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第六話 海老の殻

小夜と千代が座敷に入り、障子が後ろで静かに閉まった。


小夜は山本英輔のそばへ歩き、その傍らに跪座した。


何年もかけて身につけた、場所を取らない優雅な動作。


まるで、そこが最初から自分の場所だったかのようだった。


千代は入口に立ったまま、まだ座っていなかった。


そこで——。


高橋是清が口を開いた。


顔も上げない。


菊正宗の猪口を手にしたまま、いかにも何気ない調子だった。


ただし弦一郎には、それが本当に何気ないわけではないと分かった。


「千代」


高橋は言った。


「そっちに座りな」


顎で、弦一郎の隣を示した。


弦一郎は、千代の視線がこちらへ流れてくるのを感じた。


「はい」


小さな声だった。


和服が畳を擦る。


細く、軽い音。


そして——。


千代が隣に跪座した。


香りがした。


美緒のものではない。


もっと淡い。


かすかな花の香り。


それに、弦一郎には名前の分からない、この時代特有の何かが混じっていた。


だが——。


あの顔。


弦一郎は一度だけ横目で見た。


すぐに視線を外し、目の前の膳へ戻す。


菊正宗。


小皿の料理。


そして、運ばれてきたばかりの蒸し海老。


鮮やかな橙色。


塩と酒の香り。


弦一郎は猪口を持ち上げ、一口飲んだ。


※  ※  ※


そして——。


手が動いた。


自分で決めたわけではない。


考えるより先だった。


呼吸や瞬きと同じように。


弦一郎は海老の皿へ手を伸ばした。


そして、その皿を千代の前へ寄せた。


千代がぽかんと皿を見る。


それから弦一郎を見た。


だが弦一郎は見ていなかった。


もう一尾、手に取っていた。


殻を剥く。


指先で頭を外し、殻を取る。


身だけにして——。


千代の前の小皿へ置いた。


二尾目。


また剥く。


この動作を、これまで何度やっただろう。


美緒と食事をするとき。


海老が出れば、いつもこうだった。


何も言わない。


聞かない。


ただ剥く。


そして、美緒の前に置く。


美緒は、自分で殻を剥くのが嫌いだった。


殻で手を切る。


剥いたあとは指が生臭くなる。


そう言っていた。


弦一郎の手は——。


まだ動いていた。


三尾。


四尾。


※  ※  ※


周囲の空気が、ふっと静まった。


静かになった、というのとは少し違う。


さっきまであった話し声。


猪口の触れる音。


衣擦れ。


それらが、ある瞬間に一斉に止まったような静けさだった。


弦一郎は気づかなかった。


顔も上げない。


五尾。


六尾。


一尾ずつ、丁寧に殻を剥いていく。


身を千代の小皿へ整然と重ねる。


殻は別の皿の端へ寄せる。


全部終わった。


そして——。


その小皿を、千代の方へもう少し押した。


ようやく顔を上げる。


あの表情で。


七年間で染みついた——。


あの顔で。


ありがとうと言われるのを待つ。


相手が海老を一つつまむのを待つ。


美緒が何度も見せた——。


少し面倒くさそうにしながらも、実はちょっと嬉しそうな。


あの表情を——。


待つ。


そして。


千代の顔を見た。


なかった。


そこに——。


美緒のあの表情はなかった。


代わりにあったのは——。


困惑。


どうすればいいのか分からない、という顔。


まるで、生まれてから一度もこんな扱いを受けたことがないような。


これまで学んできた礼儀も。


芸妓として身につけてきた振る舞いも。


誰一人として——。


この状況で何を言えばいいのか。


何をすればいいのか。


どんな顔をすればいいのか。


教えてくれなかった。


そんな表情だった。


千代は弦一郎を見る。


海老を見る。


また弦一郎を見る。


唇が少し動いた。


だが、声は出なかった。


そこで——。


弦一郎は視線を外した。


高橋是清を見る。


口が——。


開いていた。


喋っているわけではない。


何かを言いかけたまま止まり、そのまま口を閉じるのを忘れたような顔だった。


手に持った猪口も、宙で止まっている。


飲まない。


置かない。


次に——。


山本英輔。


弦一郎はこの数日で、山本英輔の口髭をずいぶん見てきた。


微動だにしない口髭。


怒ると震える口髭。


薩摩弁の発音に合わせて動く口髭。


しかし——。


今の状態は初めてだった。


止まっている。


完全に。


口髭まで——。


止まっていた。


そして、小夜。


芸妓だ。


いろいろな客を見てきただろう。


どんな場面でも、柔らかく、少し距離を置いた微笑みを保つ。


それが仕事だ。


だが今——。


その微笑みが消えていた。


小夜までが、目の前で何が起きているのか理解しようとしている。


四人。


四つの顔。


弦一郎は、それを順番に見た。


そこで——。


ようやく脳が追いついた。


俺。


今——。


何をした?


一皿の海老を全部剥いた。


一九三〇年の芸妓の前に、きれいに並べた。


しかも最後に——。


飼い主に頭を撫でてもらうのを待つ犬みたいな顔で、相手を見た。


庭では虫が鳴いていた。


障子の隙間から庭の灯りが差している。


菊正宗の香りが漂う。


弦一郎は——。


ゆっくり。


非常にゆっくりと。


海老の小皿を少し押し戻した。


猪口を持つ。


口元へ運ぶ。


そして——。


猪口の後ろへ顔を隠した。


※  ※  ※


高橋是清の口が閉じた。


次の瞬間——。


「ははははははは!」


爆発した。


今までの含み笑いではない。


本気だった。


猪口を持っていられないほど笑う。


肩が揺れる。


丸い体が畳の上で震える。


「いいねえ!」


まだ笑っている。


「いいねえ、若いってのは!」


袖で目尻を拭った。


「坊主、恥ずかしがるな」


弦一郎は猪口の後ろに顔を隠したままだった。


「男なんて、そんなもんだ。好きなら好きでいいじゃないか。何が悪い」


やめろ。


頼む。


今は本当にやめてくれ。


口には出さなかった。


出せなかった。


高橋の笑いが、少しずつ収まっていく。


そして——。


声が変わった。


「俺もな」


弦一郎は、猪口の向こうから目だけを動かした。


「若いころは、おまえ以上だったぞ」


笑いの余韻。


だが、その中に別のものが混ざり始めていた。


「十七、八のころだったか」


高橋は猪口を見た。


「芸者遊びにのめり込んでな」


山本英輔がちらりと高橋を見る。


高橋は気にしない。


「しまいには金も仕事もなくなって、懇意にしていた芸者のところへ転がり込んだ」


少し笑った。


今度は——。


自分自身を笑うように。


「あずまのお君……桝吉って女でな」


その名前を口にするとき、声が少しだけ柔らかくなった。


「俺はそいつの箱屋までやった」


千代も顔を上げた。


「箱屋?」


弦一郎が聞いた。


「芸者の三味線やら着物やらを入れた箱を持って、座敷まで送り迎えするんだ」


高橋は言った。


「若造が英語を教えたり、役所へ出たりしたかと思えば、その次は芸者の荷物持ちだ」


笑う。


「大した人生だろう」


山本英輔が鼻で息を吐いた。


高橋は続けた。


「でもな」


声が少し落ちた。


「人間、落ちたときに誰がそばにいたかってのは、歳を取っても案外忘れんもんだ」


猪口を持ち上げ、少し眺める。


「金のないころ、飯を食わせてもらった」


一口飲む。


「自分が何者になるかも分からんころにな」


部屋が、少し静かになった。


今度の静けさは——。


さっきとは違った。


高橋是清。


元総理。


元大蔵大臣。


日本銀行総裁。


日露戦争の外債募集を担った男。


その老人が——。


十七歳のころ。


仕事も金もなく、芸者の三味線を運んでいた。


その光景を、弦一郎は頭の中で想像した。


不思議だった。


歴史の教科書に載る名前が——。


急に、人間になった。


高橋は猪口を置いた。


「まあ」


再び、あの丸い笑みを浮かべた。


「だから坊主」


弦一郎を見る。


「海老くらい剥いてやれ」


「もう剥きました」


反射的に答えた。


一秒。


高橋がまた笑い始めた。


※  ※  ※


弦一郎は、まだ少し赤くなった顔で猪口を見ていた。


そして——。


ふと思う。


美緒は——。


ありがとうと言ったことがなかった。


海老の殻を剥く。


前へ置く。


美緒は黙って取る。


食べる。


それだけ。


礼もない。


いや。


礼が必要だと思ったことさえ、なかった。


七年間。


そういう関係だった。


それを——。


愛だと思っていた。


今でも、たぶんそうだったと思う。


でも。


高橋是清の話を聞いていると——。


自分には、まだ分からないことがあるような気がした。


人間が誰かを好きになるということ。


誰かと一緒に生きるということ。


七年間付き合えば分かると思っていた。


違ったらしい。


海野弦一郎。


二十五歳。


七年付き合った恋人に三分で別れを告げられ、防波堤でビールを六本飲んだ。


目を覚ましたら一九三〇年。


そして——。


美緒と同じ顔をした女の前で、無意識に海老を剥いている。


何なんだ。


俺の人生。


弦一郎は猪口を空けた。


※  ※  ※


そのとき。


向かい側の気配がおかしいことに気づいた。


山本英輔と小夜。


いつの間にか——。


この卓にいる他の人間とは、別の世界へ行っていた。


山本英輔は少し体を小夜の方へ傾け、何か話している。


声が低い。


弦一郎には内容までは聞こえない。


しかし——。


口調だけで分かった。


軽い。


柔らかい。


この数日、鷹のような目をした薩摩の硬骨漢から、一度も聞いたことのない声だった。


小夜は口元を袖で隠し、少し顔を伏せている。


肩がかすかに揺れていた。


笑っている。


高橋是清も気づいた。


顔を向けて見る。


そして——。


丸い手が上がった。


パシッ。


山本英輔の腕を叩く。


強くはない。


だが、はっきりと。


「英輔!」


山本英輔が振り向いた。


鷹の目。


口髭が動く。


高橋は弦一郎を指差した。


「弦一郎を見ろ」


次に山本を指差す。


「それから、自分を見ろ」


山本英輔は弦一郎を見た。


一秒。


そして——。


何事もなかったかのように、小夜へ向き直った。


また話し始める。


高橋はもう一度手を上げようとした。


だが——。


届かない。


丸い体から山本の腕まで、微妙に遠い。


手を途中まで伸ばしたまま、諦めた。


そのまま下ろす。


鼻を一度すすった。


そして弦一郎を見る。


「見ろ」


ため息。


「薩摩人ってのは、どうしようもない」


山本英輔の口髭が、向こうで少し動いた。


聞こえている。


絶対に聞こえている。


高橋は気にしない。


むしろ声を少し落とし——。


老人特有の、噂話を楽しむ表情になった。


「でも、小夜はいい女だぞ」


山本を見る。


「英輔のやつは幸せ者だ」


弦一郎は、何と返せばいいのか分からなかった。


※  ※  ※


菊正宗を持ったまま——。


弦一郎は視線の置き場所を失った。


左。


千代。


まだ少し困ったような表情をしている。


右。


高橋是清。


今度は山本英輔を肴に酒を飲んでいる。


正面。


山本英輔と小夜。


二人だけの世界。


弦一郎は酒瓶に手を伸ばした。


千代の猪口は空だった。


酒を注ぐ。


また——。


手が勝手に動いた。


海老のときと同じだった。


千代が猪口を見る。


弦一郎を見る。


弦一郎は自分の猪口を持ち上げ、千代の方へ軽く差し出した。


コツ。


猪口同士が触れる。


何も言わない。


そのまま飲み干した。


千代は一秒ほど、ぽかんとした。


そして——。


次の瞬間。


自分の猪口を急いで飲み干した。


速い。


さらに——。


弦一郎がまったく予想しなかった速さで、酒瓶を取った。


弦一郎の空になった猪口へ注ぐ。


迷いはなかった。


動きも速い。


下を向いている。


手は安定している。


なのに——。


耳の根だけが、少し赤かった。


弦一郎は注がれた猪口を見た。


少し黙った。


そして——。


持ち上げる。


一口。


菊正宗。


辛い。


真っ直ぐだ。


※  ※  ※


高橋是清が、話の途中で顔を上げた。


弦一郎。


千代。


二人を見る。


一人は黙って海老を剥く。


もう一人は黙って酒を注ぐ。


二人とも——。


何も言わない。


二人とも——。


どこか下を向いている。


庭では虫が鳴いている。


菊正宗の香り。


夏の夜。


小さな座敷。


その中で。


二人の間に——。


まだ名前のない何かが生まれ始めていた。


高橋是清の目元には、さっきまで笑った涙がまだ少し残っていた。


だが——。


口角が上がった。


猪口を持ち上げる。


そして——。


自分にだけ聞こえるような小さな声で言った。


「若いってのは、いいもんだな」


※  ※  ※


山本英輔は、まだ小夜をからかっていた。


庭の虫は鳴き続けていた。


菊正宗は——。


まだ冷たかった。


※  ※  ※


——第六話 了——

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