第八話 遙
陽光が格子窓の隙間から斜めに差し込み、弦一郎の顔に落ちていた。
暖かい。
いや。
暑い。
八月の朝特有の、けだるい重さを帯びた陽光だった。
弦一郎の脳が、自分がまだ生きていることを確認するまで——。
三秒かかった。
その直後。
こめかみが跳ねた。
ズキン。
普通の頭痛ではない。
脈拍に合わせて、何かが頭の内側から外へ押し出そうとしているような痛みだった。
適切な比喩を探す。
すぐに見つかった。
陸奥の四十五口径四十一センチ砲で、頭を撃たれたみたいだ。
「……くそ」
ゆっくりと目を開ける。
天井。
木造。
濃い色。
年季が入っている。
長門の士官次室でもない。
横須賀の宿舎でもない。
知っている場所ではなかった。
首を動かす。
痛い。
小さな部屋だった。
畳。
障子。
窓際には簡素な鏡台。
壁際には衣類が何枚か、きちんと畳まれている。
格子窓の外から——。
リンリン。
自転車のベル。
遠くから豆腐売りの声。
さらに向こうからは、路面電車の鉄輪がレールを擦る音が聞こえた。
弦一郎は天井を見つめた。
一秒。
二秒。
「……また、どこかとんでもない場所に飛んだのか」
そのとき。
廊下から軽い足音が聞こえた。
障子が——。
すっ、と静かに開いた。
千代が、小さな木の盆を手にして入ってきた。
盆には、湯気の立つ汁椀。
茶漬け。
そして——。
梅干しが一粒。
弦一郎が起きているのを見て、千代は少しだけ目を丸くした。
「あ……お目覚めですか」
※ ※ ※
「ここはどこだ」
弦一郎が体を起こす。
ズキン。
頭の奥を何かで突かれたように痛んだ。
思わず額を押さえる。
千代は盆を前に置き、跪座した。
「新橋です」
いつもの穏やかな声。
「千代の部屋です」
弦一郎は周囲をもう一度見回した。
そして——。
恐る恐る聞いた。
「俺……何か、まずいことをしたか」
千代は少し考え、首を横へ振った。
「いいえ」
弦一郎が安心しかけた、そのときだった。
「昨夜、お二人の大人と碗皿合戦をされて」
弦一郎の顔が止まった。
「箸で山本長官を爆撃なさって……」
記憶が一つ戻る。
土鍋。
箸。
おじさん。
「それから」
千代は少し間を置いた。
「達磨さんと、お商売をすると仰っていました」
弦一郎は黙った。
頭の中で——。
昨夜の破片が、順番に戻ってくる。
碗。
皿。
土鍋。
三戦三敗。
竹野内豊。
そこから——。
空白。
そして今。
弦一郎は梅干しを取って口へ運んだ。
酸っぱい。
塩辛い。
一瞬で鼻の奥まで刺激が走った。
少しだけ意識が戻る。
種を出し、千代を見る。
「山本長官は……何か言っていたか」
「山本長官は」
千代は答えた。
「碗と皿を全部、元の場所へ戻されてから、高橋さんと一緒にお帰りになりました」
弦一郎は——。
しばらく黙った。
一本。
一本。
倒れた猪口を起こしていた山本英輔。
あの動作。
意味は分かる。
負けを認めた。
そんな単純なものではない。
もっと深い。
まだ言葉になっていない何か。
弦一郎は茶漬けを一口食べた。
何も言わなかった。
千代が茶を足す。
少し迷ったあと——。
「少佐」
「ん?」
「竹野内豊というのは……」
弦一郎の箸が止まった。
千代は真剣だった。
「どのようなお料理なのでしょうか」
沈黙。
「昨夜、とても美味しそうにおっしゃっていたので」
弦一郎は湯飲みを持ったまま固まった。
脳が昨日の言葉を再生する。
——竹野内豊……。
——流転の王妃……。
——よかったな……。
なるほど。
こいつ。
「うまかった」みたいに聞こえたのか。
千代は本気だった。
覚えておいて。
今度探して。
少佐に食べさせてあげよう。
そんな顔をしている。
弦一郎は梅干しの種を取った。
見る。
置いた。
「……」
答えなかった。
千代はその沈黙を——。
懐かしい料理を思い出しているのだと思った。
竹野内豊。
流転の王妃。
どこの料亭の料理かは分からない。
でも——。
今度、探してみよう。
千代は心の中へ、その名前をそっとしまった。
※ ※ ※
しじみの味噌汁。
湯気が上がっている。
弦一郎は椀を持ち、一口飲んだ。
しじみの旨味。
味噌。
塩気。
次の瞬間。
ズキン。
「っ……」
こめかみが刺されたように痛んだ。
椀を置き、手で額を押さえた。
千代はそれを見た。
何も言わず、静かに立つ。
弦一郎の後ろへ回り、畳へ膝をついた。
淡い椿油の香り。
着物に残った樟脳の香り。
「少佐」
声は柔らかかった。
「動かないでください」
二本の指が——。
弦一郎のこめかみに触れた。
冷たい。
爪は短く、きれいに整えられている。
ゆっくりと円を描く。
強すぎない。
弱すぎない。
妙に上手かった。
「……」
弦一郎は目を閉じた。
強張っていた肩が、少しずつ落ちていく。
窓の外では——。
リンリン。
自転車のベル。
朝の新橋。
昨日。
新喜楽。
帝国の大物二人を相手に、好き放題言った。
碗皿で兵棋演習をやった。
山本英輔を三回沈めた。
最後には——。
この女の膝の上で寝た。
そして今。
彼女に二日酔いの頭を揉んでもらっている。
何なんだ。
この人生。
弦一郎は目を閉じたまま、何も言わなかった。
指先の冷たさが、こめかみをゆっくりと回る。
そのとき。
ふと——。
一つのことに気づいた。
彼女の名前を知らない。
千代。
いや。
それは芸名だ。
この世界で使う名前。
彼女自身の名前ではない。
本当は——。
何という名前なんだ?
海老を一皿、全部剥いた。
膝の上で眠った。
今は頭を揉んでもらっている。
なのに——。
名前を知らない。
※ ※ ※
千代の指は動き続けていた。
力加減も変わらない。
だが、伏せていた目が——。
弦一郎の横顔へ落ちた。
ほんの少しだけ。
男の人は、たくさん見てきた。
料亭の客。
金持ち。
地位のある人。
礼儀正しい人。
乱暴な人。
酔って泣く人。
酔って怒鳴る人。
いろいろいた。
どう接すればいいかも知っている。
どの距離にいればいいか。
どのくらい笑えばいいか。
どんな声で返事をすればいいか。
すべて身につけてきた。
でも——。
この人は。
千代は指を動かしながら考えた。
どこが——。
違うんだろう。
昨夜。
海老。
自分のために誰かが海老の殻を剥く。
そんなことは——。
一度もなかった。
普通は逆だ。
自分が客のためにする。
客が自分のためにすることではない。
なのに。
この人はやった。
何も言わず。
聞きもしない。
まるで——。
それが当たり前のことみたいに。
それから。
酒。
自分の猪口へ注いだ。
乾杯した。
あの目。
客が芸妓を見る目ではなかった。
もっと普通の。
友達と飲むような。
そんな目だった。
そして——。
膝の上で眠った。
眠る直前。
最後に言っていた言葉。
竹野内豊。
流転の王妃。
何なのか分からない。
でも。
夢の中で、とても大切な何かを思い出しているような声だった。
千代は——。
まだ答えを出せなかった。
ただ。
分かっていることが一つだけあった。
この人は。
これまで見てきたどの男とも——。
違う。
※ ※ ※
「少佐」
後ろから、穏やかな声がした。
急かすような響きはない。
「お伝えすることが二つございます」
弦一郎は目を閉じたまま、うなずいた。
「山本長官からです」
嫌な予感がした。
「今日の午後、長門へお戻りくださいとのことです」
弦一郎の肩が少し動く。
「会議があるそうで」
一拍。
「昨夜の碗皿合戦について、報告してほしいと」
……やっぱり。
千代の指は止まらない。
「それから」
まだあるのか。
「高橋さんから」
弦一郎の眉が動いた。
「二、三日のうちに訪ねてくるように、と」
「どこへ」
「大蔵省にいらっしゃるそうです」
弦一郎の全身が——。
固まった。
昨夜。
たわごと。
中国。
市場。
商売。
陸軍のバカ。
全部。
酔った人間の寝言だと思っていた。
言えば終わり。
翌朝には誰も覚えていない。
その程度のものだと。
違った。
高橋是清は——。
本気にした。
山本英輔も——。
本気にした。
千代は、弦一郎の肩が急に硬くなるのを指先で感じた。
少し力を強める。
「少佐」
真剣な声だった。
「力を抜いてください」
「……」
「そうしないと、もっと痛くなりますよ」
彼女は知らない。
今、硬くなった理由は——。
按摩と何の関係もない。
弦一郎はゆっくり息を吐いた。
肩の力を抜く。
そして——。
頭が回り始めた。
午後。
長門。
会議。
碗皿合戦。
大蔵省。
高橋是清。
中国市場。
この二つが——。
繋がった。
昨夜のたわごとは。
もう——。
たわごとではない。
※ ※ ※
その部屋に、どれくらいいたのか。
分からなかった。
しじみの味噌汁は空になった。
茶漬けも食べ終えた。
梅干しの種だけが、椀の横に残っていた。
千代は盆を片づけた。
急かさない。
ただ——。
そばにいた。
時々、茶を注ぐ。
時々、何もせずに座る。
窓の外では——。
時間が流れている。
自転車。
呼び声。
路面電車。
でも。
この小さな部屋だけは。
少し——。
時間が止まっているようだった。
弦一郎は千代の横顔を見た。
美緒の顔。
だが。
静かにしているときの姿が——。
まったく違う。
美緒の沈黙。
何かを考えている。
何かを評価している。
いつでも口を開き、明確な結論を言える。
そんな沈黙だった。
千代は違う。
人の空間の中で。
自分が必要以上に場所を取らない。
そういうことを、長い年月をかけて身につけてきたような静けさだった。
美緒には——。
一度もなかった。
同じ顔。
まったく違う魂。
弦一郎は少し考えた。
聞こうと思った。
あなたの——。
本当の名前は?
でも。
結局。
口にはしなかった。
※ ※ ※
軍服を整える。
立ち上がる。
千代は玄関まで送った。
弦一郎はしゃがみ、靴を履く。
靴紐を結ぶ。
頭の中には——。
まだ同じ問いが残っていた。
彼女の本当の名前。
唇が少し動いた。
でも。
そのまま結び終える。
立つ。
千代を見る。
「お世話になりました」
千代は頭を下げた。
「どうぞ、お気をつけて」
穏やか。
正しい。
こういう別れの場面で使うべき言葉。
それだけ。
でも。
頭を下げながら——。
千代の胸の中に、小さなものが一つ落ちた。
悲しい。
というほどではない。
ただ——。
ああ。
やっぱり、そういうものなんだ。
そんな確認だった。
この変な少佐は。
正しく別れを告げた。
そして——。
千代も。
彼の名前を知らなかった。
海野少佐。
ではなく。
軍服。
飾緒。
階級。
その全部の下にある——。
本人の名前。
聞いたことがない。
弦一郎は一度だけ千代を見た。
そして——。
出ていった。
あの問いは。
聞かなかった。
※ ※ ※
新橋の朝は——。
まだそこにあった。
リンリン。
自転車。
豆腐売り。
遠くを走る路面電車。
石炭の燃える匂い。
昨夜の酒が、まだ体のどこかに残っている。
八月の日差し。
真上。
影が足元に短く落ちていた。
弦一郎は通りへ出た。
深く息を吸う。
そして——。
頭が動き始めた。
二日酔いの鈍さではない。
冷たく、はっきりした動きだった。
昨夜の言葉が——。
一つずつ浮かぶ。
——普通に商売すりゃいいじゃないか。
——アメリカが買えなくなったなら、客を変えればいい。
——中国だよ。
——取りに行かないで、商売しろ。
新橋の朝。
一九三〇年の東京が、自分の横を流れていく。
自転車。
和服。
洋装。
商人の声。
弦一郎は——。
もう一度、深く息を吸った。
次に何をすべきか。
分かった。
高橋是清が待っているからではない。
山本英輔が報告を求めているからでもない。
昨夜の——。
あのたわごと。
あれが。
本当だったからだ。
ずっと——。
分かっていた。
ただ。
昨日の菊正宗が——。
ずっと分かっていたことを。
口から外へ出しただけだった。
弦一郎は向きを変えた。
横須賀へ。
歩き始める。
※ ※ ※
その後ろ。
小さな部屋の格子窓は——。
まだ開いていた。
椿油と樟脳の香りも。
まだ完全には消えていない。
千代は窓辺に立っていた。
弦一郎の後ろ姿を——。
見送っていた。
新橋の街角。
彼の姿が。
見えなくなるまで。
それから。
静かに目を伏せた。
空になった朝食の盆を——。
片づけ始めた。
彼女の本当の名前は——。
遙といった。
彼は。
まだ知らなかった。
※ ※ ※
——第八話 了——




