第十五話 銃声
十一月十三日。
内火艇は、まだ来ていなかった。
桟橋の向こうでは、晩秋の陽光が横須賀湾の水面を濃い青に染めていた。
遠くには何隻かの艦艇が停泊し、風が塩と燃料油の匂いをわずかに運んでくる。
弦一郎は桟橋に立ち、高橋是清から預かった手紙を開いた。
千代は隣にいた。
空になった西洋風の高脚ガラスを両手で持ち、少し俯いている。
耳のあたりには、まだほんの少し赤みが残っていた。
弦一郎は便箋を広げ、読み始めた。
※ ※ ※
高橋是清の字には丸みがあった。
いつもの本人そのままのような字だった。
だが今回は、あの呵々とした笑い声が聞こえてこなかった。
『大川周明と橋本欣五郎の動きが、ますます目に余るようになってきた。
陸軍の中にも妙な空気がある。永田鉄山の周辺、荒木貞夫の周辺、それぞれに人が集まり始めている。
私や幣原の動きも、どうやら見られているらしい。
しばらく目立つな。』
弦一郎は、その部分をもう一度読んだ。
大川周明。
橋本欣五郎。
その先に何があるか、知っている。
三月事件。
十月事件。
満洲事変。
永田鉄山と荒木貞夫。
今はまだ、後世の教科書に出てくるような「統制派」「皇道派」という形に固まってはいない。
だが、種はもうある。
人が集まり始めている。
思想が線になり始めている。
そして。
その線がいずれ何になるのか。
弦一郎だけは知っていた。
一九三五年。
相沢三郎。
軍務局長室。
永田鉄山。
軍刀。
そこまで知っているからこそ、今の「まだ形になっていない」という状態が、かえって不気味だった。
弦一郎は続きを読む。
『そうそう。
千代の身請けの話は、もうこちらで済ませておいた。
東郷元帥にあそこまで言われて、放っておけるか。
本人にはまだ話していない。
ちゃんと面倒を見てやれ。
どうせ新喜楽の厨房にまで入り込んで、娘一人のために大騒ぎしたんだろう。』
弦一郎の目が止まった。
もう一度読む。
——千代の身請けの話は、もうこちらで済ませておいた。
しばらく、言葉が頭に入ってこなかった。
それからゆっくりと、意味だけが着地した。
弦一郎は顔を上げた。
千代を見る。
千代は何も知らない。
空の高脚ガラスを持ったまま、少し俯いている。
弦一郎は、その姿を見た。
感動。
でもない。
ロマンチックな何か。
でもない。
もっと困るものだった。
誰かに後ろから押されて。
振り返ったら、自分が思っていたよりずっと遠い場所まで歩いてきていた。
そんな感覚。
——俺は、この人をどうしたいんだ。
初めて。
そこまで考えた。
いや。
違う。
「千代をどうしたい」ではない。
もっと前。
もっと根本。
——千代にとって、俺は何なんだ。
考えたことがなかった。
東郷平八郎の言葉が浮かぶ。
——あの芸妓が好きなら。
高橋是清。
——娘一人のために大騒ぎしたんだろう。
あの老人たちは、みんな同じ結論に達している。
本人だけが。
まだ、そこへ行っていない。
好きなのか。
分からない。
好きではないのか。
それも違う気がする。
言葉にすればするほど、分からなくなった。
弦一郎はしばらく千代を見た。
それから、その問題をいったん横へ置いた。
今考えなければならないことは、もっと具体的だった。
手紙を折る。
ポケットに入れる。
それから言った。
「千代さん」
千代が顔を上げた。
「もしよかったら」
弦一郎は少し考えた。
「横須賀に移ってきませんか?」
千代の目が止まった。
弦一郎は続ける。
「住むところはこちらで探します。家賃も俺が出しますから」
※ ※ ※
千代は何も言わなかった。
弦一郎は、それを「条件を考えている」と受け取った。
だから説明を続けた。
「高橋さんの手紙に、陸軍側から動きを見られている可能性があると書いてありました」
声は真剣だった。
完全に、実務の話をする人間の声。
「千代さんは高橋さんとも俺とも接触している。誰かが調べ始めれば、新喜楽にいる方が、かえって目につくかもしれません」
千代はまだ黙っている。
「横須賀なら、少なくとも東京よりは海軍側の目が届きます。何かあっても対処しやすい」
少し間を置く。
「だから」
弦一郎は、本当に何の含みもなく言った。
「こっちに住んでもらった方が、俺も安心です」
千代の頭の中が、真っ白になった。
——横須賀に移ってきませんか。
——家賃も俺が出します。
——俺も安心です。
一九三〇年の女が。
特に、新橋で生きてきた女が。
その三つをどう聞くか。
この男は、まったく分かっていない。
千代はしばらく弦一郎を見た。
それから、ようやく声を出した。
「少佐」
「はい?」
「本当に……」
一度、言葉を選ぶ。
「東京にいると危ないから、とお考えなのですか?」
弦一郎は少し、ぽかんとした。
「そうですよ」
即答だった。
千代の中の何かが、少しだけ落ちた。
やっぱり。
そうなのだ。
でも。
同時に、別のものも残った。
——それでも、この人は私を安全なところに置こうとしている。
千代は俯いた。
「……考えておきます」
「分かりました」
弦一郎はうなずいた。
「何か危ないことがあったら、すぐ言ってください」
そこで、もう完全に高橋の手紙の方へ頭が戻っていった。
千代は横から、その顔を見る。
本人は、自分が今何を言ったのか。
やっぱり分かっていない。
しばらく見て。
千代は俯いた。
口元が、ほんの少しだけ上がった。
※ ※ ※
その日は、もう遅かった。
弦一郎は一人で東京へ帰すのを嫌がり、千代は横須賀に一泊することになった。
翌朝。
十一月十四日。
まだ朝の空気が冷たい時間に、二人は東京へ向かった。
弦一郎は、昨日からずっと空になった高脚ガラスを持ったままだった。
千代は何度か、
「お返しいただいても……」
と言いかけた。
でも、やめた。
弦一郎は窓の外を見ていた。
神奈川の田畑。
集落。
工場。
東京へ近づくにつれて増えていく家々。
頭の中にあるのは、高橋の手紙だった。
大川。
橋本。
永田。
荒木。
三月事件。
十月事件。
満洲事変。
どうすれば止められる。
根は、十分に張れたか。
中国市場。
三井。
三菱。
住友。
まだ何も始まっていないように見える。
でも。
時間だけは進んでいる。
千代は時々、隣を見る。
弦一郎は、空になった高脚ガラスを手に持ったまま外を見ていた。
何を考えているのか。
分からない。
車輪の音だけが、一定の間隔で続いていた。
※ ※ ※
東京駅。
午前八時五十分を少し過ぎた頃。
二人は列車を降りた。
朝の東京駅は、すでに人が多かった。
通勤客。
駅員。
荷物を運ぶ人間。
軍服。
背広。
和服。
声。
足音。
蒸気。
弦一郎は千代を連れ、ホームから中央通路へ向かおうとした。
そのとき。
ふと、駅の時計を見た。
八時五十七分。
その数字を見た瞬間。
何かが、頭の奥で引っかかった。
——八時五十七分。
——十一月十四日。
弦一郎の足が、ほんのわずかに止まった。
次の瞬間。
銃声。
一発。
乾いた音が、東京駅の空間を切った。
弦一郎の体は、頭より先に動いた。
千代の腕を引く。
柱の陰へ。
自分の身体を、音のした方向との間に入れる。
しゃがむ。
千代を後ろへ押し込む。
「少佐——」
「伏せて」
短い声。
それから。
悲鳴。
怒声。
走る足音。
人の流れが、一瞬で崩れた。
誰かが叫ぶ。
「撃ったぞ!」
また別の声。
「首相だ!」
そして。
もっと遠くから。
「浜口首相が撃たれた!」
弦一郎は柱の陰にしゃがんだまま、動かなかった。
片腕で千代を守る。
目は、人の流れの向こうを見ている。
もう分かっていた。
銃声を聞いた瞬間から。
分かっていた。
昭和五年。
十一月十四日。
午前八時五十七分。
東京駅。
浜口雄幸。
午前九時発。
特急「燕」。
岡山。
陸軍特別大演習。
佐郷屋留雄。
毛瑟式拳銃。
下腹部。
——ここだ。
——この日だ。
知っていた。
ずっと知っていた。
でも。
自分がその銃声を直接聞くとは、思っていなかった。
※ ※ ※
千代は、弦一郎のすぐ後ろにいた。
肩が、彼の腕に触れている。
手首には、弦一郎の手。
強くはない。
でも、離さない。
銃声が鳴った。
その瞬間。
この人は、何も考えなかった。
考える時間など、なかった。
身体が自分を後ろへ押した。
自分と銃声の間へ入った。
厨房で竹野内豊を作ったとき。
桟橋で——。
「俺の連れだ」
そう言ったとき。
いつも同じ。
後から理由を作る。
その前に、身体がもう動いている。
千代は俯いた。
手首の上。
彼の手の温度を感じる。
胸の中で、あの名前をつけられないものがまた動いた。
新橋で何人もの男を見てきた。
金を払う男。
優しい男。
乱暴な男。
惚れたふりをする男。
本当に惚れる男。
でも。
この男は、どれにも似ていなかった。
自分が何をしているか分かっていない。
やったあとで、次へ行く。
でも。
気づけば毎回、自分の側へ立っている。
千代は、そっと横を見る。
弦一郎の表情を見る。
そこで初めて気づいた。
驚いていない。
少なくとも、普通の人間の驚き方ではない。
怖がってもいない。
その目には、別のものがあった。
——知っていた。
そんな目。
何かが起きることを、最初から知っていた人間。
そして今。
確認した。
そんな重い目。
なぜ、そんな顔をするのか。
千代には分からない。
ただ。
その重さだけは分かった。
※ ※ ※
弦一郎はホームの混乱を見ていた。
頭の中では、二〇二六年から持ってきた年表が一気に開いていた。
浜口雄幸。
今日は死なない。
だが、重傷。
その後。
政局。
幣原。
統帥権。
そして翌年。
満洲。
その先へ、ずっと続く。
三月事件。
十月事件。
満洲事変。
でも。
違う。
この銃声から始まるわけではない。
もう、始まっている。
今日の銃声は、始まりではない。
証拠だ。
弦一郎がこれまで、高橋、幣原、山本英輔、東郷。
彼らと話してきた。
あの見えない流れ。
それがとうとう拳銃の音になって、東京駅で鳴った。
——時間がない。
高橋是清。
『目立つな』
幣原。
『間に合えば』
山本英輔。
『やるべきことをやれ』
東郷平八郎。
煙管を置いた。
——やれよ。
全部、頭を通る。
根は十分に張ったか。
経済団体。
中国市場。
三井。
三菱。
住友。
金。
利益。
商人。
それだけで止められるか。
分からない。
分からない。
でも。
もう一つ、分かった。
この時代は待ってくれない。
誰かが準備できるまで、止まってくれない。
弦一郎は、そこで千代を見る。
彼女は自分の後ろにしゃがんでいる。
まだ生きている。
ここにいる。
この時代がこれからどうなるのか、まだ知らない。
弦一郎は思った。
自分は、経団連のためにやっているのではない。
中国市場のためでもない。
海軍のためでもない。
帝国を勝たせるためでもない。
この人たちだ。
まだ生きている。
まだ笑う。
まだ飯を食う。
まだ誰かを好きになる。
まだ、自分が死ぬ日を知らない。
人たち。
その人たちを、あの終点まで連れていかせない。
弦一郎の手が、千代の手首をほんの少しだけ強く握った。
千代は、その力を感じた。
何も言わなかった。
弦一郎も言わない。
二人とも前を見る。
駅の混乱は続いていた。
遠くで誰かが叫ぶ。
誰かが泣く。
駅員が走る。
警官が人を押し分ける。
もう銃声は鳴っていない。
たった一発だった。
でも。
その余韻だけが、東京駅の空気に。
弦一郎の頭に。
昭和五年十一月十四日の朝に。
ずっと残っていた。
※ ※ ※
千代は、弦一郎の後ろに寄り添ったまま目を閉じた。
彼が何を考えているのか。
知らない。
この男の頭の中に、二〇二六年から持ってきた九十六年分の時間があることも知らない。
この銃声のあと、何が来るのか。
彼だけが知っていることも。
知らない。
千代に分かっていることは、一つ。
本名。
遙。
そして。
自分はもう落ちている。
知らないふりはできない。
それだけ。
そして、もう一つ。
この人は今、自分と銃声の間にいる。
それだけで十分だった。
あの名前のないものが、胸の中に静かにあった。
重く。
温かく。
千代は目を閉じた。
駅の混乱は、まだ続いていた。
時間は今日、始まったのではない。
もう走っていた。
ただ。
今日。
その足音が初めて——。
銃声になった。
※ ※ ※
——第十五話 了——




