第七話 たわごと
三杯目を過ぎたあたりで、座敷の空気が少し変わった。
悪くなったわけではない。
酒がある程度回ると、人と人との距離が少し縮まり、言葉にかかっていた濾紙が一枚薄くなる。
そんな変わり方だった。
小夜は曲を変えた。
細い三味線の音が、庭の虫の声と菊正宗の香りの中へ溶けていく。
山本英輔は猪口を持ったまま、しばらく膳を見ていた。
やがて顔を上げ、高橋是清を見る。
「本当に……方法はないのか」
声は低かった。
問いというより——。
酔いが回っていなければ、決して口から出なかった本音だった。
「こんな形で海を譲って……帝国の安危はどうなる」
高橋是清は猪口を置いた。
山本を見る。
そして——。
笑った。
だが、今までの丸い笑いとは違った。
山本英輔の背筋が、ほんの少し寒くなるような笑いだった。
「いいよ」
高橋は言った。
老いた狐が、まだ爪を見せる前のような穏やかさで。
「陸軍の大砲を作る金を、少し海軍へ回すよう運動してやってもいい」
山本英輔の目が細くなる。
高橋は指を一本立てた。
「ただし」
一拍置いた。
「条件が一つある」
山本は黙っている。
高橋は彼を見ず、千代へ顔を向けた。
「千代」
「はい」
「海野君に酌をしてやれ」
弦一郎が顔を上げた。
千代も一瞬だけ止まった。
だがすぐに酒瓶を取り、弦一郎の猪口へ静かに注いだ。
高橋はもう一度、山本を見る。
例の、寒気のする笑み。
「英輔」
「なんじゃ」
「海軍省で、おまえは海野君の問いをちゃんと聞いておらんかった」
高橋の丸い目が細くなる。
「今夜は俺が、もう一度聞かせてやる」
山本が何か言う前に——。
高橋は弦一郎へ向いた。
「海野君」
目の前の菊正宗を指差す。
「まず、その一本を空けてくれ」
※ ※ ※
弦一郎は瓶を見た。
高橋を見る。
山本を見る。
二人の大魔王が——。
同時にこちらを見ていた。
逃げ道はないらしい。
弦一郎は瓶を取った。
※ ※ ※
一本空いたころ。
弦一郎は、自分の頭の中にある濾紙に、かなり大きな穴が開いていることに気づいた。
普段なら止まる言葉が——。
止まらない。
いろいろなものが、その穴から漏れ始めていた。
高橋是清は畳の中央を片づけ始めた。
茶器を脇へ寄せる。
皿を動かす。
碗を並べる。
「さあ」
高橋は言った。
「続きをやろう」
山本英輔が眉をひそめる。
「ここでか?」
「ここでだ」
高橋は大きな磁器の碗を中央へ置いた。
「これが長門」
骨皿を何枚か横へ並べる。
「これがおまえの巡洋艦」
小さな猪口。
「駆逐艦」
今度は土鍋を引き寄せ、反対側へ置いた。
「これが米軍の空母」
そして——。
箸を一束、弦一郎の前に置く。
「艦載機」
高橋は満足そうに全体を見た。
「海野君。おまえが青軍、米軍側。兵力は赤軍の三分の二」
山本を見る。
「英輔、おまえが赤軍」
自分の胸を指す。
「俺が統裁」
山本英輔は——。
しばらく料亭艦隊を眺めていた。
それから何も言わず、骨皿を動かし始めた。
陣を組む。
弦一郎は碗と皿と猪口を見た。
酔った頭の中で、何かが弾けた。
子供のころ。
友達と居間の床へ地図を広げ、模型や駒を並べた。
何でも言えて。
何でも試せた。
あの感覚。
弦一郎は猪口を置いた。
よし。
来い。
※ ※ ※
第一戦。
山本英輔は教科書通りだった。
漸減邀撃。
前衛部隊で敵を削る。
その後、主力戦艦部隊を展開。
決戦距離で捕捉し——。
砲戦。
長年繰り返してきた演習、そのものだった。
動きには迷いがない。
弦一郎は陣形を眺めた。
そして——。
空母を表す土鍋を、畳の端まで引いた。
箸の束を持つ。
「おじさん」
山本英輔の眉が動いた。
「……誰がおじさんじゃ」
弦一郎は聞いていなかった。
「合戦が始まる前に、もう終わってますよ」
山本の目が鋭くなる。
弦一郎は箸を一本、長門の碗へ落とした。
次。
また一本。
次。
「青軍は、赤軍の檣頭を見る必要なんかありません」
箸が落ちる。
「索敵機が見つける」
もう一本。
「攻撃隊が飛ぶ」
さらに一本。
「おじさんの前衛が、こっちの主力艦を探している間に——」
箸の束を——。
長門と赤城の上へ落とした。
「空から来ます」
山本の顔から笑みが消えた。
「爆撃機と攻撃機が、何波にも分かれてな」
箸が碗の周囲へ散る。
「おじさんが撃ちたい相手は——」
弦一郎は土鍋を指差した。
「ずっと、水平線の向こうです」
小夜の三味線が——。
半音外れた。
高橋是清は黙って酒を飲んでいた。
だが丸い目の奥で、何かが高速で回り始めていた。
※ ※ ※
第二戦。
山本英輔の顔色が変わった。
妙高。
那智。
重巡を示す骨皿を前へ出す。
全速突撃。
一戦負けても——。
気概までは負けていない。
弦一郎は——。
見もしなかった。
小さな猪口を数個取る。
潜水艦。
赤軍の後方へ回す。
燃料船。
補給艦。
小皿を——。
一枚。
また一枚。
裏返していく。
最後に。
山本英輔の前に置かれていた菊正宗の瓶を取った。
自分の方へ置く。
山本の目が瓶を追う。
弦一郎は言った。
「おじさん」
「今度は何じゃ」
「油、なくなりました」
沈黙。
「主力艦には大砲があります」
長門の碗を指差す。
「装甲もあります」
骨皿を見る。
「魚雷もあります」
酒瓶を持ち上げる。
「でも——」
自分の後ろへ置いた。
「燃料がありません」
山本英輔の頬が引きつった。
弦一郎は猪口を飲む。
「海の上の鉄くずです」
そう言って——。
千代へ片目をつぶった。
千代が固まった。
山本英輔の手が——。
畳へ落ちた。
バン!
碗皿が跳ねる。
「卑怯者!」
弦一郎を指差す。
「そんなものは海賊の戦じゃ! 堂々たる海戦ではない!」
「戦争でしょう」
弦一郎は真顔だった。
「勝てばいいじゃないですか」
山本の口髭が震えた。
小夜の三味線が——。
また一音外れた。
高橋是清は、取り上げられた酒瓶を見る。
山本の前の空いた場所を見る。
そして——。
何も言わず、ゆっくりとうなずいた。
※ ※ ※
第三戦。
弦一郎は少し体を前へ傾けた。
「おじさん」
山本英輔はもう返事をしなかった。
「夜戦したいでしょう」
口髭が動く。
「特型駆逐艦を突っ込ませて」
弦一郎は言った。
「魚雷で一気にひっくり返したいでしょう?」
山本英輔が冷笑した。
吹雪。
白雪。
細長い猪口を並べる。
突撃陣形。
「その通りじゃ」
山本の目に、今度こそという光が戻った。
「夜は帝国海軍の天下じゃ」
猪口を前へ。
「肉眼観測。奇襲。水雷戦」
さらに前へ。
「敵の懐へ飛び込めば——」
弦一郎は首を横に振った。
「付き合いませんよ」
山本の手が止まる。
「何?」
「青軍は、おじさんが一番得意な距離まで入らない」
弦一郎は米軍側の皿を下げた。
「無線の発信方位から、おおよその接近方向を絞る」
別の皿を広げる。
「前衛の哨戒線で接触する」
巡洋艦の皿。
駆逐艦の猪口。
間隔を取って配置する。
「見つけたら照明弾を使う」
弦一郎は煙草を一本取った。
火はつけない。
猪口の上へ掲げる。
「おじさんの方は——」
吹雪。
白雪。
それを見ながら続ける。
「暗闇に隠れてるつもりです」
もう一本。
「でも、相手は暗闇そのものを消そうとする」
山本の顔から表情が消える。
「青軍は白兵戦をしません」
弦一郎は言った。
「自分たちが有利な距離を保つ」
一枚の皿を後ろへ。
「見つけたら撃つ」
猪口を倒す。
「寄ってきたら下がる」
もう一本。
「また撃つ」
一本。
また一本。
猪口が倒れていく。
「おじさんが魚雷を撃てる距離へ入るまで——」
最後の一本を倒した。
「何隻残ってます?」
山本英輔は——。
何も言わなかった。
弦一郎は菊正宗を一口飲んだ。
猪口を置く。
「三戦」
指を三本立てた。
「三敗です」
畳の上は——。
廃墟だった。
倒れた猪口。
裏返った小皿。
取り上げられた酒瓶。
散らばった箸。
小夜の三味線は——。
止まっていた。
座敷が静かになった。
山本英輔は、畳の上の廃墟を見ていた。
何十年も信じてきたものが。
碗と猪口の姿で——。
畳の上に転がっている。
長い間。
何も言わなかった。
※ ※ ※
弦一郎は——。
ゆっくりと兵棋演習の世界から戻ってきた。
菊正宗が頭の中で——。
最後に一回転した。
そして。
体が、完全に無計画な決断をした。
右へ倒れた。
正座の姿勢から、そのまま。
頭が——。
千代の膝へ落ちた。
目を閉じる。
千代は固まった。
完全に。
両手をどこへ置けばいいのか分からない。
海老のとき以上に分からない。
突然、帝国海軍少佐の枕にされた。
山本英輔は、その光景を見た。
しばらく黙る。
それから——。
首を横へ振った。
「このバカタレ」
ため息をつく。
「倒れる場所だけは選びよる」
だが、移動させようとはしなかった。
再び畳の上の艦隊廃墟を見る。
考え込む。
※ ※ ※
そのとき。
弦一郎が口を開いた。
目は閉じたまま。
完全に目覚めている人間の声ではなかった。
意識が——。
夢と現実の間を漂っている。
「お前らさあ……」
高橋。
山本。
二人が同時に見る。
「普通に……商売すりゃいいじゃないか……」
ぼそぼそと続ける。
「戦争しなくても……みんな……いい暮らしできるじゃないか……」
寝返りを打つ。
千代がまた固まる。
声がさらに籠もった。
「商売の方が……戦争より儲かるだろ……」
一拍。
「陸軍のバカ……奪い取ればいいって……」
高橋是清の——。
笑みが消えた。
驚いたのではない。
言葉が胸のどこかへ刺さり、その意味になるまで——。
少し時間がかかっている顔だった。
山本英輔は弦一郎を見る。
そして。
高橋を見る。
高橋は山本を見なかった。
弦一郎だけを見ていた。
丸い目の奥で——。
何かが動き始めていた。
また。
弦一郎がぼそりと言う。
「アメリカが……買えなくなったなら……」
高橋が少し身を乗り出した。
「うん?」
「客……変えればいいじゃないか……」
高橋の目が止まる。
「誰に?」
弦一郎はしばらく黙った。
夢の底で、何かを探している。
映像。
子供のころ。
母親が録画していた古いドラマを、一緒に見た。
『流転の王妃・最後の皇弟』。
竹野内豊が演じた愛新覚羅溥傑。
満洲。
中国。
戦争。
まだ何も知らなかったころ。
歴史の後ろには——。
本当に生きていた人間の顔がある。
初めてそう感じた作品だった。
「中国だよ……」
高橋の顔から——。
完全に酔いが消えた。
弦一郎は目を閉じたまま。
「四億人以上いるだろ……」
声は眠い。
「全部が客じゃなくても……市場は、とんでもなくでかい……」
寝返りを打つ。
「港出て……何日だよ……」
さらに声が籠もる。
「陸軍のバカ……取りに行かないで……商売しろよ……」
座敷の空気が変わった。
高橋是清が——。
背筋を伸ばした。
この酔い潰れた若者を、長い間見ていた。
それから。
山本英輔へ向く。
「英輔」
「……なんじゃ」
「戦わずして」
一拍。
「あの市場へ食い込めるとしたら」
さらに。
「陸軍が、あれほどの金を要求する理由は——」
丸い目が細くなる。
「どこまで残る?」
山本英輔の口髭が——。
止まった。
高橋を見る。
畳の上の廃墟を見る。
酒瓶を取る。
一杯注ぐ。
飲み干す。
何も言わなかった。
座敷が——。
長い間、静かだった。
そして。
千代の膝の上。
弦一郎が最後にぼそりと言った。
ほとんど聞こえない。
「竹野内豊……」
千代が下を見る。
「流転の王妃……よかったな……」
それきり。
完全に眠った。
千代は、膝の上の顔を見た。
酔っている。
眠っている。
口元には——。
彼女には意味の分からない表情が残っていた。
少し迷う。
それから。
手を伸ばした。
弦一郎の額に落ちた髪を——。
そっと、かき上げた。
それだけ。
他には何もしなかった。
※ ※ ※
高橋是清は、それを見ていた。
ため息をつく。
そして——。
ひどく惜しそうな顔をした。
「……この逸材を海軍に置いておくのは」
山本英輔の鷹の目が動く。
高橋が続けた。
「もったいないなあ」
一秒。
「チェスト!!」
座敷が震えた。
菊正宗の猪口まで震えた。
千代の肩が跳ねる。
弦一郎は膝の上で少し動いた。
寝返りを打つ。
また眠る。
小夜の三味線が——。
一音外れた。
高橋是清は腹を抱えて笑った。
丸い体が揺れる。
猪口を持っていられないほどに。
※ ※ ※
山本英輔は菊正宗を一口飲んだ。
笑い続ける高橋を見る。
千代の膝で眠る弦一郎を見る。
そして——。
もう元には戻らない。
畳の上の碗皿の廃墟を見る。
何も言わず。
箸を一本取った。
倒れた猪口を——。
一本。
また一本。
起こしていった。
庭の虫は鳴き続けていた。
菊正宗は——。
まだ冷たかった。
※ ※ ※
——第七話 了——




