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第十七話 やるべきことをやれ

長門、山本英輔の執務室。


午後の陽光が窓から差し込み、室内のすべてを、弦一郎の知っているあの重みのある金色に染めていた。


机の上には書類。


地図。


毛筆。


海図。


山本英輔は机の後ろに座り、頭を下げたまま書類をめくっていた。


弦一郎が入り、礼をする。


「報告します」


山本英輔は一ページめくった。


まだ顔を上げない。


「奥さんの世話は終わったか?」


弦一郎の頭が、「奥さん」という言葉が着地した瞬間に止まった。


聞こえなかったわけではない。


聞こえすぎたからだった。


口が少し動く。


「長官、それは……」


「逗子の家は住めるか?」


山本英輔は、また一ページめくった。


公務の口調。


まったく止まらない。


「住めます。ただ、長官——」


「採光はいいか?」


「採光はとてもいいのですが——」


「それならよかった」


山本英輔が、ようやく顔を上げた。


あの鷹の目が弦一郎を見る。


その表情は、笑っているわけでも、厳しいわけでもない。


完全に合理的なことをしたと思っている人間が、もう一方の人間も同じように合理的だと気づくのを待っている。


そんな顔だった。


「東郷閣下がおっしゃった。大事を成し遂げたら、ちゃんとしてやれと」


「長官、その『ちゃんとする』というのは——」


「ちゃんとするとは、どういう意味だと思う?」


山本英輔は下を向き、また書類をめくり始めた。


弦一郎は黙った。


何か言おうとした。


やめた。


「これで落ち着いて仕事ができるだろう」


山本英輔は、また一ページめくった。


「今日の東京駅のことは知っているな。どう思う?」


弦一郎はそこに立ったまま、「奥さん」という言葉をもう一度、頭の中へ通した。


それから。


押し込んだ。


深く息を吸う。


「東京駅のことは、長官、まず一つお話しすることがあります」


山本英輔は顔を上げなかった。


「言え」


※  ※  ※


「長官、愛国社という団体をご存じですか?」


山本英輔の書類をめくる手が、一度だけ止まった。


ほんの一度。


それから、また動く。


「続けろ」


「今日、浜口首相を撃った佐郷屋留雄は、愛国社の人間です」


執務室が、しばらく静かになった。


山本英輔は、ある書類のページで止まり、そのままめくらなくなった。


その止まり方だけで、考えていることが分かった。


しかも。


弦一郎に見せている以上のことを考えている。


「今日の銃声を」


弦一郎は続けた。


「ただ一人の青年が起こした、一度きりの事件だと考えるべきではありません」


山本英輔は黙っている。


「ロンドン条約」


「統帥権」


「政党政治への反発」


「国家改造」


一つずつ、言葉を置く。


「そういうものが、もう文章や演説の中だけにあるわけではない」


少し間を置く。


「実際に拳銃を持って、人を撃つ人間が出た」


山本英輔は、まだ何も言わない。


「そして」


弦一郎は言った。


「私は、それとは別に動いている大川周明と橋本欣五郎の線も、同じ方向へ近づいていると思っています」


そこで。


山本英輔が初めて顔を上げた。


「同じ組織だと言っているのか?」


「いいえ」


弦一郎はすぐに答えた。


「そこまでは言えません」


少し間を置く。


「ただ」


「別々の人間が」


「別々の場所で」


「同じ結論へ向かい始めている」


さらに。


「それが一番危険です」


山本英輔は弦一郎を見ている。


「大川周明には、満鉄を通じた人脈がある」


「橋本欣五郎は、陸軍の中で中堅将校を集め始めている」


「愛国社の人間は、今日、首相を撃った」


弦一郎は一度、息を吸った。


「思想は表面です」


「人」


「金」


「組織」


「そして——」


一拍。


「実際に行動する人間」


「そこまで揃えば、ただの思想運動ではありません」


山本英輔の指先が止まった。


「政治を」


弦一郎は静かに言った。


「力で動かせるようになります」


執務室が、しばらく静かになった。


山本英輔はその書類を閉じ、机に置いた。


両手を重ねる。


弦一郎を見る。


「次は?」


弦一郎は、その短い問いを聞いた。


「次は」


少し間を置く。


「一人が拳銃一丁を持って出てくるだけではありません」


さらに。


「もっと大きく」


「もっと組織的になります」


山本英輔の目は動かない。


弦一郎は続けた。


「長官」


一拍。


「田中義一内閣が倒れたときのことを、ご記憶ですか?」


山本英輔は弦一郎を見る。


「覚えている」


その目は、ただ覚えているというより。


弦一郎が次に何を言おうとしているのか、もう少し分かっている。


そんな目だった。


弦一郎は深く息を吸った。


「もし」


ゆっくり言う。


「彼らが、次はもっと大きな既成事実を作ろうとしているとしたら?」


執務室が静かになった。


その沈黙は、弦一郎がこの言葉を口にする前のどの沈黙よりも重かった。


横須賀湾の陽光が窓から差し込み、その沈黙を金色に染めていた。


厚く。


実体があるように。


息が詰まりそうだった。


山本英輔は、すぐには口を開かなかった。


弦一郎を見る。


その鷹の目の中にあるのは、驚きではない。


ずっと何かを感じていた。


だが、まだ言葉にはしていなかった。


それを突然、目の前の少佐が形にした。


そんな重い確認だった。


長い間、黙っていた。


それから言った。


「お前の言う次の既成事実」


一拍。


「目標は何だ?」


※  ※  ※


「一人の人間ではありません」


弦一郎は言った。


「政治そのものです」


「はっきり言え」


弦一郎は深く息を吸った。


「長官」


「張作霖爆殺事件では、現地の軍人が政府の意思を越えて動いた」


一拍。


「その後、責任をどう取るかで政府と陸軍の間に亀裂ができた」


さらに。


「田中内閣は倒れた」


山本英輔は黙って聞いている。


「もし」


弦一郎は言った。


「それを見た人間の中に、別の教訓を得た者がいたら?」


山本の目が細くなる。


「政府が先に決める必要はない」


「軍が先に動けばいい」


「そして」


「政府の力では元に戻せないほどの——」


一拍。


「既成事実を作る」


執務室は静かだった。


「そうなれば」


弦一郎は続けた。


「政府に残る選択肢は少なくなる」


「軍を止めるために、軍と正面から衝突するか」


「それとも」


「起きてしまったことを追認するか」


さらに。


「軍が政府を倒す必要すらありません」


山本英輔を見る。


「先に現実を作ればいい」


「政治は、あとからその現実を追いかけることになる」


少し間を置く。


「もし、それを意図的にやろうとしている人間がいるなら——」


一拍。


「それはもう、偶発的な独走ではありません」


「計画です」


執務室の沈黙は、今度はさらに長かった。


さらに重かった。


山本英輔はそのまま座っている。


両手を机の上に置き、弦一郎を見る。


まったく動かない。


その鷹の目に、弦一郎は何かを感じた。


山本英輔も、似た方向をどこかで疑っていた。


確認できなかった。


言葉にできなかった。


今。


誰かが、言葉にした。


それから。


山本英輔が言った。


「その既成事実」


一拍。


「どこで作る」


「満洲です、長官」


即答だった。


「いつだ?」


弦一郎は黙った。


知っている。


一九三一年。


九月十八日。


柳条湖。


関東軍。


線路。


爆発。


それから。


満洲事変。


全部、知っている。


だが。


どこから知っているかは言えない。


山本英輔は、その沈黙を見ていた。


そして。


鷹の目が、何かを読んだ。


「また仙人に教えてもらったのか」


問いではなかった。


弦一郎は少し黙った。


「そうです」


山本英輔は彼を長い間見ていた。


それから両手を机から離し、椅子を少し後ろへ引いて背もたれに寄りかかる。


天井を見る。


もっと長く黙った。


その沈黙は、この執務室でここ数か月、弦一郎が聞いたどの沈黙よりも重かった。


それから。


山本英輔は顔を戻した。


弦一郎を見る。


「海野」


姓を使った。


「お前が俺に、今の話をすることがどういう意味か——」


一拍。


「分かっているな」


「分かっています」


「お前の話が本当なら」


山本英輔は言った。


「知らなかったことにはできん」


少し間を置く。


「だが」


「知った以上、何かしなければならん」


そして。


もう少し間を置く。


「それは」


山本英輔は低く言った。


「この帝国で、俺を非常に面倒な場所へ連れていくかもしれん」


弦一郎は何も言わなかった。


その言葉だけが執務室に残った。


重く。


沈む。


一九三〇年。


連合艦隊司令長官。


海軍中将。


その人間が、まだ起きてもいない陸軍の行動を政治的な危険として止めようとする。


証拠は、ほとんどない。


あるのは。


一人の少佐。


それから。


仙人。


弦一郎は山本英輔を見る。


背筋。


口髭。


日露戦争から昭和五年まで歩いてきた人。


二〇二六年。


教科書。


資料。


海軍から海自へ受け継がれたもの。


いろいろなことを思い出した。


今。


その人が目の前にいる。


まだ生きている。


まだ選べる。


弦一郎は、その考えを胸の中へ押し込んだ。


山本英輔が言った。


「お前の言う既成事実まで」


一拍。


「俺たちには、どれだけ時間がある?」


「多くありません」


弦一郎は答えた。


さらに。


少しだけ迷う。


「一年も——」


一拍。


「ありません」


山本英輔は何も言わなかった。


ただ。


一度、うなずいた。


※  ※  ※


しばらくして。


山本英輔は椅子を前へ戻した。


両手を、また机の上で重ねる。


声が公務へ戻った。


「分かった」


一拍。


「高橋さんの方には、財界の件を引き続き進めてもらう」


さらに。


「幣原の方には、外交の枠組みを作ってもらう」


少し間を置く。


「だが、それだけでは足りん」


弦一郎は山本を見る。


「長官のお考えは?」


「お前を連れて」


山本英輔は言った。


「もう一度、東郷閣下のところへ行く」


弦一郎は少し、ぽかんとした。


「東郷元帥のところへ?」


「そうだ」


一拍。


「この話は、閣下から宮中へ上げてもらう必要がある」


弦一郎の目が動く。


山本英輔は続けた。


「内大臣」


一拍。


「牧野伸顕」


弦一郎は何も言わない。


「俺一人の海軍中将が言っても、海軍が陸軍に口を出していると取られる」


「高橋是清が言えば、政治的な動きに見える」


「幣原が言えば、外交官が危機を大げさに言っていると、そう言う者も出るだろう」


山本英輔は弦一郎を見る。


「だが」


一拍。


「東郷閣下が言えば」


「少なくとも、聞かなかったことにはできん」


弦一郎は、ゆっくりうなずいた。


その手配が、頭の中で一つずつ歯車のように噛み合っていく。


高橋是清。


財界。


利益を先に育てる。


戦争を始めれば失うものを、先に作る。


幣原喜重郎。


外交。


商業協力。


政治的な枠。


国と国との関係へ、それを固定する。


山本英輔。


海軍。


帝国海軍が同じ熱の中へ全部呑まれないようにする。


東郷平八郎。


その声を、内大臣・牧野伸顕へ。


さらに。


宮中へ。


届ける。


最高の場所へ。


——あの方向は危険だ。


その声を届ける。


弦一郎は、東郷平八郎の後ろ姿を思い出した。


八十二歳。


煙管。


畳。


金色の陽光。


——じゃあ、ここで何しとる。


——やれよ。


あの老人は、一九三四年に逝く。


高橋是清を思い出した。


丸い。


達磨。


老狸。


呵々という笑い。


一九三六年二月。


あの人も死ぬ。


弦一郎は、目の前の山本英輔を見た。


この人も永遠にここにいるわけではない。


時間は、誰にでも限りがある。


でも。


今。


全員、まだここにいる。


今なら。


まだ何かできる。


その考えが、弦一郎の胸に言葉にできないものを作った。


絶望ではない。


悲しみでもない。


時間がないと知っている。


それでもやる。


重く。


冷静な焦り。


弦一郎は、それを押し込んだ。


顔を上げる。


「長官」


「いつ行けますか?」


山本英輔は下を向き、また書類を取り上げた。


一ページめくる。


「俺が手配する」


もう一枚。


「知らせを待て」


「はい」


そして。


まったく関係のない話をするような口調で。


「そうだ」


弦一郎を見ることもなく。


「逗子の家の修繕費は、来月の給与から差し引く」


弦一郎。


「長官——」


「公私の区別はつける」


山本英輔は書類をめくる。


「行け」


さらに。


「奥さんを、逗子に一人で長く置くな」


——奥さん。


その言葉が、また執務室を一周した。


弦一郎はそこに立っていた。


一度、頭の中を通す。


また何か言おうとする。


諦める。


深く息を吸う。


敬礼。


入口へ向かう。


そこで止まった。


振り返る。


山本英輔は頭を下げ、書類をめくっている。


口髭は動かない。


少し前。


この人は言った。


——知った以上、何かしなければならん。


——それは俺を、非常に面倒な場所へ連れていくかもしれん。


それでも今。


何でもないような顔で。


——俺が手配する。


そう言った。


弦一郎は、その姿をしばらく見た。


「長官」


山本英輔は顔を上げない。


「ありがとうございます」


一枚、紙がめくられた。


それから。


山本英輔が言った。


「やるべきことをやれ」


それだけだった。


弦一郎はもう一度敬礼し、向きを変えた。


執務室を出る。


扉が閉じる。


※  ※  ※


廊下。


横須賀湾の陽光が、遠い窓から差し込んでいた。


弦一郎の影を床へ押しつける。


細長く。


前へ。


前へ。


伸びている。


弦一郎は歩き出した。


高橋是清。


幣原喜重郎。


山本英輔。


東郷平八郎。


歯車は一つずつ。


まだ、回っている。


時間は多くなかった。


だから。


止まらない。


やるべきことをやる。


※  ※  ※


——第十七話 了——

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