第十話 達磨の釣り
大蔵省の正門は、赤レンガ館とはまるで別の世界だった。
赤レンガ館は、見せびらかすための建物だった。
花崗岩の縞。
シャンデリア。
西洋風の重い扉。
あの建物の細部すべてが、「俺たちは国際的な紳士で、金の使い方を知っている」と語っているようだった。
だが、大蔵省にはそんなことを言う必要がなかった。
ここはただ、全員に一つのことを知らせればいい。
——金はここにある。
薄暗い玄関ホール。
重い扉。
廊下も暗く、空気には帳簿とインクの混ざった匂いが漂っていた。
外見には無駄らしい無駄が何一つなく、すべての資源が、あの数字のために使われているように見えた。
隅には紺の制服を着た二人の警備員が立ち、神経を張り詰めながら、出入りする人間を一人ずつじっと見ていた。
弦一郎が正門を入る。
二人の視線が、すぐに彼の上を走った。
軍服。
飾緒。
少佐の袖章。
肩から垂れた参謀飾緒——。
その瞬間、警戒がぱっと解けた。
弦一郎は軽くうなずいた。
「海軍少佐、海野弦一郎。高橋翁のお呼びで参りました」
二人は直立して敬礼し、そのうち一人が向きを変えた。
「ご案内します」
※ ※ ※
廊下は長く、暗かった。
木の床を踏む音が、その静かな空間でひときわ大きく響く。
弦一郎は案内役の後について歩いた。
やがて——。
聞こえてきた。
廊下の突き当たり。
どこかの部屋の、わずかに開いた扉から漏れてくる声。
丸みを帯びた声だった。
だが今日は、その丸さの奥に怒りと嘲りがあった。
新喜楽で桝吉の昔話をしたときにも聞いたことのない、本物の憤怒と恨みのこもった声。
「準之助よ、教えてくれ。円を金に縛りつけるというのは、どの教科書に書いてあったんだ?」
少し間があった。
「その教科書は、いつ書かれた? 大恐慌の最中に書かれたのか?」
弦一郎の足が少し遅くなった。
案内役も立ち止まり、目で問いかけてくる。
——お入りになりますか?
弦一郎は首を横に振った。
そのまま廊下の壁にもたれ、声の続きを聞いた。
「今の帳簿の数字は、きれいに並んでいるだろう?」
高橋是清の声だった。
「でも知ってるか。そのきれいさを守るために、今年どれだけの農家の娘が売られたか?」
廊下が、しばらく静かになった。
「調べてみろ。それから来い。そのきれいさに、いったいいくらの値打ちがあるのか教えてやる」
やがて、別の声が聞こえた。
冷静で。
筋道が立っていて。
何かを真剣に信じている人間の口調。
井上準之助。
高橋是清の声が、また上がった。
「イギリスだと?」
一拍。
「イギリスだって、そう長くは持たんぞ!」
さらに続ける。
「世界中がこんな有様なのに、一人でこの棺桶を守って、誰に見せるつもりなんだ!」
弦一郎は廊下に立ったまま、頭の中でとても静かに、あることを考えていた。
一九三二年三月。
井上準之助は選挙演説の途中、血盟団の刺客に射殺された。
一九三六年二月。
高橋是清は自宅で、二・二六事件の青年将校に殺害された。
二人とも、同じ問題を前に、それぞれが正しいと思う方法で戦った。
そして。
二人とも殺された。
その廊下に立って。
弦一郎は、まだ二人が言い争っているのを聞いていた。
まだ。
言い争っている。
言い争うことができるということは——。
まだ、救いようがある。
その考えはとても静かだった。
だが弦一郎には、それが本当のことのように思えた。
※ ※ ※
やがて、その部屋の扉が開いた。
高橋是清が出てきた。
怒りはまだ顔に残っている。
しかも、まだ言い続けていた。
「自分でよく考えろ。考えたらまた来い」
そこで言葉が止まった。
弦一郎が廊下に立っているのを見つけたからだ。
「ああ、来たか」
それから振り返り、まだ扉のところに立っている井上準之助へ手を振った。
「言っても仕方ない。またな」
日本の財政の方向をめぐる言い争いを、「またな」の一言で締めくくった。
そして弦一郎の方へ歩いてくる。
丸い後ろ姿。
歩き方は意外なほど安定している。
「行こう。待っている人がいる」
弦一郎は後についていった。
「誰が?」
高橋是清は答えなかった。
ただ呵々と笑った。
※ ※ ※
大蔵省の正門の外。
石段の下に、一人の男が待っていた。
痩せている。
端正。
五十代。
背広はきちんと整えられ、髪も一糸乱れていない。
立っている姿勢には、外交官特有の——。
すべてを見ている。
だが、何も急いで言わない。
そんな沈着さがあった。
弦一郎は頭の中で、その顔を探した。
幣原喜重郎。
外務大臣。
「幣原外交」の推進者。
協調外交。
対立を避け、貿易と対話で関係を作ろうとした男。
のちに軍部から「軟弱外交」と罵られ。
やがて「幣原外交」は捨てられ。
その代わりに、銃剣が前へ出ていく。
幣原は、高橋是清と弦一郎が出てくるのを見ると、軽くうなずいた。
「是清、この方が例の若い人ですか」
高橋是清は呵々と笑った。
「幣原、待たせた。海野、こちらは幣原喜重郎。ご存じだろう」
弦一郎は直立した。
「海軍少佐、海野弦一郎です。はじめまして」
幣原は彼を見た。
外交官の目が、上から下まで一度だけ走る。
それから軽くうなずいた。
「是清から、中国市場についてお考えがあると聞きました」
「はい」
「では、歩きながら話しましょう」
弦一郎は、二人の狸親父について大蔵省の正門を出た。
一九三〇年の東京の街へ歩き出す。
一人は丸く。
一人は痩せている。
その間を、海軍少佐がついていく。
自分がどんな狸親父二匹の局に入り込んだのか。
まだ——。
まったく気づいていなかった。
※ ※ ※
新喜楽へ向かう道でも、高橋是清はまだ罵っていた。
井上準之助を、ではない。
今度は財政界全体を。
「あいつらはな、洋書を何冊か読んで、自分が分かったと思い込んでいる」
幣原は隣を歩いている。
「金本位を万能薬だと思っている。あれは普通の年の薬だ。今は何年だ?」
一拍。
「大恐慌だ」
高橋は手を振った。
「つまり、本に書いてある前提条件が全部成り立たなくなった。それでも、その本の処方通りに薬を調合する」
幣原が一言だけ返した。
「是清」
「なんだ」
「言い終わりましたか?」
「まだ」
「終わったら教えてください」
高橋是清は、そのまま罵り続けた。
幣原は、そのまま歩き続けた。
弦一郎は二人の後ろについて、一言も言わなかった。
※ ※ ※
新喜楽の座敷に、菊正宗が運ばれてきた。
高橋是清の怒りは、一杯飲み干したところで少しだけ収まった。
弦一郎は自分の猪口を持ち、座敷を見回した。
畳。
障子。
庭の灯り。
前回来たときと、まったく同じだった。
視線が障子の方で、ほんの少し止まった。
そして外れた。
「千代を探しているのか?」
高橋是清の声。
呵々と笑っている。
弦一郎は菊正宗を一口飲んだ。
「いいえ。本題を話しましょう」
幣原は向かいに座っていた。
その端正な外交官の顔に浮かんでいるものが、笑いなのか無表情なのか。
弦一郎には、まだ分からなかった。
幣原は何も言わない。
弦一郎は深く息を吸った。
「高橋さん、幣原さん。北風と太陽の話をご存じですか?」
二人の狸親父が彼を見る。
何も言わず、続きを待った。
「北風が思い切り吹けば、人はコートをもっと強く閉じる」
弦一郎は言った。
「日本が中国で奪い取ろうとすれば、中国人は一番いいものを全部隠してしまう」
一拍。
「物だけじゃない。心も、技術も、協力する意志も。全部、俺たちが奪えないところへ」
少し間を置いた。
「でも、太陽が出れば、その人は自分でコートを脱ぐ」
高橋が見る。
幣原も見る。
「相手が本当に必要なものを持っていけばいい。機械を。技術を。資本を」
一拍。
「そうすれば、コートを脱ぐだけじゃない。家の中の一番いいものまで、自分から出してくる」
「それが、自分にとって得だから」
高橋是清は猪口を取り、一口飲んだ。
目で続きを促す。
幣原の指が、卓上を軽く一度叩いた。
同じく。
続けろ。
「四億五千万人」
弦一郎は言った。
「その全員が客になるわけじゃない。それでも、購買力のある層だけで数千万人」
一拍。
「港を出れば、数日で着く」
さらに続ける。
「この市場を奪い取れるのは、一回です」
二人を見る。
「交換なら、百回できる」
座敷がしばらく静かになった。
高橋是清は猪口を置いた。
「伊藤博文が同じ意味のことを言った。俺も言った。犬養毅も言った」
少し間を置く。
「誰も聞かなかった」
「でも、今回は違う」
弦一郎が言った。
「どこが違う?」
「今回は道理を言うんじゃない」
一拍。
「金を見せます」
幣原の、笑っているのか無表情なのか分からない顔が、わずかに動いた。
高橋是清は菊正宗を一口飲んだ。
「道理は誰も聞かん」
それから。
「だが、金が見えれば人は動く」
一拍。
「続けろ」
※ ※ ※
「組織が必要です」
弦一郎は言った。
「財界の人間をまとめて、中国市場で共通の利益を持たせる」
一拍。
「利益で縛れば、あとは自分たちで動く。政府が毎回命令する必要はない」
「どんな組織だ?」
高橋是清が聞いた。
「骨格は三社」
「三菱、三井、住友」
一拍。
「肉は大阪商工会議所で作る」
高橋是清は猪口を持ったまま、しばらく黙った。
「その組織の名前は?」
弦一郎は少し考えた。
「経済団体連合会」
少し間を置く。
「経団連」
高橋是清は、その名前を口の中で転がした。
それから幣原を見る。
幣原が軽くうなずいた。
高橋の呵々という笑いが漏れた。
「いい名前だ」
菊正宗を一口飲む。
それから突然、幣原に向いて、まったく関係のない話でもするような口調で言った。
「喜重郎、知ってるか。この少佐は前にこの座敷で、海老を一皿全部きれいに剥いて芸妓に押しやったんだ」
弦一郎の手。
菊正宗を持っていた手が、わずかに強張った。
幣原が弦一郎を見る。
外交官の目。
職業的で、穏やかな好奇心。
「ほう?」
「その芸妓の膝の上で一晩眠ってな」
高橋は続ける。
呵々という笑いが、どんどん丸くなる。
「それで今日、座敷へ入って最初にしたことが、その芸妓を探すことだ」
「そんなことは——」
弦一郎が口を開いた。
「目が探していた」
高橋は障子を指した。
「俺が見ていないと思ったか?」
幣原は視線を弦一郎から高橋へ移し、それから、また弦一郎へ戻した。
あの、笑っているのか無表情なのか分からない顔。
今度は——。
はっきり笑っていた。
「つまり」
幣原が、ゆっくりとした外交官の声で言う。
「この少佐は、その芸妓を待っているわけですね」
「経団連の話をしています」
弦一郎は言った。
「そうそう、経団連」
高橋が手を振る。
「喜重郎、千代のことはひとまず置いておけ」
弦一郎を見る。
「少佐に続けさせよう」
一拍。
「三菱の岩崎小彌太。なぜあいつが旗振り役に向いているか、話してみろ」
弦一郎は深く息を吸った。
「三菱の血には海があります」
二人を見る。
「海運、造船、貿易。外へ向かう本能がある」
一拍。
「岩崎小彌太。この人が一番説得しやすい」
高橋是清はうなずき、そのまま引き取った。
「岩崎という人間は俺も知っている」
一拍。
「お前の言う通り、海の血はある」
だが。
「あの人間は用心深すぎる。誰かが先に動くのを見てから動く」
高橋は言った。
「だから、先に動くのは三菱じゃない」
「三井だ」
弦一郎が見る。
「団琢磨ですか?」
「団琢磨は中国にすでに足場がある」
高橋は言った。
「損失は直接的で、動機も直接的だ。三井が先に表明すれば、岩崎はそれを見て動く」
弦一郎がうなずく。
幣原が口を開いた。
「三井が先に動き、三菱が続く」
一拍。
「住友は二社が動いたのを見れば、自分だけ動かないわけにはいかなくなる」
彼は言った。
「財界の論理としては、そういうものでしょう」
だが。
「外交の側には、もう一つ問題があります」
弦一郎を見る。
「中国側で、信頼の基盤をどこに置くか」
弦一郎はしばらく黙った。
「財界を先に行かせる」
幣原は続けた。
「中国側に、日本には商売をしたい人間がいる。すべての日本人が戦争をしたいわけではない、と見せる」
一拍。
「この信号は、政府より商人から出た方が信用される」
さらに。
「その後で外交は、その商業の流れを使って、より安定した枠組みを作る」
幣原は静かに言った。
「条約ではなく、習慣です」
「毎日行われる商取引」
「双方が、その存在に慣れる」
弦一郎は聞きながら、自分が昨夜、酔ったまま口にした方案の骨格が、二人の狸親父のやり取りの中で少しずつ形になっていくのを感じていた。
高橋是清が猪口を置いた。
「お前が言った研修所に、一つ足す」
「合弁工場だ」
弦一郎が見る。
「中国側の人間も、本物の株主にする」
一拍。
「利益も、意思決定権も与える」
「そうすれば、彼ら自身が売ってくれる」
弦一郎が引き取った。
「自分たちの商売でもあるから」
「そうだ」
高橋は言った。
「彼らが金を稼ぐ」
「周りの人間がそれを見る」
「そいつらも欲しくなる」
一拍。
「政府が押しているんじゃない」
「利益が、自分で押していく」
猪口を取り上げる。
「これを何と呼ぶ?」
弦一郎は少し考えた。
「利益が——」
一拍。
「平和を縛る」
高橋是清は、その言葉を口の中で転がした。
そして幣原を見る。
幣原はうなずいた。
あの、笑っているのか無表情なのか分からない顔が。
今度は、はっきりと笑いになった。
「利益が平和を縛る」
幣原は言った。
「この言葉は、どんな条約より役に立つ」
※ ※ ※
座敷がしばらく静かになった。
三人は菊正宗を飲み、何も言わなかった。
それから弦一郎は猪口を置いた。
高橋是清と幣原を見る。
「でも」
一拍。
「今の日本には、あまり時間がありません」
二人の狸親父が彼を見る。
何も言わず、続きを待った。
弦一郎は少し間を置いた。
「橋本欣五郎」
高橋の目が、わずかに動く。
「大川周明」
幣原の指が止まる。
「それから、あの動き始めている組織——」
桜会。
その名前は出さなかった。
だが、高橋是清と幣原の目は、弦一郎が橋本と大川の名前を口にした瞬間、同時にわずかに変わった。
驚きではない。
——お前も知っているのか。
そんな確認だった。
高橋是清は猪口を置いた。
あの呵々という笑いが消えた。
「あいつらのことなら」
一拍。
「俺の方が詳しい」
その口調には、弦一郎がこれまで彼からほとんど感じたことのないものがあった。
軽蔑ではない。
疲れだった。
あまりにも多くを見てきた老人が——。
こういうものは何度も見た。
そう言うときの疲れ。
「お前が言いたいのは」
高橋は言った。
「太陽が早く出てこないと」
一拍。
「北風が先にコートを吹き飛ばす」
「そういうことだな」
幣原は隣で何も言わず、ただ指で卓上を軽く一度叩いた。
その動作は同意を示していた。
同時に、この話題についてはこれ以上言う気がないことも示していた。
毎晩。
眠る前。
考えていること。
口にすると、かえって軽くなる。
そんな類のものなのかもしれない。
座敷がしばらく静かになった。
それから。
高橋是清が突然、幣原へ向いた。
「喜重郎」
一拍。
「陸軍の方はどうだ?」
さらに。
呵々という笑いが、意味ありげな表情へ変わる。
「陸軍の連中、最近、新喜楽へよく来てるようだな」
幣原の視線が、菊正宗から高橋へ。
それから弦一郎へ移った。
「そうですか」
幣原は、あのゆっくりとした声で言った。
「陸軍の方にも……確かに好みのよい方はいらっしゃいますからね」
弦一郎の背筋が、思わず伸びた。
幣原は菊正宗を飲み続ける。
その表情が——。
釣っているのか。
本気なのか。
弦一郎には、まったく分からない。
これが外交官の一番厄介なところだった。
高橋是清は横で、弦一郎の背筋が伸びるのを見た。
今度の呵々という笑いは、特に丸かった。
弦一郎は菊正宗を一口飲み、何も言わなかった。
※ ※ ※
一刻ほど話した。
菊正宗は二本目に替わっていた。
方案の輪郭が見え始めていた。
三井が先に表明する。
三菱が続く。
住友が締める。
大阪商工会議所が人と資金を出す。
中国側では、まず繊維と食品から始める。
敷居が低い。
効果が早く出る。
そして、金が見える。
利益で縛られれば、この機械は自分で動く。
政府が毎回命令する必要はない。
毎回、外交で折衝する必要もない。
商人対商人。
商売対商売。
太陽が——。
コートを乾かす。
幣原が立ち上がった。
背広を整える。
「是清」
一拍。
「この方向は、私の方でも準備を始めます」
扉のところで立ち止まった。
振り返る。
外交官らしい、ゆっくりとした口調。
「海野少佐」
弦一郎が見る。
「先ほど、橋本欣五郎と大川周明のことを言っていましたが——」
少し間を置く。
外交官の目。
この午後を通じて、弦一郎が最後まで完全には見抜けなかった何かが、その奥にあった。
「彼らが次に何をしようとしているか」
一拍。
「分かりますか?」
弦一郎はしばらく黙った。
分かっていた。
三月事件。
十月事件。
満洲事変。
だが。
どこから知ったのか。
それは言えない。
幣原は彼を見る。
外交官の目が、その沈黙を見抜く。
「答えなくていい」
彼は言った。
「ただ、一つお伝えしたいことがあります」
一拍。
「今日、あなたが言ったことは——」
少し間を置く。
「間に合えば、役に立つ」
そして。
静かに。
もう一度。
「間に合えば」
幣原は去った。
その痩せた後ろ姿が、障子の向こうへ消えた。
弦一郎はそこに座ったままだった。
「間に合えば」
その四文字が、座敷に漂っている。
重く。
沈んでいる。
それから。
高橋是清が立ち上がった。
丸い後ろ姿。
扉へ向かう。
「よし、残りは自分で考えろ」
一拍。
「まとまったら、また話そう」
扉のところで止まる。
振り返った。
「そうそう」
一拍。
「今日は時間を空けておいたぞ」
弦一郎。
嫌な予感。
「千代は今晩いる」
そして。
去った。
弦一郎はその座敷に座ったまま、菊正宗を持ち、あの丸い笑い声が廊下の向こうへ遠ざかっていくのを聞いた。
今日。
釣られた回数を、頭の中で数えた。
座敷へ入って、辺りを見回した。
一回。
高橋が海老の殻と膝枕のことを幣原に話した。
一回。
「陸軍の連中も最近、新喜楽へよく来ている」
一回。
幣原の——。
「陸軍の人間にも好みのよい者はいる」
釣りか本気か分からない。
半回。
「千代は今晩いる」
一回。
それから。
幣原の——。
「間に合えば」
その言葉を思い出した。
もう一度、考える。
今日。
高橋是清が彼を大蔵省へ呼んだ。
大蔵省の廊下で、井上準之助との言い争いを聞いた。
正門の外では、幣原喜重郎が待っていた。
そのまま三人で、新喜楽へ行った。
これは——。
偶然ではない。
あの達磨の狸親父は、今日出かける前から、もう駒を全部並べていた。
幣原の——。
「間に合えば」
それも、駒の一つだった。
弦一郎は菊正宗を持ち、庭の灯りを見る。
何も言わなかった。
新橋の街。
あの酔い覚めの朝。
思い出す。
自分が何をするべきか。
分かっていた。
ただ——。
「間に合えば」
その四文字が、その確信に少しだけ重さを加えた。
絶望ではない。
焦燥でもない。
切迫だった。
※ ※ ※
それから。
障子が、そっと鳴った。
外から。
弦一郎が振り返る。
千代が、小さなお盆を持って入ってきた。
菊正宗。
小皿の料理。
弦一郎を見る。
軽く礼をする。
跪座し、菊正宗を注ぐ。
そして。
弦一郎の知っている、あの真剣な目で彼を見た。
「少佐」
「はい?」
「竹野内豊……」
弦一郎が止まる。
「ずいぶん調べたのですが」
少し困った顔。
「そのようなお料理が、どこにも見つからなくて」
一拍。
「どちらの料亭のお料理なのでしょうか?」
さらに、真剣に。
「必ず、見つけてまいります」
弦一郎は黙って菊正宗を取り上げた。
一口。
飲んだ。
答えなかった。
庭の外では、虫の声が続いている。
菊正宗は——。
まだ冷たかった。
※ ※ ※
——第十話 了——




