかに動く。
だが、声は出ない。
弦一郎はそれを見た。
説得ではない。
自分の論理を、その論理自身で答えられない問いへ追い込まれた。
沈黙。
井上成美は、艦隊派自身が信じている言葉を使って、その問いを彼ら自身へ返した。
「敵より艦が少ないなら、少ない条件で勝つ方法を考えるべきではありませんか」
一拍。
「鉄が少ないなら、鉄をどう使うか」
「油が少ないなら、油をどう使うか」
「それを考えるのが——」
静かに。
「軍人ではないのですか」
宇垣纏が資料を机から取り、膝へ置く。
その動作には、一度退くような感じがあった。
負けではない。
次の一手を決める前に、一度下がる。
そんな動きだった。
谷口尚真はハンカチを机へ静かに置いた。
資料を見る。
その顔には、もうこれ以上取り繕わなくていい。
そんな疲れた安堵が浮かんでいた。
小林躋造は資料を見る。
山本を見る。
計算する目には、今、方向がある。
そして。
山本英輔が立った。
全員の視線が向く。
山本は部屋を一度見渡した。
鷹の目。
口髭は微動だにしない。
日露戦争から一九三〇年まで歩いてきた、その背筋。
「解散」
二文字。
それだけだった。
裁定はない。
結論もない。
誰が正しい。
誰が間違っている。
そんな宣告もない。
でも。
全員、分かっている。
この部屋で、何かが静かに動いた。
※ ※ ※
弦一郎は最後に大講堂を出た。
入口で少し止まり、振り返る。
部屋を一瞥する。
兵棋盤。
二方向からの航空攻撃。
符号は、まだそのままだった。
誰も動かしていない。
弦一郎は扉を閉めた。
甲板。
八月の陽光は、まだ強い。
横須賀湾。
海風。
塩。
燃料油。
遠くで、水兵の掛け声。
弦一郎はそこに立ち、陽光を体で受けた。
そして。
後ろから誰かが出てくる。
足音が近づき、傍らで止まった。
何も言わない。
弦一郎は振り返った。
小澤治三郎。
隣に立つ。
腕は、まだ組んでいる。
あの凶悪な石像のような顔。
横須賀湾を見ている。
弦一郎は見ない。
二人は甲板に立った。
しばらく、何も言わなかった。
海風。
水兵。
遠くの艦。
それだけ。
やがて小澤が顔を向ける。
石像のような顔で、弦一郎を見る。
何も言わない。
ただ見る。
そして——。
一度だけ、うなずいた。
それだけ。
本当に、それだけだった。
でも。
弦一郎には十分だった。
純粋な軍人が。
うなずく価値がある。
そう思った相手へ送る言葉。
小澤は向きを変え、歩いていった。
足音が甲板の上を遠ざかる。
弦一郎は、そのまま立ち続けた。
横須賀湾。
水面。
遠くには大小の艦艇が、それぞれの錨地に停泊している。
弦一郎は、ミッドウェーを思い出さなかった。
武蔵も。
大和も。
レイテも。
思い出さなかった。
ただ。
陽光の中に立つ。
小澤の一度のうなずき。
その重さを感じる。
対等な人間として扱われた。
自分が敬う人間に、対等な人間として扱われた。
その感覚に、言葉はいらない。
横須賀湾に海風が吹く。
塩と燃料油の匂いを運ぶ。
遠くでは、水兵の掛け声が続いている。
この時代は、一九三〇年の八月。
まだ、その後に辿り着く場所へ至っていない。
この人たちは、まだここにいる。
まだ——。
何も決まっていない。
※ ※ ※
——第九話 了——




