第十四話 八本の指
それから、三か月が過ぎた。
十一月十三日。
小澤治三郎が入ってきたとき、その後ろに一人の男がついてきた。
弦一郎は、まずその人の体格を見た。
小柄。
だが、がっしりしている。
鍛えて作ったというより、骨格そのものが最初から密度を持っている。
そんな体つきだった。
それから顔を見る。
そして——。
手を見た。
左手。
人差し指がない。
中指もない。
八本の指。
その手が身体の脇へ自然に垂れている。
まるで、生まれたときから八本しかなかったように。
それから弦一郎は、その目を見た。
穏やか。
礼儀正しい。
骨の髄から滲み出るような謙虚さ。
でも。
その目の奥には、何かがある。
どんな場所でも。
どんな瞬間でも。
目の前に勝負があれば、ずっと値踏みしている。
頭のいい人間の目。
弦一郎は、小澤の紹介を待つ必要がなかった。
分かった。
山本五十六。
海軍少将。
海軍航空本部技術部長。
アメリカ滞在中。
ブリッジ。
ポーカー。
その他、賭け事全般。
恐ろしく強かった男。
弦一郎は心の中で、非常に静かに一つだけ決めた。
——何でもいい。
——ただし。
——賭け事だけは駄目だ。
この八本指の男。
賭場では絶対に信用してはいけない。
※ ※ ※
山本五十六は弦一郎の前まで来ると、丁寧に一礼した。
穏やかで、何の圧迫感もない。
「海野少佐」
一拍。
「かねてより、お名前は伺っております」
さらに。
「山本五十六です。よろしくお願いします」
弦一郎も答礼した。
なるべく視線が左手へ行かないようにする。
「山本少将。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
小澤治三郎は隣に立っていた。
腕を組む。
石像。
しゃがれた声。
「山本少将に——」
一拍。
「頭のいい少佐がいると言ったら、一度話してみたいというのでな」
山本五十六は穏やかにうなずいた。
「小澤から、艦隊作戦について面白いお考えをお持ちだと聞きました」
一拍。
「私も航空本部で、いくつかご意見を伺いたいことがあります」
さらに。
「今日は、お邪魔させていただきました」
弦一郎はうなずいた。
「どうぞ、お座りください」
椅子を見る。
そして。
山本五十六の左手を、ちらりと見る。
——賭け事は駄目。
——絶対に駄目だ。
※ ※ ※
「ロンドン条約で」
山本五十六が言った。
「主力艦について、大きな制限がかかりました」
声は穏やかだった。
だが、その中には考えている人間特有の硬さがある。
「私は、この不足を航空兵力で補うべきだと考えています」
一拍。
「空母」
「艦載機」
「航空打撃力」
さらに。
「水上艦艇だけでは埋められないものを、航空で埋める」
弦一郎はうなずいた。
何も言わず、続きを待つ。
「しかし」
山本は少し間を置いた。
「今の艦載機では足りません」
一拍。
「複葉機」
「速力」
「航続力」
「搭載量」
少し考える。
「航空兵力で海戦そのものを変えたいのであれば、今の飛行機では——」
一拍。
「その役目を背負えない」
弦一郎を見る。
あの、勝負を測る目。
「そこで、海野少佐のご意見を聞きたいのです」
弦一郎は深く息を吸った。
「少将」
一拍。
「最初に申し上げておきます」
「私は、飛行機の設計については専門外です」
さらに。
「ただ、艦隊作戦としてなら、いくつか考えていることがあります」
山本五十六がうなずく。
——続けてください。
目がそう言っていた。
「今までの海戦の考え方は」
弦一郎は言った。
「主力艦同士の決戦です」
一拍。
「陣形」
「主砲」
「魚雷」
「そして、敵艦隊を目で捉える」
山本を見る。
「つまり、双方が互いの艦隊を発見して、そこから戦闘が始まる」
少し間を置く。
「それが前提です」
さらに。
「でも、もし——」
「敵がこちらの主力艦を見るより前に」
「こちらが敵の主力艦を攻撃できたら」
一拍。
「その前提はなくなります」
山本五十六は見る。
何も言わない。
弦一郎は続ける。
「空母は、敵の主力艦と砲戦をするためにあるわけじゃない」
一拍。
「主力艦同士の決戦が始まる前に」
「敵の艦隊を傷つける」
さらに。
「動けなくする」
「目を潰す」
「陣形を崩す」
「そうするためにある」
少し間を置く。
「だから、もしそれが本当にできるようになるなら——」
弦一郎は山本を見る。
「空母は脇役ではありません」
一拍。
「主役です」
さらに。
「戦艦が空母を使うんじゃない」
「空母を中心に、艦隊を組むようになる」
部屋が、しばらく静かになった。
山本五十六。
小澤治三郎。
二人が同時に弦一郎を見る。
面白い理論を聞いた。
それだけではない。
予想していなかった方向を、突然机の上へ置かれた。
そんな顔だった。
弦一郎の頭に、ふと一言浮かぶ。
——宇宙人を見る目だな。
続ける。
「そのためには、艦載機に必要なものがあります」
一拍。
「航続力」
「速力」
「上昇力」
「搭載量」
「それから——」
「機体の信頼性」
山本は聞いている。
「どれか一つでも大きく欠ければ——」
一拍。
「この考え方は成立しません」
山本五十六は、八本指の手を机へ置いた。
「おっしゃることは分かります」
一拍。
「私も、似たところまでは考えています」
口調はまだ穏やかだった。
「問題は、そこです」
さらに。
「今の飛行機が、そこまで届かない」
一拍。
「だから今のところ、理屈は理屈のままです」
弦一郎はうなずいた。
「そうです」
「今の複葉艦載機では足りない」
「では」
山本が聞く。
「どうすればいいと思われますか」
弦一郎は机を見る。
考える。
答えは知っている。
その答えが、どんな姿をしているかも知っている。
でも。
設計図は知らない。
材料も知らない。
エンジンも作れない。
言える範囲は限られている。
「まず」
「今の機体を少しずつ改良するだけでは、足りないと思います」
一拍。
「抗力を減らす」
「機体を軽くする」
「発動機を強くする」
さらに。
「それを全部、同時に考える」
少し間を置く。
「設計思想そのものを、変える必要がある」
そして。
ほとんど独り言のように。
「低翼単葉」
一拍。
「全金属構造……」
山本五十六の手が止まった。
「少佐」
声が、さっきより少し低い。
「今、何と?」
弦一郎は顔を上げた。
——しまった。
声に出ていた。
「いえ、何でもありません」
一拍。
「ただ、方向としては、そういう機体になるのではないかと」
山本は見る。
全金属単葉。
その概念を知らないわけではない。
外国には、すでにある。
問題は——。
目の前の、専門外だと自称する少佐が。
どうしてそこまで具体的な方向を、さらりと口にしたのか。
そこだった。
「全金属」
「低翼単葉」
山本は、ゆっくり繰り返した。
「具体的に、何か考えておられるのですか」
弦一郎は首を横に振った。
「だから、機体設計は分からないと言ったでしょう」
一拍。
「ただ……」
少し考える。
「堀越二郎という技師を、ご存じですか?」
山本五十六。
小澤治三郎。
二人が同時に弦一郎を見る。
「三菱航空機にいるはずです」
一拍。
「航空機の設計をやっています」
山本五十六は、しばらく黙った。
「知っています」
一拍。
「若い技師です」
弦一郎を見る。
「お知り合いですか?」
「いいえ」
弦一郎は言った。
「直接は知りません」
少し間を置く。
「ただ、名前を聞いたことがある」
山本と小澤が目を合わせた。
もう、宇宙人を見る目ではない。
もっと具体的だった。
——この男。
——何を知っている?
そういう目。
弦一郎はその視線を見て、静かに言った。
「機会があれば——」
一拍。
「一度、話してみてください」
さらに。
「面白いものを持っている人かもしれません」
部屋は、しばらく静かだった。
陽光が窓から差し込む。
三人の影が床へ落ちていた。
※ ※ ※
それから。
山本五十六は、八本指の左手を非常に自然に机へ置いた。
そして穏やかに微笑んだ。
「海野少佐」
一拍。
「ブリッジは、お好きですか?」
弦一郎は立ち上がった。
「少将」
「用事を思い出しましたので——」
一拍。
「先に失礼します」
その日、弦一郎が口にしたどの言葉よりも速かった。
扉へ向かう。
「海野少佐」
止まる。
振り返る。
山本五十六は、まだ穏やかに笑っている。
目だけに何かがある。
「では——」
一拍。
「ポーカーは?」
弦一郎は即答した。
「少将」
「本当に用事があります」
そして出ていった。
小澤治三郎は隣で、石像のような顔のまま。
口元だけが、ほんのわずかに動いた。
そして戻る。
山本五十六は、弦一郎の後ろ姿を見る。
穏やかな表情。
その奥には、やはり何かがある。
八本指が机を一度、軽く叩いた。
トン。
一度だけ。
とても軽い。
だが静かな部屋では、はっきりと聞こえた。
※ ※ ※
弦一郎は長門を出て、内火艇の桟橋へ歩いていた。
十一月の陽光。
横須賀湾。
海風。
遠くには、何隻かの艦艇が停泊している。
頭の中で、さっきの話を振り返る。
堀越二郎。
全金属。
低翼単葉。
知っている答え。
でも、言葉にできない部分。
そんなことを考えていた。
そして。
桟橋が見えた。
板張り。
そこに、陸軍の軍服を着た男が二人。
一人の女性を囲んでいる。
女性は背筋を伸ばし、少しだけ頭を下げていた。
弦一郎の知っている。
訓練された、非常に穏やかなやり方。
距離を保とうとしている。
だが、二人は離れない。
弦一郎は近づく前に分かった。
後ろ姿。
誰だ。
千代。
いつから、その背中を見分けられるようになったのか。
分からない。
でも。
分かった。
疑いはなかった。
そして足が、自然にそちらへ向かった。
決めたわけではない。
海老の殻を剥いたとき。
竹野内豊を作ったとき。
同じだった。
気づけば、そうしている。
足が、その方向へ動く。
※ ※ ※
陸軍の男二人が足音を聞き、振り返った。
海軍少佐。
正装。
飾緒。
怒ってはいない。
走ってもいない。
ただ、非常に静かにこちらへ歩いてくる。
時々。
怒鳴る人間より、静かな人間の方がどう扱えばいいのか分からない。
弦一郎は二人の前で止まった。
見る。
それから一言。
「この人は——」
一拍。
「俺の連れだ」
命令ではない。
脅しでもない。
ただ、事実を告げるような声だった。
静かで。
確かだった。
本人が気づいていない重さがある。
陸軍の二人は、軍服を見る。
飾緒を見る。
弦一郎の顔を見る。
それから離れた。
問題は終わった。
弦一郎は千代へ向く。
「大丈夫でしたか?」
自分がさっき何を言ったのか。
そこまでは考えていなかった。
※ ※ ※
千代は下を向いた。
しばらく黙る。
——この人は、俺の連れだ。
聞いた。
その言葉が、この時代に何を意味するのか。
芸妓として分かっている。
これまでの人生で、それがどれほどの重さを持つ言葉なのかも分かっている。
でも同時に。
弦一郎がそこまで考えて言ったわけではない。
それも分かっている。
ただ、自分が困っているのを見た。
だから問題を解決した。
それだけ。
海老の殻を剥いたとき。
竹野内豊を作ったとき。
これまで彼女のためにしてきたこと。
全部、同じ。
この人は、それが彼女の世界で何を意味するのか知らない。
ただ、やる。
そして次へ進む。
でも——。
——俺の連れだ。
これは、海老の殻より重い。
竹野内豊より重い。
なぜなら。
他人の前で言った言葉だから。
誰にでも意味の分かる言葉だから。
すでに深く落ちていたものが、また沈んだ。
少しではない。
もう、知らないふりはできない。
そんなところまで。
千代は顔を上げ、弦一郎を見る。
目が違っていた。
弦一郎はその顔を見る。
だが、意味までは読めない。
「大丈夫そうなら、よかった」
問題が解決したことを確認する、いつもの口調。
「横須賀に、何か用事があって?」
千代は下を向き、その目をしまった。
「はい」
一拍。
「高橋さんから、お手紙をお預かりしました」
袖から手紙を出す。
そして、もう一つ。
少し迷ったあと、持ってきた小包から何かを取り出した。
弦一郎へ差し出す。
きらきらと光る、西洋式の高脚ガラスの器。
弦一郎は見る。
少し、ぽかんとした。
中には、いくつかのものが重なっている。
小豆。
寒天。
白玉。
その上には、淡い青緑色の球が二つ。
さらに、薄い洋菓子が一枚挿してある。
色は合っている。
重ね方も合っている。
見た目は——。
竹野内豊。
ほとんど同じだった。
弦一郎は手を伸ばし、器を受け取った。
重い。
そして。
柔らかい。
——ん?
アイスクリームではない。
下を見る。
青緑色の球をよく見る。
大福。
抹茶大福。
中には小豆餡。
餅。
球形。
西洋の高脚ガラスに入り、寒天や白玉と一緒に盛られている。
色も。
見た目も。
竹野内豊にかなり似ている。
でも。
大福だった。
弦一郎は器を持ったまま、しばらく黙った。
顔を上げる。
千代を見る。
千代は下を向いている。
何も言わない。
自分が正しいことをしたのか。
変なことをしたのか。
分からない。
そんな姿勢だった。
「アイスクリームの作り方が、分からなかったので……」
声は低い。
「でも」
「見た目は覚えていて……」
少し間を置く。
「色も、だいたい同じかと思って……」
最後の方は、小さく消えていった。
弦一郎は下を見る。
抹茶大福を一つ取る。
口へ入れる。
抹茶の香り。
小豆の甘さ。
餅の柔らかさ。
混ざる。
竹野内豊ではない。
全然違う。
でも。
一個、全部食べた。
そして二個目。
寒天。
白玉。
小豆。
一口。
また一口。
器の中を全部食べる。
何も言わない。
そして最後に。
「おいしい」
千代はそこに立ったまま。
下を向く。
耳が赤い。
※ ※ ※
内火艇の発動機音が桟橋に響いていた。
横須賀湾。
十一月の陽光。
海面は濃い青。
弦一郎は片手に高橋是清の手紙。
もう一方の手には、空になった西洋式の高脚ガラス。
返さず、そのまま持っている。
桟橋に立ち、手紙を開く。
千代は隣に立っていた。
空の器を持った弦一郎を見る。
その目が、また少し沈んだ。
彼は、自分がその空の器を持って立っている姿が、彼女の目にどう映っているのか知らない。
千代には分かる。
彼女の本名は——。
遙といった。
彼は。
「この人は俺の連れだ」
そう言った。
そして。
彼女が自分で作ったものを、全部食べた。
空の器を、まだ手に持っている。
横須賀湾。
十一月の陽光。
その中に立っている。
そのことが、どれほど重いか。
彼は知らない。
彼女は——。
全部、知っていた。
※ ※ ※
——第十四話 了——




