第五話 千代
黒塗りの車が、日比谷通りを揺れながら走っていた。
高橋是清が窓を下げた。
八月の夜風が流れ込んでくる。
ただの夜風ではない。
銀座の夜風だった。
洋装の女性が残していった香水の匂い。
どこかのカフェが開け放った窓から流れてくるジャズ。
そして——。
二〇二六年の東京では、まず嗅ぐことのない馬糞の臭い。
弦一郎は窓にもたれ、それらすべてを受け入れた。
車は銀座四丁目をゆっくりと通り過ぎる。
交差点の一角には、工事中の服部時計店新本店があった。
鉄骨と足場に覆われ、後世の銀座を象徴する時計塔の姿は、まだない。
二〇二六年。
ここには、あの時計塔がある。
ほとんど変わらない姿で。
だが今は——。
まだ、ない。
その事実だけで、妙な感覚がした。
自分の知っている東京の風景が、まだ完成していないのだ。
車はそのまま築地の方へ向かった。
関東大震災で焼けた本願寺の跡地付近を通る。
再建は決まっている。
だが、あの独特な本堂が姿を現すのは、まだ先のことだ。
その周辺では、荷車が行き交っていた。
築地魚河岸から出てきたばかりなのだろう。
砕いた氷を山ほど積んだ車。
白く光る氷。
濡れた路面。
木の車輪が石と砂利を踏む、乾いた音。
車内では、誰も話さなかった。
高橋是清は窓の外を眺めている。
顔には、あのほんのりと丸みを帯びた笑み。
何度も見てきた芝居を、それでもまだ面白がっている老人のような表情だった。
山本英輔は反対側に座っている。
口髭は微動だにしない。
両手を膝に置き、背筋は相変わらず鉄棒のように真っ直ぐだった。
弦一郎は二人の間に座っていた。
香水。
ジャズ。
馬糞。
それらで一時的に感覚を満たしていた。
やがて——。
山本英輔が口を開いた。
※ ※ ※
「あの条約は」
声は大きくなかった。
だが車内では、はっきりと聞こえた。
怒鳴ってはいない。
むしろ、抑え込まれた、くすぶるような怒りだった。
「七割じゃ」
高橋是清は窓の外を見たままだった。
「米英の七割のトン数しか持てんようにされた。それが何を意味するか分かっとるか、高橋さん」
今度は、薩摩弁で罵倒するような調子ではなかった。
山本英輔は、本当に眠れなくなるほど重い問題を話していた。
「太平洋で、いつまでも弟分でいろということじゃ」
そう言って続ける。
「米英が叩きたいときに叩き、叩きたくないときには条約を恵んでやって、ありがたく思えと言う」
口髭がわずかに動いた。
「七生報国だろうが、一発入魂だろうが、いくら叫んでもトン数の差はそこにある」
一拍置いた。
「差は鋼鉄じゃ。砲身じゃ。艦艇じゃ。意志ではない」
車内が静かになった。
高橋是清は、すぐには答えなかった。
窓の外を流れていく東京を、しばらく眺め続けている。
丸い笑みも消えない。
やがて——。
「英輔」
静かな声だった。
「おまえは、何が欲しいんだ?」
山本英輔が顔を向けた。
「はっきり言え」
高橋は山本を見た。
責めているわけではない。
本当に尋ねていた。
「日本に勝ってほしいのか」
少し間を置く。
「それとも——今すぐ、日本が強そうに見えてほしいのか?」
山本英輔は黙った。
少しして、
「同じことじゃなかろうか」
「違う」
高橋是清は即答した。
今度は窓の外ではなく、山本英輔を正面から見ていた。
丸い目。
その奥にあるものを、弦一郎はすぐには言葉にできなかった。
「まったく違う」
少し間を置く。
「日本の年間鉄鋼生産量がどれほどか知っとるか?」
山本は答えない。
「アメリカは?」
やはり答えない。
「海軍軍費が国家予算のどれだけを食っとる?」
高橋の声は変わらなかった。
「このまま続けて、財政が何年持つか。計算したことはあるか?」
山本英輔が眉をひそめた。
だが、何も言わなかった。
「条約がいいとは言っとらん」
高橋は言った。
七十年以上生きて、あまりにも多くを見てきた者にしか出せない、不思議な穏やかさだった。
「まだ体の出来上がっておらん若造が、無理して街で喧嘩をするようなもんじゃ」
窓の外へ視線を戻す。
「勝てば運がよかった」
そして、また山本を見る。
「負ければ棺桶に入る」
車輪が路面の継ぎ目を踏んだ。
車体が一度揺れた。
「日本は、世界を全部敵に回したいのか」
高橋は言った。
「それとも——まず実力をつけて、機を待ち、その時に超えていくのか」
沈黙。
山本英輔は、それ以上何も言わなかった。
説得されたわけではない。
納得したわけでもない。
ただ——。
怒りだけでは答えられない問いを突きつけられた者の沈黙だった。
弦一郎は二人の間で、その会話を聞いていた。
何も言えなかった。
二人の老人の、その後を知っていたからだ。
山本英輔。
一九三三年、予備役。
最悪の時代が本格的に始まる前に、第一線から去る。
そして——。
高橋是清。
一九三六年二月二十六日。
陸軍青年将校らが自宅へ踏み込む。
寝室。
銃撃。
さらに軍刀。
八十二歳。
軍事費の膨張に、最後までブレーキをかけようとした男。
その本人が今、自分の左隣に座っている。
丸い老人。
笑うと、本当に達磨のように丸い。
あと——。
六年。
弦一郎は何も言えなかった。
言えるはずがなかった。
未来を知っている。
だが——。
「六年後、あなたは殺されます」
そんな言葉を、どうやって口にすればいい?
窓の外では、ジャズがまだ聞こえていた。
そして馬糞の匂いも、まだ消えていなかった。
※ ※ ※
車は、黒い木塀の前で止まった。
新橋。
新喜楽。
弦一郎は二人の老人に続いて車を降りた。
静かな門構えだった。
外から見ただけでは、中にどんな人物が出入りしているのかなど分からない。
それを眺めていると、また場違いな考えが浮かんだ。
さっきまで海軍省でボードゲームをしていた。
今度はここで——。
内閣の名簿でも決めるのか。
弦一郎は心の中でため息をつき、二人の後へ続いた。
※ ※ ※
案内されたのは、庭に面した座敷だった。
障子の向こうから庭の灯りが入り、畳を柔らかな黄色に染めている。
山本英輔と高橋是清は靴を脱ぎ、中へ入った。
その動作には妙な自然さがあった。
初めて来た客ではない。
まるで自宅へ帰ってきたような寛ぎ方だった。
弦一郎も続いて座った。
背筋だけは真っ直ぐにしておく。
問題は——。
手をどこに置けばいいのか分からない。
酒はすぐに運ばれてきた。
菊正宗。
冷酒。
白磁の猪口。
給仕が下がり、障子が静かに閉じた。
山本英輔が猪口を取る。
一口飲む。
何も言わない。
高橋是清も飲んだ。
満足そうに、丸い声を漏らす。
弦一郎も猪口を持ち、一口飲んだ。
辛口。
真っ直ぐな味だった。
余計な甘さも、飾りもない。
そのまま喉へ落ちていく。
二杯目。
庭では虫が鳴いていた。
細く、静かな声。
さっきまでのジャズと馬糞の東京とは、まるで別の世界だった。
そのとき。
障子が、かすかに鳴った。
外に誰かいる。
山本英輔の口髭が——。
ほんの少しだけ動いた。
本人は気づかれていないと思っているかもしれない。
弦一郎は見逃さなかった。
心の中で言った。
このスケベな渋いおじさまめ。
さっきまで日比谷通りで国防と条約を論じていた男が、お気に入りの芸妓が来ただけで口髭を動かした。
台無しだ。
「どうぞ」
山本英輔が言った。
障子が開く。
一人の女性が入口に跪座した。
小夜。
濃い色の着物。
細かな柄。
髪には白い花。
深く頭を下げる。
声には、柔らかな京都の響きがあった。
「お待たせいたしました、山本大将」
顔を上げ、微笑む。
そして、少し体を横へずらした。
後ろを振り返る。
「後輩の千代も、ご挨拶をと思いまして」
その後ろから——。
もう一人、若い女性が姿を現した。
座敷へ入る。
跪座し、頭を下げる。
弦一郎は、その横顔を見た。
胸のどこかが——。
締まった。
意識してのことではない。
勝手にそうなった。
もう治ったと思っていた場所を、誰かに指先で押された。
そこがまだ傷だったのだと、初めて気づかされたような感覚だった。
女性が頭を上げた。
弦一郎の脳が停止した。
美緒。
その顔だった。
似ている、という程度ではない。
面影がある、でもない。
恋しすぎて幻覚を見たわけでもない。
美緒の顔。
顎の線。
眉の形。
目尻の角度。
全部。
完全に同じだった。
ただし——。
一九三〇年の着物を着ている。
畳の上に座っている。
そして、弦一郎の知っている顔でこちらを見ている。
脳が否定する。
違う。
あり得ない。
彼女のはずがない。
だが、その顔は二メートルも離れていない場所に存在していた。
消えない。
夢にもならない。
現実として、そこにある。
女性が口を開いた。
「千代と申します」
頭を下げる。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
——声が違う。
美緒ではない。
弦一郎の脳が、ようやく再起動を始めた。
熱暴走した機械を、無理やり再起動させるように。
声が違う。
抑揚が違う。
そして何より——。
あの礼の仕方。
頭を下げる角度。
体を小さくする仕草。
この時代の女として、長い時間をかけて身につけた動作だった。
美緒にはできない。
いや。
しない。
美緒は——。
自分を小さくしたことなど、一度もなかった。
千代が頭を上げた。
弦一郎は、その目を見た。
そこで——。
完全に違うと分かった。
美緒の目。
冷静で、真っ直ぐだった。
向かう先がある。
自分がどこへ行くのかを知っている。
誰の許可も必要としない、二十一世紀の女の目。
人を見るときも、正面から見る。
逃げない。
七年間愛してきた。
時には受け止めるのが辛いほどだった、あの確かさ。
千代の目には——。
それがない。
優しい。
慎重。
静か。
この時代に深く刻み込まれた、言葉にしにくい静けさがある。
だが——。
弱いわけでもない。
もっと深いところ。
外からは見えないところで、小さな火が燃えている。
そんな目だった。
同じ顔。
まったく違う魂。
弦一郎は固まった。
美緒が最後に振り返った姿が蘇る。
プラダのジャケット。
フェラーリのエンジン音。
清潔で、決然としていて、何の迷いもなかった後ろ姿。
中央防波堤。
ビール六本。
最後に頭の中にあったのは、レーダー報告書の結語。
白大根の転がった路地。
レンガ壁にもたれて——。
「本当に飛んだんだ」
そう言った。
あの瞬間。
美緒のことも、もう終わったと思った。
手放せたと思った。
違った。
何も終わっていなかった。
ただ底へ沈んでいただけだ。
深く。
静かに。
見えなくなっていただけ。
美緒の顔をした人間が現れる、その瞬間まで。
今——。
全部が浮かび上がってきた。
そのまま、自分を丸ごと沈めようとしていた。
パシッ。
後頭部に衝撃が走った。
痛いほどではない。
だが、十分だった。
山本英輔の手。
「発情したイモか、おはんは」
薩摩弁。
平然としている。
まるで当然の注意でもするように。
「早よ返礼せんか」
弦一郎は息を吸った。
深く。
空気を入れる。
庭の虫の声を聞く。
喉に残った菊正宗の辛さを感じる。
自分を——。
今、この場所へ戻す。
襟を整えた。
千代へ向き直る。
頭を下げる。
「海野弦一郎です」
一拍置いた。
「よろしくお願いします」
頭を下げたまま——。
二秒。
普通より長かった。
無礼というほどではない。
だが、この二秒が必要だった。
その二秒の間、考えていたのは美緒でも千代でもなかった。
もっと静かで。
もっと答えの出ない問いだった。
自分が愛していたのは——。
美緒という人間だったのか。
それとも。
美緒という——。
顔だったのか。
答えは出なかった。
弦一郎は頭を上げた。
千代がこちらを見ている。
美緒と同じ顔。
だが——。
美緒とはまったく違う目。
そこに、弦一郎にはまだ意味の読めない、小さな微笑みが浮かんでいた。
そのとき。
部屋の隅から——。
高橋是清の丸い笑い声が漏れた。
障子。
畳。
庭の虫の音。
その中へ、笑い声がゆっくりと広がっていく。
山本英輔は菊正宗を一口飲んだ。
口髭は微動だにしない。
猪口だけを見ていた。
何も言わなかった。
庭では——。
虫が鳴き続けていた。
※ ※ ※
——第五話 了——




