第十一話 竹野内豊
千代は、新橋で一日中聞き回っていた。
朝は新橋界隈の有名な料亭を何軒か回り、主人に聞き、板前に聞き、仲居にも聞いた。
「竹野内豊、知りませんか? どこの料亭のお料理ですか?」
誰も知らなかった。
それから銀座へ行き、洋食屋を何軒か回った。
帝国ホテルの玄関係にも聞いた。
物知りそうな老紳士にも聞いた。
それでも、誰も知らなかった。
最後には築地まで行った。
ひょっとすると——。
竹野内豊というのは、魚の名前なのかもしれない。
そう思ったからだった。
だが。
やはり、誰も知らなかった。
新喜楽へ戻り、自分の小部屋で、その名前についてしばらく考えた。
竹野内豊。
流転の王妃。
あの少佐は、確かにそう言った。
まだ、自分が何か思い当たっていないだけなのだろうか。
※ ※ ※
それから弦一郎が来た。
千代は、その日一日聞き回った結果を話した。
真剣に。
そして、見つけられなかったことを少し申し訳なく思っているような口調で。
弦一郎は黙って聞いていた。
最初は普通だった。
だが、話が進むにつれて——。
だんだん顔が固まっていった。
最後には、千代には読み取れない表情になっていた。
笑いたいのか。
穴を掘って入りたいのか。
その中間くらいの顔。
「少佐」
千代は言った。
「竹野内豊、本当にどこの料亭のお料理か分からないのですか?」
少し間を置いて。
「明日、もう一度お聞きしてきますが——」
「いい」
弦一郎が言った。
声が、少しおかしかった。
「もう探さなくていい」
千代は彼を見た。
次の言葉を待つ。
弦一郎はしばらく黙っていた。
それから、深く息を吸った。
「千代」
「はい」
「竹野内豊の味」
一拍。
「試してみたいか?」
千代は目を瞬いた。
「俺が作ってやる」
さらに。
「新喜楽の厨房を借りてくれないか?」
千代は少し、ぽかんとした。
「少佐……」
一拍。
「ご自分で、お作りになるのですか?」
「そうだ」
弦一郎は、ごく普通のことを言っているような口調で答えた。
「主人に、厨房を少し貸してほしいと言ってくれ」
※ ※ ※
新喜楽の主人は、久兵衛といった。
この道四十年。
いろいろな客を見てきた。
大将が座敷でへべれけに酔ったこともある。
元総理が畳の上で昔の女を思い出して泣いたこともある。
財閥の若旦那が庭で人と揉めたこともある。
そんなものなら、何度も見てきた。
だが。
こういうことは、一度もなかった。
久兵衛は廊下に立ち、目の前の帝国海軍少佐を見た。
軍服。
飾緒。
参謀飾緒。
きちんとした正装。
その男が、まったく疑いの余地もない口調で言った。
「厨房を貸してほしい」
久兵衛の口が動いた。
だが、声が出なかった。
言いたかった。
——少佐、厨房は厨房でございます。座敷ではございません。本当にお入りになるのですか?
言いたかった。
——これが外へ漏れたら、新喜楽の格はどうなりましょう?
言いたかった。
——いったい、どう説明すればよろしいのでしょう?
しかし、一言も出てこなかった。
目の前には、帝国海軍少佐の軍服と飾緒がある。
自分に断る資格があるのかどうか。
それすら分からなかった。
そして気づけば、自分の声が出ていた。
「……はい。どうぞ」
廊下の向こうでは、小夜が物音を聞きつけて顔を出した。
弦一郎が厨房の方へ向かっていくのを見る。
少し、ぽかんとした。
それから、その後ろ姿をしばらく見つめた。
山本英輔が座敷でいつもどんな様子をしているか。
ふと思い出した。
小夜の口元の笑みが、いつもより少し深くなった。
何も言わず、歩き去ろうとする。
二歩。
進む。
止まる。
そして——。
廊下の隅に残って、見ていることにした。
※ ※ ※
新喜楽の板前は、源三といった。
五十代。
この厨房に三十年立っている。
ここは彼の縄張りだった。
誇りだった。
三十年分の技が詰まった場所だった。
総理のために料理を作った。
大将のためにも料理を作った。
三菱の大旦那のためにも作った。
だが。
客がこの厨房へ入ったことは、一度もない。
厨房は、客が入る場所ではない。
常識だった。
規則だった。
源三が三十年間、一度も疑ったことのないものだった。
そこへ、久兵衛が入ってきた。
源三は久兵衛の顔を見る。
これまで一度も見たことのない表情だった。
「源三」
少し言いにくそうに。
「こちらの少佐が……厨房を少しお使いになりたいとのことで……」
源三は入口を見た。
帝国海軍少佐。
飾緒。
正装。
その男が、自分の厨房の入口に立っている。
源三の口が動いた。
生まれて初めて、何を言えばいいのか分からなかった。
それから。
弦一郎が入ってきた。
そのまま調理台へ向かい、辺りを見回した。
「抹茶の粉はあるか?」
源三は見る。
「それから小豆、寒天、白玉粉、卵、牛乳、砂糖」
少し考える。
「木桶と塩」
さらに。
「氷も要る」
源三はその場に立ったまま、しばらく黙った。
そしてようやく口を開いた。
「少佐……」
一拍。
「ご自分でお作りになるのですか?」
「そうだ」
弦一郎は言った。
すでに棚の容器を開け、材料を確認している。
「氷はどこだ?」
源三は、ゆっくり氷桶の方を向いた。
その動きには——。
本人も気づいていないかもしれない。
何かで頭を強く殴られたあとのような、妙なゆっくりさがあった。
※ ※ ※
千代は厨房の入口に立っていた。
呼ばれたわけでもない。
帰れと言われたわけでもない。
ただ、そこに立って見ていた。
弦一郎は木桶を大きなたらいの中へ置いた。
周囲に氷を敷き、大量の塩を混ぜる。
その中へ、小さな金属容器を入れた。
中には、溶いた卵。
牛乳。
砂糖。
それらを混ぜたもの。
そして——。
回し始めた。
手で。
ぐるぐると。
金属容器を、氷と塩の中でひたすら回し続ける。
源三は隣に立ち、その動作を見ていた。
眉をひそめる。
「少佐、これは……」
「アイスクリームだ」
弦一郎は顔を上げなかった。
回し続ける。
「少し時間がかかる」
源三は——。
「アイスクリーム」
その言葉を頭の中で転がした。
知っている。
銀座の洋食屋。
西洋の菓子。
高価。
珍しい。
冷たい。
だが。
目の前の帝国海軍少佐は、木桶と塩と氷。
それだけを使って。
手で作っている。
源三は三十年、厨房に立ってきた。
いろいろなものを見てきた。
いろいろな悔しさも味わった。
しかし。
こんなものは初めてだった。
料理人でもない男が、自分の厨房で、最も素朴な方法を使って、自分が作ったことのないものを作っている。
今の自分の気持ちが何なのか。
源三には分からなかった。
千代は入口に立ったまま、弦一郎の横顔を見ていた。
容器を回している。
額には少し汗。
顔は真剣。
袖は肘まで捲っている。
その下から手が見える。
飾緒は、まだ胸にある。
参謀飾緒も肩から垂れている。
外そうとも思っていない。
帝国海軍少佐。
正装のまま。
新喜楽の厨房。
木桶を、ぐるぐる回している。
千代の指が、そっと握られた。
あの夜。
海老の殻を剥いてくれた手。
同じ手が今、自分のために氷菓子を作っている。
そして——。
あることを思った。
これまで、一度も思ったことのなかったこと。
誰かが、彼女のために何かをしてくれたことが——。
ほとんど、なかった。
もちろん、贈り物をする客はいる。
高価な物を渡す客もいる。
優しい言葉を言う客もいる。
でも。
それとは違う。
千代の暮らしてきた世界では、ずっと彼女が人のために何かをする側だった。
酌をする。
料理を取り分ける。
海老を剥く。
三味線を弾く。
優しい言葉をかける。
訓練された微笑みを見せる。
彼女が、みんなの世話をする。
それが普通だった。
誰かが、彼女の世話をする。
そういうことは、ほとんどなかった。
おかしいと思ったこともない。
それが、彼女の生活だった。
昔から知っている、世界の形だった。
なのに。
この少佐は——。
正装のまま厨房に立ち、自分の手で、彼女が一日中探しても見つけられなかったものを作っている。
仕事だからではない。
誰かが金を払っているからでもない。
命令されたからでもない。
彼女が一日中探して、見つけられなかった。
それを申し訳なく思った。
だから、厨房へ入った。
それだけ。
それほど単純だった。
だからこそ。
千代には、どう受け止めればいいのか分からなかった。
胸のどこかで——。
ぱきり。
何かが砕けた。
傷ついて砕けたのではない。
ずっと、そこにあるのが当たり前だと思っていたもの。
それが突然なくなった。
いつ作ったのかも覚えていない。
心の壁。
気づいたときには、もうなかった。
千代は厨房の入口に立ったまま、指を握り締めた。
下を向いた。
誰にも、顔を見せなかった。
※ ※ ※
アイスクリームができた。
一つはバニラ。
もう一つは抹茶。
淡い青緑色。
弦一郎は組み立て始めた。
西洋風の高脚ガラスの器。
底に小豆餡。
その上に、切った寒天。
さらに茹でた白玉団子。
源三は隣に立ち、見ていた。
それらが西洋のガラス器の中へ、一層、また一層と積まれていく。
源三の顔には、最初、自分の厨房を荒らされたような不機嫌さがあった。
それがだんだん、言葉にできないものへ変わっていった。
三十年。
料理を学んできた。
その人間が、自分とはまったく違うやり方で、自分には思いつかなかったものを目の前で作られている。
居心地が悪い。
でも。
何が悪いのか、分からない。
弦一郎はアイスクリームを二球、上へ乗せた。
一つ、バニラ。
一つ、抹茶。
そして。
薄い洋菓子を一枚、頂上へ挿した。
一歩下がる。
見る。
それからガラスの器を持ち上げた。
厨房の入口へ歩く。
千代へ差し出す。
「竹野内豊」
※ ※ ※
千代は、そのガラスの器を受け取った。
下を向いて見る。
これまで見たことのないものだった。
材料を知らないわけではない。
小豆。
寒天。
白玉。
抹茶。
全部知っている。
食べたこともある。
しかし。
こんなふうに重ねられ。
きらきらした西洋の高脚ガラスへ入れられ。
その上に淡い緑と白の氷菓子が二球。
さらに、薄い洋菓子が一枚挿してある。
そんなものは見たことがなかった。
一九三〇年。
夏。
午後。
陽光。
その中で。
どこから来たのか分からないような、妙な光を放っていた。
廊下の隅で、小夜はその光景を見ていた。
帝国海軍少佐が、千代へガラスの器を渡している。
本人は、自分が何をしているのかまるで分かっていないような、ごく自然な顔だった。
小夜は心の中で何かを思った。
だが、口には出さなかった。
久兵衛も隣にいた。
西洋のガラス器を見る。
千代の顔を見る。
弦一郎を見る。
長年、新喜楽で、男が女のためにいろいろなことをするのを見てきた。
だが。
これは見たことがなかった。
久兵衛は視線を外した。
別の場所を見ているふりをした。
「少佐」
千代が言った。
声は、自分で思ったより落ち着いていた。
「これは……」
一拍。
「本当に、竹野内豊というのですか?」
「そうだ」
弦一郎は言った。
「なぜ」
千代は器を見る。
「この名前なのですか?」
弦一郎は少し考えた。
それから。
「とても遠い場所の味だけど」
一拍。
「材料は全部、ここにあるから」
千代は、その言葉を受け取った。
下を向く。
長い匙を取る。
一匙。
小豆。
寒天。
白玉。
抹茶のアイスクリーム。
一緒に口へ運ぶ。
冷たい。
甘い。
最後に、抹茶のほろ苦さ。
それから白玉の柔らかさ。
小豆のなめらかさ。
全部が混ざる。
知らない味。
でも。
知っている材料。
全部、ここにある。
千代は顔を上げた。
弦一郎を見る。
「おいしい」
弦一郎はうなずいた。
何も言わない。
何か大きな仕事を一つやり遂げたような、完全に満足した顔だった。
源三は隣で、千代が「おいしい」と言うのを聞いた。
そして少佐の顔を見る。
黙って向きを変えた。
調理台を片づけ始める。
何も言わなかった。
※ ※ ※
弦一郎は厨房を片づけた。
鍋を洗う。
台を拭く。
使った器具を全部、元の場所へ戻す。
木桶もすすぎ、乾かす。
源三は厨房の入口に立ち、その様子を見ていた。
この軍人は——。
自分よりきれいに、厨房を元へ戻していく。
三十年。
板前としての誇り。
そして。
言葉にできない、敬意に少し似たもの。
その二つが、胸の中でぶつかっていた。
弦一郎は厨房を出た。
袖を整える。
さっきまでの一時間あまり、何もなかったような顔。
「貸してくれてありがとう」
久兵衛は廊下に立って、うなずいた。
「外にどう説明すればいいのか」
そんな顔も、ようやく少し収まっていた。
咳払いを一つ。
「少佐」
一拍。
「もし……次回もご入用でしたら」
少し言葉を探す。
「お申し付けください」
自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。
弦一郎はうなずいた。
それから、千代の隣へ歩く。
もうほとんど空になったガラスの器を一瞥した。
「おいしかったか?」
千代は下を向いた。
長い匙で、残った数口をゆっくり掬う。
「とても」
一拍。
「おいしかったです」
「それならよかった」
弦一郎の声には、本当にほっとした響きがあった。
「じゃあ、行くぞ」
「お気をつけて」
弦一郎は去った。
後ろ姿。
飾緒。
参謀飾緒。
新喜楽の廊下を進む。
角を曲がり、消える。
※ ※ ※
千代は、まだ廊下に座っていた。
ガラスの器には、最後の一口が残っている。
器を手に持ったまま、下を向く。
最後の一匙を掬う。
口へ運ぶ。
抹茶のほろ苦さ。
小豆の甘さ。
寒天の冷たさ。
白玉の、最後の柔らかさ。
そして。
ガラスの器は空になった。
空の器を手に持ったまま、弦一郎が消えた廊下の角を見つめる。
長い間、動かなかった。
考えていたのは、あの料理がどれほどおいしかったかではない。
彼が氷菓子を作るのに、どれほど手間をかけたかでもない。
次に彼が来たら。
竹野内豊はおいしかった。
そう伝えよう。
そして。
また作ってもらえないか、聞いてみよう。
そこまで考えて——。
止まった。
自分が何を考えているのかに気づいた。
次のことを考えていた。
次に、彼に会うことを待っていた。
芸妓が、客がまた来ることを待つ。
それとは違う。
あれなら知っている。
何度も見てきた。
仕事として。
礼儀として。
計算として。
客を待つ。
これは、違った。
知らないものだった。
どう呼べばいいのか分からないもの。
心の中に静かに座っている。
少し温かい。
どこへ置けばいいのか分からない。
千代は下を向いた。
空になったガラスの器を、廊下の木の床へそっと置いた。
器の内側には、まだ少しだけ抹茶の色が残っていた。
淡い青緑。
竹野内豊。
心の中で、その名前を一度言った。
とても遠い場所の味。
でも。
材料は全部、ここにある。
その遠い場所がどこなのか、千代には分からない。
ただ。
一つだけ分かった。
落ちていた。
少し、ではない。
もう這い上がれないくらい、深く。
落ちていた。
なかったことにはできない。
するつもりもなかった。
夏の陽光が斜めに差し込み続ける。
空のガラス器の影が、廊下の木の床へ細長く、曲線を帯びて伸びていた。
彼女の本名は——。
遙といった。
彼は今日。
竹野内豊と呼ばれるものを、一杯作ってくれた。
「それならよかった」
そう言って、去っていった。
去るとき。
自分が何を置いていったのか。
まったく知らないまま。
※ ※ ※
——第十一話 了——




