第十六話 逗子の鍵
浜口首相が撃たれたという知らせは、東京駅の混乱の中で、やがて低く重いうなりのようなものへ変わっていった。
弦一郎は千代をかばったまま、周囲の騒ぎが少し収まるのを待った。
駅員が走り、警官が人を押し分け、遠くではまだ誰かが叫んでいる。
ようやく立ち上がると、弦一郎は周囲を確認してから千代を見た。
「大丈夫でしたか?」
千代はうなずいた。
その目には、さっきまでの言葉にできないものがまだ残っていた。
弦一郎はそれに気づいたのか、気づかなかったのか。
「行きましょう。まず、ここを離れます」
問いかけではなかった。
本人も気づかないまま、もうそうすると決めている人間の口調だった。
千代は何も言わず、ついていった。
※ ※ ※
東京駅を離れ、街へ出る。
駅の混乱は、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
だが弦一郎の頭の中では、銃声がまだ消えていなかった。
浜口雄幸。
十一月十四日。
東京駅。
三月事件。
十月事件。
満洲事変。
今日の銃声から始まるのではない。
もう始まっている。
今日はただ、それが本当に動いていることを、自分の耳で確認しただけだ。
——時間がない。
幣原の「間に合えば」が浮かぶ。
高橋の「目立つな」が浮かぶ。
東郷の「やれよ」が浮かぶ。
それから。
弦一郎は足を止めた。
千代も隣で立ち止まる。
弦一郎は彼女を見た。
「千代さん」
「はい」
少しだけ間を置いた。
迷ったというより、言い方を探しただけだった。
「今日、引っ越しましょう」
千代は彼を見る。
「……今日、ですか?」
「はい。荷物をまとめるのも手伝います」
相談ではなかった。
——今日、引っ越す。
もう、そう決めている。
千代はしばらく黙っていた。
どこへ行くのか。
どうするつもりなのか。
何も聞かなかった。
それから小さく。
「……はい」
と言った。
自分でも、なぜそれほど簡単に答えたのか、よく分からなかった。
ただ。
この人についていけばいい。
その瞬間は、それで十分だった。
弦一郎はうなずき、新喜楽の方角へ歩き出した。
千代も隣を歩く。
耳のあたりが、またほんの少し赤くなっていた。
※ ※ ※
千代のために新喜楽側で用意されていた部屋は、小さかった。
弦一郎は入口に立って中を見た。
畳。
小さな化粧台。
壁際には木の棚。
そこに、いくつかの日用品が整然と置かれている。
私物は、それほど多くなかった。
千代は部屋へ入ると、すぐに荷物をまとめ始めた。
動きは速い。
手際もいい。
まるで、いつかこうする日が来ることを、ずっと前から知っていたようだった。
最後にできた荷物は、二つ。
それだけだった。
ここで何年も過ごしてきた。
それでも、まとめれば二つになる。
一つには寝巻きや肌着。
もう一つには、その他の身の回りの物。
千代は二つをしっかり縛り、持ち上げようとした。
「少佐、こちらは——」
言い終える前に。
弦一郎が二つとも持ち上げた。
そのまま肩へかける。
「行きましょう」
千代は少し、ぽかんとした。
「少佐、その荷物は……」
「大丈夫です。持てます」
完全に。
荷物が二つある。
自分なら二つとも持てる。
だから持つ。
そういう顔だった。
弦一郎は、そのまま入口へ向かう。
千代は背中を見た。
言いたかった。
——少佐。
——そちらの包みには、私の肌着が入っております。
でも。
もう廊下へ出ていた。
追いかけて止めようとしたときには、すでに階段へ向かっている。
千代は自分の空になった両手を見た。
そして急いで後を追った。
耳の根どころか、耳の先まで赤くなった。
※ ※ ※
小夜は廊下に立っていた。
弦一郎が二つの荷物を肩にかけて歩いていく。
その後ろを、千代がついていく。
小夜は何も言わなかった。
ただ二人の後ろ姿を見る。
それから千代の顔を見た。
口元が、これまでより少し深く持ち上がった。
何も言わず、向きを変える。
久兵衛は反対側から、その光景を見ていた。
どういう顔をすればいいのか分からない。
そんな顔だった。
しばらくして。
何も見なかったことにするように、視線を別の方へ向けた。
※ ※ ※
新喜楽を出る。
弦一郎は二つの荷物を肩にかけたまま、駅へ向かった。
千代は隣についていく。
時々、そっと横を見る。
弦一郎は何も気にせず歩いている。
自分が何を背負っているのか。
まったく知らない。
千代は何度か口を開きかけた。
でも。
途中で、もういいと思った。
もう肩へかけてしまった。
本人は何も知らない。
しかも前を歩いているから、こちらの顔も見えない。
——このまま持っていただこう。
そう思ったら。
なぜか、少しだけ可笑しくなった。
千代は俯いたまま、そっと笑った。
※ ※ ※
東京駅から横須賀方面へ向かう列車に乗った。
弦一郎は二つの荷物を網棚へ載せ、窓際に座った。
千代はその隣。
車輪が規則的な音を立てる。
窓の外の景色が、東京から少しずつ神奈川へ変わっていく。
弦一郎は外を見ていた。
だが、見ていたのは景色ではない。
浜口首相。
あの一発。
大川周明。
橋本欣五郎。
軍の中で形になり始めている流れ。
どうすれば止められる。
根はもう十分に張っているのか。
それとも。
まだ何も間に合っていないのか。
しばらくして。
横を見る。
千代が俯いている。
昨日の桟橋を思い出した。
空になった高脚ガラス。
「アイスクリームの作り方が分からなかったので」
そう言って。
自分の記憶だけを頼りに、似たものを作って持ってきた。
弦一郎は何も言わず、また窓の外へ目を戻した。
列車は横須賀へ走り続けた。
※ ※ ※
横須賀駅。
二人は改札を出た。
弦一郎は荷物を二つとも下ろし、また肩へかけた。
そのとき。
出口近くに立っている海軍の伝令が目に入った。
制服をきちんと整え、弦一郎を見つけると、すぐに歩み寄ってくる。
「海野少佐」
「はい」
「長官より、こちらをお渡しするよう申しつかっております」
封筒。
弦一郎は受け取った。
伝令はさらに言った。
「奥様のお世話が済みましたら、長門へお戻りください。大事なお話があるとのことです」
弦一郎は一瞬、止まった。
「奥——」
伝令は、もう敬礼していた。
そして弦一郎が言い終える前に向きを変え、人混みの中へ消えていった。
弦一郎は、その背中を見た。
「奥……」
少し間。
「奥様?」
振り返る。
千代。
「……奥様!?」
千代は少し驚いた。
何を言われたのかまでは、よく聞こえていなかったらしい。
「少佐、どうなさいました?」
弦一郎は答えず、封筒を見る。
開ける。
中には鍵。
それから、紙が一枚。
住所。
逗子。
弦一郎はその文字を見た。
そして。
東郷平八郎を思い出した。
——あの芸妓が好きなら、英輔に言え。話をつけさせる。
山本英輔。
あの口髭。
あの鷹の目。
そこで、ようやく分かった。
自分が思っていた「話をつける」と。
薩摩の老人たちが思っていた「話をつける」は。
まったく別物だった。
弦一郎はただ。
——安全なところへ移した方がいい。
そう考えただけだった。
老人たちは違った。
身請け。
済み。
家。
用意済み。
鍵。
到着済み。
伝令。
——奥様。
弦一郎は横須賀駅の出口で、二つの荷物を肩にかけたまま、しばらく鍵を見た。
——待て。
——俺、そんなところまで一言も言ってないぞ。
千代が隣から覗く。
「少佐、その封筒は……?」
「鍵です」
弦一郎は答えた。
落ち着こうとしている。
だが。
全然、落ち着いていない。
「それと、住所が」
「住所?」
「はい」
深く息を吸う。
鍵をポケットへ入れた。
「行きましょう」
「場所は分かりました」
千代はその様子を見た。
何かがおかしい。
でも。
聞かなかった。
ただ、ついていった。
※ ※ ※
逗子。
二人は、紙に書かれた住所を探した。
海に近い。
小さな庭。
日本家屋。
横須賀の市街より、ずっと静かだった。
海風の匂いも、少し違う。
やがて。
一軒の家の前で止まった。
弦一郎は紙を見る。
門を見る。
もう一度、紙を見る。
——ここか。
鍵を使う。
開いた。
中は、すでに整えられていた。
掃除も済んでいる。
最低限の家具。
生活できるだけのもの。
窓は海へ向いていた。
弦一郎は玄関に立って、家の中を見る。
しばらく何も言わなかった。
アパートではない。
一軒家だった。
隣で。
千代も何も言わない。
それから、小さく。
「少佐……これは?」
「長官が用意してくださったようです」
弦一郎は言った。
まだ少し顔が固い。
「山本長官が」
千代が、その名前を繰り返す。
「山本長官が……」
少し間を置いて。
「私のために?」
「……そういうことになりますね」
千代は黙った。
それ以上は聞かなかった。
ただ。
耳の根が、また赤くなった。
窓を見る。
その向こうの海を見る。
胸の奥で、あの名前のないものが。
また少し。
沈んでいった。
※ ※ ※
弦一郎は荷物を二つ置いた。
「とりあえず、片づけますか」
しゃがむ。
一つの包みの紐をほどく。
千代が「あ」と言うより早かった。
弦一郎の手が、中の何かに触れた。
柔らかい。
薄い。
明らかに男物ではない。
一瞬。
見る。
千代の肌着。
弦一郎の手が止まった。
〇・五秒。
すぐに戻す。
紐も戻す。
立つ。
窓を見る。
海を見る。
とにかく——。
海を見る。
耳が赤い。
今度は弦一郎の。
千代は、その一連の動きを見ていた。
何も言わない。
笑いたい。
でも。
笑ったら駄目。
必死に押さえる。
それから。
新橋で身につけた、完璧に落ち着いた声。
「少佐」
「……はい」
「お茶はいかがですか?」
弦一郎は海を見たまま。
「お願いします」
二人とも、荷物について何も言わなかった。
包みは部屋の隅へ、そっと置かれた。
※ ※ ※
千代がお茶の支度をしている間。
弦一郎は海に面した部屋へ座った。
窓から光が入る。
逗子の海。
静かで。
青い。
頭の中に、またいろいろなものが戻ってくる。
浜口。
銃声。
高橋。
大川。
橋本。
時間。
根。
それから。
ポケットの鍵。
伝令。
——奥様。
弦一郎は、とても小さく息を吐いた。
千代がお茶を持ってきた。
向かいへ座る。
二人は黙って茶を飲んだ。
でも。
嫌な沈黙ではなかった。
二人とも、それぞれ重いものを抱えている。
でも。
同じ部屋に、もう一人いる。
それだけで少し軽い。
そんな沈黙だった。
窓の外の海は、横須賀で見る海よりずっと静かな青だった。
※ ※ ※
お茶を飲み終える。
弦一郎は立った。
「では、戻ります」
「はい」
「長門で用がありますので」
少し考えて。
「明後日、また様子を見に来ます」
千代も立つ。
「はい。少佐、お気をつけて」
弦一郎は玄関へ向かった。
そこで止まる。
振り返る。
「そうだ」
「はい?」
「必要なものがあったら、遠慮なく言ってください」
普通。
本当に普通の口調だった。
千代はうなずく。
「はい」
弦一郎は出ていった。
廊下。
玄関。
庭。
砂利。
門。
少しずつ、足音が遠ざかっていく。
※ ※ ※
千代は一人になった。
しばらく動かなかった。
弦一郎の足音が完全に聞こえなくなるまで、立っていた。
それから。
部屋を見る。
二つの荷物を見る。
窓を見る。
逗子の海。
静かな、今まで見たことのない青。
自由の身になっていた。
昨日までは、まだ新橋の芸妓だった。
今日。
違う。
高橋が身請けの金を払った。
東郷元帥が余計なことを言った。
山本長官が家まで用意した。
いつの間にか、老人たち何人もが話を進めていた。
そして。
その何も知らない少佐が、彼女の肌着の入った荷物を東京から横須賀へ。
さらに逗子まで。
ずっと自分の肩で背負ってきた。
本人は、何が入っているか知らなかった。
最後に知った。
あのときの顔を思い出す。
千代は、とうとう少し笑った。
本当に小さく。
誰にも聞こえないように。
一人で。
海の見える部屋で笑った。
彼女の本名は——。
遙といった。
窓は海へ向いていた。
窓の外には、静かな青が続いていた。
※ ※ ※
——第十六話 了——




