第十二話 どこから来たのか
その朝。
弦一郎は長門の廊下を歩いていた。
数人の将校のそばを通りかかったとき、いくつかの言葉が耳に入った。
自分に向けられたものではない。
声を落とした、数人の間だけのひそひそ話。
たまたま近づいたせいで、ほんの一切れだけ聞こえた。
「……陸軍の方が、ここ二日ほど、山本権兵衛大将と山本英輔長官を探しているらしい」
もう一人が続ける。
「何か話したいことがあるらしいが……条約の件だという話もあるし、別の話だという話もあって……」
そこで数人が弦一郎に気づいた。
声が止まる。
弦一郎は、そのまま歩き続けた。
止まらない。
振り返らない。
だが。
その言葉だけは頭の中に残った。
陸軍が、山本英輔を探している。
前を向いたまま、頭だけが動き始める。
幣原の——。
——間に合えば。
橋本欣五郎。
大川周明。
満鉄。
田中義一内閣が倒れたあと。
軍の内側。
国家改造。
統帥。
政治。
その周辺で、少しずつ聞こえ始めている危険な声。
それらが頭の中を一度回り、そして沈んだ。
まだ結論はない。
ただ。
予感だけが、静かに落ちてきた。
弦一郎は歩き続けた。
何も言わなかった。
※ ※ ※
数時間後。
伝令が来た。
「海野少佐」
「山本長官がお呼びです」
弦一郎は伝令を見て、うなずいた。
「分かった」
伝令が去る。
弦一郎はその場に、少しだけ立っていた。
さっきの予感に、今は少し輪郭がある。
山本英輔が自分を呼ぶ。
何を意味する?
陸軍からの圧力なのか。
山本自身が何かを確かめたいのか。
あるいは——。
両方。
分からない。
だが。
一つだけ分かる。
今日の会話は、普通の会話にはならない。
弦一郎は、考えられる可能性を一度、頭の中に並べた。
山本英輔。
ロンドン海軍軍縮条約に強く反発した、海軍中枢の一人。
海軍の力。
艦隊の力。
それを削られることへの怒りは、本物だった。
その山本と。
弦一郎がこれまで言ってきたこと。
ある角度から見れば、矛盾している。
兵棋演習。
戦艦決戦。
空母。
補給。
商売。
中国市場。
軍事力そのものを増やすより、戦争をしなくて済む形を先に作ろうとしている。
もし山本英輔が、これまでの言動を——。
軍の士気を乱すもの。
そう判断したら。
道はなくなる。
左遷。
あるいは、その先。
弦一郎は考えるのをやめた。
軍服を整える。
そして廊下へ歩き出した。
※ ※ ※
長門の廊下。
伝令の足音が後ろへ遠ざかる。
目の前には、執務室の扉。
弦一郎は少しだけ立ち止まり、深く息を吸った。
扉を叩く。
「入れ」
※ ※ ※
山本英輔の執務室は、新喜楽の座敷とはまったく違う空間だった。
大きさではない。
空気が違う。
新喜楽は、人を包む場所だった。
畳。
酒。
木。
暖かい空気。
ここは違う。
窓の向こうには横須賀湾。
午後の光が差し込み、室内全体を重い金色に染めている。
机。
書類。
地図。
筆立て。
毛筆が数本。
壁には海図。
航路。
座標。
書き込みがびっしりと入っている。
余分なものがない。
この部屋は、一つのことだけを語っていた。
——ここで一人の人間が働いている。
——その人間は、仕事以外のことを考える必要がない。
山本英輔は机の後ろに座っていた。
弦一郎が入る。
山本は見る。
何も言わない。
向かいの椅子を目で示した。
弦一郎は座った。
背筋を伸ばし、両手を膝へ置く。
この会話が危険なのは分かっている。
山本英輔が怖い。
それだけではない。
ここで一言。
方向を間違える。
語気を間違える。
言葉を一つ選び損ねる。
それだけで、帝国海軍での道がなくなる。
左遷。
あるいは——。
弦一郎は、その考えを押し込めた。
背筋をもう一度整える。
山本英輔が口を開いた。
「海野」
声は静かで、重かった。
「帝国海軍について」
一拍。
「お前は、どう思っている」
質問というより。
答えを逃がさないために、机の上へ直接置いた。
そんな言い方だった。
弦一郎は山本を見る。
鷹の目。
尋問でもない。
雑談でもない。
ただ、はっきり見ようとしている。
人間そのものを測る目。
日露戦争の砲火の中で磨かれた目。
山本は続けた。
声は変わらない。
「お前は……」
少し間を置く。
「帝国軍が強くなることを——」
一拍。
「好んでいないようだな」
※ ※ ※
執務室は静かだった。
窓の外では横須賀湾を渡る風が、遠くの水兵の掛け声を少しだけ運び、そして消えていく。
弦一郎は山本の言葉を、頭の中で一度通した。
——帝国軍が強くなることを好まない。
「ようだ」。
断定ではない。
観察。
だが、その観察の後ろには多くのものがある。
兵棋演習。
命中率。
料亭。
三戦。
長門。
大講堂。
復盤。
高橋。
幣原。
中国市場。
全部。
山本英輔は、それらを繋いだ。
そして。
この「ようだ」に辿り着いた。
一九三〇年。
帝国海軍。
連合艦隊司令長官の執務室。
この言葉は、ただの観察ではない。
机の上に刃を置いている。
——お前は、どう受ける。
そう見ている。
弦一郎は深く息を吸った。
「長官」
一拍。
「まず一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
山本は見る。
何も言わない。
ただ待っている。
目が重い。
「長官のお考えでは」
弦一郎は言う。
「帝国の軍隊は、何のためにあるのでしょうか」
山本の眉が、わずかに動いた。
考えたのではない。
予想していなかった問いの裏にある意味を測る動きだった。
弦一郎は続けた。
「帝国を守るためですか」
一拍。
「それとも、外へ広げるためですか」
さらに。
「帝国を続かせるためですか」
「それとも——」
「一時、強くするためですか」
山本の鷹の目から、弦一郎へ一度、圧がかかった。
怒りではない。
怒りより嫌な、冷静な圧力。
——お前がどこに立っているのか。
——今から見る。
そんな目だった。
「何を言っている」
山本の声は低い。
高くはない。
たったそれだけ。
だが、この部屋で弦一郎が今まで感じたことのない重さがあった。
弦一郎は下を向かなかった。
引かなかった。
「長官」
一拍。
「帝国を百年続かせる軍隊と」
「帝国を二十年で頂点まで押し上げ——」
一拍。
「その後、崩壊させる軍隊」
山本を見る。
「軍費も、艦の数も、訓練も、外から見れば同じように見えるかもしれません」
少し間を置く。
「でも、やっていることはまったく違います」
山本の圧力は消えない。
「帝国が——」
一拍。
「崩壊すると言っているのか」
危険。
この一言が、一番危険だった。
弦一郎にも分かる。
それでも引かなかった。
「可能性の話です」
一拍。
「長官。間違った方向へ進めば、たどり着く可能性です」
山本は見る。
沈黙。
長い。
その沈黙が、弦一郎の肩へ本当に重く乗る。
やがて山本が言った。
「お前の言う——」
一拍。
「二十年というのは」
「今から数えてか」
弦一郎は黙った。
その沈黙は、答えるより危険だった。
沈黙そのものが肯定になる。
山本は弦一郎の沈黙を見る。
目が何か変わった。
その沈黙から、知りたかったことを少し読み取った。
「海野」
山本は言う。
「自分が何を言っているか、分かっているのか」
弦一郎は山本を見る。
鷹の目。
執務室。
横須賀湾。
午後の光。
そして答えた。
「長官」
「分かっています」
一拍。
「だから言っています」
※ ※ ※
執務室は、しばらく静かだった。
山本英輔は何も言わない。
ただ弦一郎を見る。
目の前の少佐の内側も外側も、全部一度に見ようとしているようだった。
やがて窓の外へ視線を移す。
横須賀湾。
しばらく黙る。
そして。
「続けろ」
弦一郎は深く息を吸った。
「長官」
一拍。
「橋本欣五郎という人物をご存じでしょうか」
山本の表情は変わらない。
ただ、机の上の指先がほんの少し動いた。
「続けろ」
「橋本欣五郎」
弦一郎は言う。
「陸軍中佐。最近、中堅将校を糾合している」
一拍。
「軍縮条約」
「軍備」
「政治」
「そういうことを口にしています」
さらに続ける。
「でも、本当にやろうとしていることは、もっと深いところにあります」
山本を見る。
「その背後に——」
一拍。
「大川周明がいる」
山本の目は動かない。
弦一郎は続ける。
「大川周明は、単なる右翼思想家ではありません」
一拍。
「満鉄と深い関係がある」
「人脈」
「資金」
「満洲」
「そこに網がある」
さらに。
「帝国は満洲へ出るべきだ——そう言っているだけではない」
一拍。
「それを現実にするための土台を作っている」
執務室は静かだった。
弦一郎が「満鉄」と言った瞬間。
山本英輔の目の奥で、何かが動いた。
驚きではない。
もう何かに簡単に驚く年齢ではない。
これは確認だった。
ずっと、どこかで疑っていた。
だが、一つの線として言葉にはしていなかったものが。
今、一本に繋がった。
そんな目だった。
弦一郎はそれを見た。
声を少し低くする。
「長官」
一拍。
「田中義一内閣が倒れたあと、軍の中で妙な声が聞こえるようになっています」
山本の目を見る。
「陛下の御意志に従うのではなく——」
一拍。
「陛下の『本当の御意志』が何であるかを、自分たちが決めてよいのではないか」
山本の指先が、わずかに動いた。
弦一郎は続ける。
「陛下が実際に何を仰ったかではない」
「陛下は側近に欺かれている」
「政党に囲まれている」
「だから——」
一拍。
「忠臣である自分たちが、真の御意志を実現しなければならない」
静かに。
「そんな考え方です」
山本英輔の顔から、ほんのわずかに何かが消えた。
怒りではない。
もっと深いもの。
軍人として、触れてはいけない場所へ誰かの手が伸びた。
それを聞いた人間の顔だった。
弦一郎は言った。
「それは天皇を否定する思想ではありません」
一拍。
「むしろ、尊皇を名乗る」
「だからこそ危険です」
山本は何も言わない。
「陛下御自身の御意志より、自分たちが解釈した『真の御意』の方が上に置かれるようになれば——」
一拍。
「それはもう、忠誠ではありません」
さらに。
「下克上です」
執務室が完全に静かになった。
弦一郎は最後に言う。
「相手が大臣でも、首相でも、元老でもない」
一拍。
「最後には、陛下御自身まで、その下克上の対象になります」
山本英輔の体に、ごく微かな、ほとんど見えない動きがあった。
後退ではない。
何かに打たれたあと、本能的に身を固くした。
そんな動きだった。
弦一郎はそれを見た。
「長官がお聞きになったことがあるかは、分かりませんが」
長い沈黙。
これまでで、一番長い。
窓の外では、横須賀湾の光だけがゆっくり動いていた。
そして。
山本英輔が言った。
「聞いている」
それだけだった。
だが、その一言の中にどれだけのものが入っているのか。
弦一郎には感じられた。
日露戦争から歩いてきた軍人。
忠誠。
統帥。
国家。
天皇。
それらを疑うという発想すら成立しなかった土台。
今、その土台を帝国の内側から「尊皇」の名で別の形に動かそうとする声が生まれている。
外敵ではない。
内側から。
弦一郎はしばらく黙った。
そして。
「長官」
一拍。
「もし、その土台まで揺れ始めたら——」
最後までは言わない。
必要がない。
山本には分かる。
山本英輔は視線を窓の外へ移した。
横須賀湾の水面を見る。
長い。
何も言わない。
その沈黙は、今までのどれとも違った。
一人の人間が、最も深いところで、ずっと正面から見ることを避けてきた問い。
それを今、目の前へ置かれた。
そんな沈黙だった。
弦一郎は急かさない。
ただ待った。
※ ※ ※
それから。
山本英輔が言った。
「海野」
一拍。
「一人の軍人が」
「時代に抗えると思うか」
試すための問いではない。
ずっと自分に聞いていた問いを、初めて外へ出した。
そんな言葉だった。
弦一郎は山本を見る。
そして言う。
「長官」
「抗おうと言っているのではありません」
山本が見る。
「その時代が完全に来る前に——」
一拍。
「別のものを先に動かせなくする」
「そう言っています」
山本。
「何をだ」
「利益です」
弦一郎は言う。
「商人たちに、中国市場の金を先に流す」
一拍。
「財界」
「経団連」
「大阪」
「三井」
「三菱」
「住友」
「みんなに先に、甘い味を覚えさせる」
山本を見る。
「利益が一度形になれば、それ自体が抵抗力になります」
少し間を置く。
「大川周明の力は、思想だけではない」
「人脈」
「資金」
「満鉄」
「そこにある」
一拍。
「でも、その金や人が、ほかの方向でもっと儲かるようになれば」
「同じようには動かせなくなる」
さらに。
「中国市場がすでに動いている」
「大阪の商人がすでに稼いでいる」
「満鉄自身の算盤まで変わり始める」
一拍。
「そうなれば、大川へ流れていたものも、同じようには流れません」
山本はしばらく黙った。
そして。
「釜底抽薪か」
弦一郎はうなずいた。
「そうです」
一拍。
「火と正面から戦うんじゃない」
「その火に燃やせる薪をなくす」
山本は窓の外を見る。
横須賀湾。
長い沈黙。
弦一郎は急かさない。
待つ。
窓の外では陽光が水面で跳ねている。
室内は涼しい。
厚い壁が夏の熱を遮っていた。
やがて山本が言った。
「根が深く張れば——」
一拍。
「風が来ても倒れない」
弦一郎が以前言った言葉だった。
山本が、それを繰り返した。
ただ覚えているだけではない。
——聞いた。
——覚えた。
——考えている。
そう示す言葉だった。
弦一郎はうなずいた。
何も言わない。
山本英輔が弦一郎へ向き直る。
「まだ——」
一拍。
「何か要るものはあるか」
※ ※ ※
弦一郎は少し考えた。
そして。
「長官」
「時間が要ります」
山本が見る。
「時間は自分で勝ち取るものだ」
一拍。
「俺が与えるものではない」
「分かっています」
弦一郎は言った。
「ただ——」
少し間を置く。
「一人でやっているんじゃない」
一拍。
「そう知りたいんです」
執務室は静かだった。
山本英輔は弦一郎を見る。
鷹の目。
その奥に、弦一郎にはうまく言葉にできないものがあった。
憐れみではない。
賞賛でもない。
長く生き、多くを見てきた老人が、若い人間の中に、昔どこかで見たことのあるものを見つけた。
そんな表情。
そして山本は言った。
「やるべきことを——」
一拍。
「やれ」
それだけだった。
弦一郎はうなずいた。
立つ。
「はい」
扉へ向かう。
「海野」
止まる。
振り返る。
山本英輔は机の後ろに座っている。
口髭は動かない。
背筋は伸びている。
鷹の目が弦一郎を見る。
「ある人物に会わせたい」
弦一郎は見る。
「どなたですか?」
山本英輔は、その名前を言った。
「東郷平八郎だ」
※ ※ ※
弦一郎は、その場に立ったまましばらく黙った。
驚いたというより。
その名前を頭の中で、現実へ着地させるのに少し時間が必要だった。
東郷平八郎。
日本海海戦。
Z旗。
——皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。
ただの人名ではない。
帝国海軍。
その象徴。
魂の置き場所。
弦一郎は二〇二六年に教科書で読んだ。
歴史を学んだ。
海自に入ったあと。
その海軍から何が受け継がれ。
何が切られ。
何が残ったのか。
何度も考えた。
その一番奥にある名前。
まだ生きている。
一九三〇年。
八十三歳。
東郷平八郎。
まだ、生きている。
弦一郎は顔を上げ、山本を見る。
「あの方が……」
一拍。
「会ってくださるのですか?」
山本英輔の口髭が、ほんの少し動いた。
「もう、ずいぶん前から——」
一拍。
「お前に会いたいと言っておられた」
弦一郎は少し、ぽかんとした。
「私のことをご存じなんですか?」
「兵棋演習のお前の記録を、お読みになった」
山本は言う。
まるで普通の話をしているような口調だった。
「そのあと、一つ俺に聞かれた」
弦一郎は見る。
「何と?」
山本英輔は少し黙った。
そして言う。
「この者は——」
一拍。
「どこから来たのか」
※ ※ ※
弦一郎は執務室を出た。
廊下に立つ。
端の窓から、横須賀湾の陽光が差し込んでいる。
自分の影が、床へ長く伸びていた。
——どこから来たのか。
その言葉を、頭の中で一度回す。
東郷平八郎が聞いた。
本当に字義通りなのかもしれない。
——この若い少佐は、どんな経歴で、どこから来た。
そういう問いなのかもしれない。
でも。
違うのかもしれない。
弦一郎は窓の外を見る。
横須賀湾。
午後の陽光。
海面は深く、重い青色だった。
自分がどこから来たのか。
分かっている。
二〇二六年。
いずも。
中央防波堤。
缶ビール、六本。
そして。
一九三〇年。
でも、その答えは言えない。
言えるのは——。
別の答え。
一つだけ。
——あの人たちを、無駄死にさせたくない者です。
それで十分なのか。
東郷平八郎は納得するか。
山本英輔は安心するか。
分からない。
でも。
今、言えるのはそれだけだった。
弦一郎は深く息を吸った。
そして前へ歩き出す。
廊下の先。
横須賀湾の水面が、陽光を受けて光っていた。
※ ※ ※
——第十二話 了——




