第十三話 やれよ
麹町上六番町三十七番地。
弦一郎は門の前に立ち、まず目の前の屋敷を見渡した。
控えめで、静かな日本家屋。
庭には老松が何本か立ち、塀は古く、木材は長い年月を経た濃い色を帯びている。
門から奥へと続く石畳。
その両側には、低い木々がきれいに刈り揃えられていた。
一見すれば、普通の古い日本家屋だった。
見せびらかすものもない。
わざわざ何かを示そうとするものもない。
それから——。
弦一郎は門の両側にいる獅子を見た。
西洋式。
石造り。
左右に一頭ずつ。
同じ姿勢。
同じ表情。
そこにうずくまっている。
弦一郎は心の中で、一言だけ言った。
——やっぱりな。
あの二頭の獅子。
二〇二六年。
ある週末、原宿のあたりを歩いて、東郷元帥記念公園へ行ったことがある。
そのときも門の前に二頭いた。
同じ姿勢。
同じ顔。
ずっと、そこにうずくまっていた。
あのとき弦一郎は思った。
——こいつら、本当に職務に忠実だな。
今。
一九三〇年。
麹町。
まだずっと新しい、その二頭を見る。
妙な感覚だった。
この二頭は、これからもっと長くここにいる。
自分が今ここにいる時間より、ずっと長く。
この屋敷は、いつか公園になる。
でも二頭は、門の前に残る。
一九三〇年。
二〇二六年。
その間には戦争がある。
焼け跡がある。
復興がある。
時代が全部、通り過ぎる。
それでも、いる。
弦一郎は心の中で二頭へ言った。
——疲れないのか。
「海野」
隣から、山本英輔の乾いた薩摩訛りが飛んできた。
弦一郎は急いで顔を戻した。
軍服を整える。
深く息を吸う。
そして、山本の後についていった。
※ ※ ※
歩きながら、これから会う人物のことを思い出した。
普通の先輩ではない。
新喜楽にいる、別の狸親父でもない。
説得しなければならない政界の誰かでもない。
東郷平八郎。
日本海海戦。
一九〇五年五月二十七日。
対馬沖。
連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ。
旗艦、三笠。
Z旗。
——皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ。
そして、敵前での大回頭。
後世、東郷ターン。
丁字戦法。
そう呼ばれる。
あの海戦。
世界が驚いた、日本側の圧倒的な勝利。
海自に入ってから、一度ではない。
何度も講義を受けた。
海戦図。
ロシア艦隊の進路。
日本艦隊の転向。
三笠。
Z旗。
教科書で何度も見た。
机上で何度も分析した。
その艦隊を率いた人間。
その決断を下した人間。
あの旗が掲がる艦上に立っていた人間。
今。
中にいる。
まだ生きている。
八十二歳。
あの扉の向こうに。
弦一郎は山本英輔について歩いた。
そして、気づいた。
足がわずかに震えている。
どうにも制御できない。
背筋を伸ばす。
歩調を整える。
震えを押さえる。
——俺は海自の技術官だ。
——訓練も受けた。
——いろんな上官も見てきた。
——俺は。
それでも。
足は震えた。
どうにもならなかった。
※ ※ ※
扉が開いた。
中は畳敷きの、古い日本式の部屋だった。
庭側から陽光が斜めに差し込み、室内全体を静かな金色に染めている。
その中に、淡い煙が漂っていた。
煙草の匂い。
弦一郎には銘柄までは分からない。
煙管から細く立ち昇る煙が、まるで昔からこの部屋の空気の一部だったように漂っている。
そして。
その人物を見た。
畳に座る老人。
背筋は、まだ伸びている。
手には煙管。
ちょうど一服を吐いたところだった。
動きはゆっくりしている。
何十年も同じことをしてきた人間の動きだった。
弦一郎の頭が、その瞬間、妙なことをした。
目の前の八十二歳の老人に。
教科書で何度も見た日本海海戦の海戦図が重なる。
Z旗。
敵前大回頭。
ロシア艦隊。
——この人だ。
今。
そこに座って、煙管を吹かしている。
この人が、あの艦隊を率いた。
あの日。
三笠にZ旗が掲がった。
——皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ。
その旗を背に、対馬沖へ入った人間。
目の前にいる。
弦一郎がずっと押さえていたものが、その瞬間、押さえきれなくなった。
足が、確かに震えた。
唾を飲み込む。
顔だけは平静を保つ。
目を逸らさない。
——俺は海自の技術官だ。
——いろんな上官を見てきた。
——俺は。
東郷平八郎が煙管から視線を外し、弦一郎へ向けた。
老いた目が、一度だけ弦一郎の上を走る。
その一度で分かった。
この目は、対馬沖を見ている。
列強の海軍を見ている。
戦争を見ている。
死を見ている。
弦一郎が教科書の文字や写真や数字でしか知らないものを、全部、自分の目で見ている。
その目が一秒、弦一郎の内から外までを走る。
重い。
山本英輔の鷹の目とも違う。
もっと深い。
もっと重い。
どう立てばいいのか分からない。
弦一郎は背筋を伸ばし、震えを押さえ、平静を装った。
そのとき。
後ろから山本英輔が入ってきた。
足音。
東郷平八郎の視線が弦一郎から離れ、山本へ移る。
パシッ。
手が上がった。
山本英輔の頭に落ちた。
重くはない。
だが、はっきりしている。
そして妙に慣れた手つきだった。
「この馬鹿芋は」
一拍。
「そこに突っ立って何しとる」
さらに。
「座れと言われんと分からんのか」
乾いた薩摩の言葉。
弦一郎が山本英輔から時々感じる、あの質感。
でも、もっと古い。
もっと直接的で。
もっと遠慮がない。
山本英輔は立ったまま、口髭をほんの少し動かした。
怒っているわけでもない。
不服でもない。
同じ人間から、昔から何度も同じことをされてきた。
完全に慣れている。
非常に親しみのある諦め。
そして座った。
何も言わない。
弦一郎は、その光景を見た。
足はまだ震えている。
だが頭の中で、何かがすとんと落ちた。
——山本英輔にも、こういう人がいるのか。
この老人の前では。
山本英輔は長官でも、海軍中枢の大物でもない。
ただ昔から頭を叩かれてきた、薩摩の後輩。
その発見が、震えをほんの少し軽くした。
東郷平八郎は山本から視線を外し、また弦一郎を見る。
二度目。
今度はゆっくりと、細かく、何かを確認するように。
「座れ」
※ ※ ※
弦一郎は座った。
足が畳につく。
震えが少し収まった。
頭の中に、考えられる質問を全部並べる。
東郷平八郎。
何を聞く?
兵棋演習。
戦術。
帝国海軍。
これから。
中国市場。
遠い場所。
全部、答えを準備する。
背筋を伸ばす。
呼吸を整える。
いつでも答えられる。
東郷平八郎は煙管を一服した。
老いた目で弦一郎を見る。
そして。
何でもないように聞いた。
「横須賀から来たんだろ」
一拍。
「途中で何か食ったか」
弦一郎は少し、ぽかんとした。
準備した答えが全部消えた。
方向が違う。
いや。
そもそも方向がない。
「……食べました」
声は、思ったより小さかった。
東郷平八郎はうなずく。
煙管を一服。
「食ったならよか」
それだけ。
そして、また煙草を吸う。
まるで必要な答えはもう得たように。
部屋はしばらく静かだった。
煙。
陽光。
ゆっくりと散る。
山本英輔は隣に座っている。
——やっぱりこうなった。
そんな顔で、何も言わない。
弦一郎は座ったまま考える。
「食べました」。
それが東郷平八郎に何を伝えたのか。
分からない。
次に何を聞くのか。
いつ聞くのか。
分からない。
この先、何が起きるのかも分からない。
準備は全部した。
でも。
出す場所がない。
その宙ぶらりんな感じが、圧力よりきつい。
足がまた、ほんの少し震えた。
※ ※ ※
それから。
東郷平八郎が煙管を置いた。
老いた目で、まっすぐ弦一郎を見る。
「小僧」
一拍。
「お前のあれは」
「どこで覚えた」
少し間を置く。
老薩摩人の目には、疑いはなかった。
何かがもう見えている。
あとは本人が何を言うか、待っている。
そんな目だった。
「いや」
煙管を持つ指が少し動く。
「面倒くさい」
一拍。
「お前」
「どこから来た」
弦一郎は深く息を吸った。
嘘は、この目の前では二言も持たない。
分かる。
回り道は無理だ。
言えるのは。
真実に一番近い嘘。
「長官」
弦一郎は言った。
「夢を——」
一拍。
「見たんです」
隣で山本英輔の口髭が、わずかに動く。
「夢の中で」
「仙人に会って」
「いろいろ教わりました」
山本英輔の手が上がる。
パシッ。
弦一郎の後頭部に落ちた。
重くはない。
だが意味は明確。
「何を言って——」
パシッ。
今度は東郷平八郎の手が、山本英輔の頭に落ちた。
さっき弦一郎を叩いたより、少し強い。
「どうやって作り話するか」
一拍。
「聞こうとしとるのに」
「なぜお前が叩く」
山本英輔の口が閉じた。
手を下ろす。
口髭が何度か動く。
そして横へ引く。
——はい。
——分かりました。
——黙ります。
完全に、そんな姿勢だった。
弦一郎は座ったまま、後頭部が少し熱い。
山本英輔の、叩かれたあとの顔を見る。
妙な感覚だった。
笑いたいわけではない。
ただ、ずっと張っていたものが突然少し緩んだ。
東郷平八郎は煙管を取り直し、弦一郎を見る。
その目が言っていた。
——続けろ。
弦一郎は深く息を吸った。
「夢の中で」
「仙人が教えてくれました」
少し間を置く。
「帝国海軍は——」
「一つの大きな戦争に」
一拍。
「負ける」
言葉が部屋に落ちた。
静かだった。
さらに。
「帝国は焼け跡の中から、もう一度、海軍を一から作り直します」
東郷を見る。
「その海軍は」
「あなたから」
「山本長官から」
「ここにいる、すべての先輩方から」
「受け継いだものを——」
一拍。
「残して、伝えていく」
さらに。
「私は」
「その海軍にいます」
部屋が静かになった。
煙。
陽光。
金色が畳の上を流れている。
東郷平八郎は煙管を一服し、老いた目で弦一郎を見る。
長い。
本当に長い沈黙。
山本英輔も隣で動かない。
何も言わない。
この数か月。
弦一郎が経験したどの沈黙よりも重かった。
東郷の目は、弦一郎の話が本当か嘘かを考えているようには見えなかった。
もっと先。
——もし本当なら。
——それは何を意味する。
そこを考えている。
そんな沈黙だった。
そして。
東郷平八郎が言った。
「それで」
一拍。
「お前は今」
「帝国に、その戦争を——」
煙管を一服。
「勝たせたいのか」
少し間を置く。
「それとも」
「そこまでひどく負けんように、したいのか」
※ ※ ※
弦一郎は東郷平八郎を見る。
対馬沖を見た目。
煙管。
静かな金色の部屋。
そして思い出す。
大講堂。
あの顔。
南雲忠一。
ミッドウェー。
宇垣纏。
最後の出撃。
小澤治三郎。
レイテ沖。
それから。
名前のない人たち。
誰も覚えていない人たち。
武蔵。
シブヤン海。
沈む。
大和。
坊ノ岬。
最後。
自分の目で見たわけではない。
でも起きた。
知っている。
そこにいた人間がいた。
死んだ。
知っている。
弦一郎は言った。
「長官」
一拍。
「俺は」
「この戦争で」
「これ以上、日本人に死んでほしくない」
ただ。
それだけだった。
少し間を置く。
「帝国に——」
一拍。
「その戦争を、させたくないんです」
部屋が静かになった。
あまりにも多くの戦争を見てきた老人が。
誰からも、ここまで直接言われたことのない答えを聞いた。
そんな沈黙だった。
東郷平八郎は煙管を一服する。
弦一郎を長く、長く見る。
その沈黙は、疑っているのでもない。
評価しているのでもない。
本当に年老いた人間が、心の深いところで何かを確かめている。
そんな沈黙だった。
煙が陽光の中で、ゆっくり散る。
それから。
東郷平八郎は煙管を置いた。
その動作は、この部屋ではどんな言葉より重かった。
弦一郎を見る。
薩摩の乾いた声。
「じゃあ」
一拍。
「ここで何しとる」
そして。
「やれよ」
パシッ。
手が、また山本英輔の頭に落ちる。
「お前が育てた海軍は」
一拍。
「全部、馬鹿芋か」
山本英輔は座ったまま、口髭を一度動かした。
もう一度。
また一度。
何も言わない。
でも、その口髭が全部語っていた。
弦一郎はその光景を見た。
そして立ち上がった。
東郷平八郎へ頭を下げる。
これまでの生涯で、一番真剣な礼。
規則だからではない。
本当に、そうしたかった。
自分が受け継いだものが、どこから来たのか知っている。
今。
その源の前に立っている。
言葉では言えない。
だから礼をする。
——残してくれて、ありがとうございます。
——俺たちまで届くようにしてくれて、ありがとうございます。
東郷平八郎は弦一郎を見なかった。
手を振る。
「行け」
弦一郎は扉へ向かう。
「待て」
止まる。
振り返る。
東郷平八郎は煙管を取り直し、一服した。
老薩摩人の何でもない口調。
「用があれば」
「また来い」
一拍。
「山本の家に来たみたいに、びくびくするな」
「娘みたいだ」
山本英輔の口髭が少し動く。
「それから」
東郷は煙管を手の中で転がした。
「暇があったら」
「もう少し実のあることをしろ」
一拍。
「芸妓のご機嫌取りばかりしとらんで」
弦一郎は、その場に立ったまま少し黙った。
「大事を成し遂げたら」
東郷平八郎は言う。
老いた目が弦一郎を見る。
そこには今まで見たことのないものがあった。
命令ではない。
本当に若い人間の先を気にしている老人の声。
「あの芸妓が好きなら」
一拍。
「英輔に言え」
「話をつけさせる」
山本英輔へ目を向ける。
「ごちゃごちゃ言うなら」
「俺のところへ来い」
一拍。
「頭を叩き落としてやる」
山本英輔はそこに座り、口髭を何度も動かしていた。
面と向かって勝手に話を決められた。
反論できない。
しかも、実はそこまで反対でもない。
でも何も言えない。
そういう顔だった。
弦一郎は扉のところで立っている。
——待て。
千代のこと。
どうやって知った?
頭が動く。
高橋。
山本英輔に話した。
山本英輔が東郷に話した。
それとも、山本が最初から知っていた。
あるいは。
この老人に独自の情報網がある。
高橋是清の呵々という笑いを思い出す。
幣原の、あのゆっくりした口調を思い出す。
そして気づいた。
この数か月。
自分は何人の老人たちの噂の種になっていたんだ。
感動ではない。
自分の私生活が、老人たちの噂話として全部共有されている。
突然それを知った、何とも言えない遣る瀬なさ。
さらに。
東郷平八郎がさっき言った。
——あの芸妓が好きなら。
思い出す。
千代。
好きなのか。
分からない。
顔。
海老を剥いた夜。
手の感触。
竹野内豊を作った午後。
「おいしい」
そう言ったとき。
心の中に何かが生まれた。
それを好きと呼ぶのか。
分からない。
そう呼んでいいものなのかも分からない。
でも。
違うとも言えない。
そして、その瞬間。
気づいた。
足は、もう震えていなかった。
落ち着いたからではない。
頭の中が、別のことで完全にいっぱいになったからだ。
八十二歳の薩摩の老人に、恋愛の世話まで焼かれる。
それは——。
対馬沖より対処しようがない。
弦一郎は深く息を吸った。
「はい」
一拍。
「長官」
東郷平八郎は手を振った。
もう何も言わない。
煙管を取り直し、一服する。
庭。
老松。
そちらへ向き直る。
八十二歳の後ろ姿。
背筋はまだ伸びている。
煙管。
畳。
金色の陽光。
弦一郎は、その背中を心の中でもう一度見た。
そして、部屋を出た。
※ ※ ※
屋敷を出る。
八月の陽光。
麹町。
静かな石畳。
弦一郎と山本英輔は、門の前に立った。
二頭の西洋式の石獅子は、まだそこにいた。
同じ姿勢。
同じ表情。
山本英輔は、何度も叩かれた頭を撫でた。
少し黙る。
そして口を開く。
「さっきの言葉」
一拍。
「全部、覚えたか」
弦一郎はうなずいた。
「全部」
山本英輔は、もう何も言わなかった。
前へ歩き出す。
弦一郎は歩き出す前に、もう一度二頭の獅子を見た。
同じ姿勢。
同じ表情。
一九三〇年八月の陽光の中で、そこにうずくまっている。
心の中で言う。
——もういい。
——お前たちは、これからもまだ長い。
——頑張れ。
それから山本英輔についていった。
八月の陽光が、二人の影を麹町の石畳へ押しつける。
一つは長く。
一つは少し短い。
前へ。
前へ。
伸びていた。
※ ※ ※
——第十三話 了——




