第四話 達磨起き上がり小法師
赤レンガ館の正面玄関。
午後四時半。
弦一郎は山本英輔の後について石段を上った。
衛兵がバッと直立不動になり、敬礼する。
山本英輔は軽くうなずいて中へ入り、弦一郎もその後に続いた。
大理石の床を踏んだ瞬間、弦一郎の足が半歩だけ止まった。
大理石そのものに驚いたわけではない。
足の裏から伝わってくる、硬く、冷たく、反響を伴う感触。
長門の鋼鉄甲板とも、横須賀の砕石路面ともまるで違う。
格式ばった場所でしか踏むことのない床だった。
顔を上げ、ホールを見渡した。
高い天井。
アーチ型の廊下。
レンガ色の壁には白い花崗岩の帯が走り、大きな洋風のアーチ窓から差し込む午後の陽光が、ホール全体を暖かな金色に染めていた。
頭上には、鹿角を使ったシャンデリア。
灯りは強くないが、十分だった。
その造形には、この時代特有の、装飾過多とも言えるほどの精緻さがあった。
西洋風のチーク材の扉。
扉枠には金の装飾。
廊下の突き当たりには白手袋をはめた衛兵が並び、直立したまま、まるで建物そのものの一部のように動かない。
弦一郎はゆっくりと視線を戻し、外を一瞥した。
隣には灰色の建物がある。
低く、四角く、窓も小さい。
壁は工場か倉庫にでも使いそうな灰色の仕上げで、まるで自分から縮こまったトーチカのように黙って佇んでいた。
陸軍省。
弦一郎は頭の中で二棟の建物を並べた。
それから、ふと思う。
この場所。
この住所。
二〇二六年には何になっている?
頭の中で検索する。
農林水産省。
帝国海軍省の建物に立ち、大理石を踏み、頭上には鹿角のシャンデリア。
周囲には白手袋の衛兵。
なのに頭に浮かんだのは——。
農林水産省。
マグロの争奪戦でも始まるのか。
弦一郎は心の中でため息をつき、山本英輔の後を追った。
※ ※ ※
廊下の突き当たりを左へ。
さらに右へ曲がる。
重厚なチーク材の扉を二枚くぐり、弦一郎は予想していなかった空間へ入った。
軍令部。
海自で見てきた作戦指揮室とは、まるで違った。
スクリーンがない。
プロジェクターもない。
光る端末もなければ、キーボードを叩く音もない。
データが空間を飛び交うような感覚もなかった。
代わりに、三つの部屋があった。
赤い標識。
青い標識。
そして——。
「統裁部」
弦一郎は廊下に立ち、半開きの扉から中を覗いた。
赤軍の部屋では、数人の参謀が大きな海図を囲んでいる。
海図の上には小さな艦艇模型。
金属製で、座標の引かれた海面の上に並べられていた。
傍らでは物差しとコンパスで距離を測る者がいる。
分厚い参照表をめくる者もいる。
そして——。
算盤を使っている者までいた。
算盤。
パチパチパチ、と珠を弾く音が廊下までかすかに漏れてくる。
弦一郎の脳が勝手に計算を始めた。
算盤で射撃諸元を計算した場合、コンピューター支援の射撃管制システムと比較して、情報遅延はどれほど生じる?
その間に目標艦は何メートル移動する?
実戦では、それが何を意味する?
——ボードゲームだ。
これは慣れてる。
そんな考えが浮かび、すぐに押し込めた。
山本英輔は青軍の部屋の前で一度立ち止まり、中を一瞥した。
それから向きを変え、統裁部へ歩いていく。
弦一郎は少し意外に思いながら、その後を追った。
山本英輔は統裁部へ入ると、壁際に立った。
両手を後ろに組む。
鷹のような目で部屋全体を一度見渡してから、弦一郎に言った。
「俺は参加せん。ただ見る」
説明ではない。
陳述だった。
そのまま立つ。
口髭は微動だにせず、背筋も伸びたまま。
まるでそこに一本の樹が生えたようだった。
弦一郎も隣に立ち、黙った。
統裁部の上官たちは顔を見合わせた。
一人が咳払いをする。
そして宣言した。
「兵棋演習、開始」
※ ※ ※
裁判役が物差しと計算尺を取り出した。
大海図の上で両軍の距離と相対角度を測る。
分厚い参照表を開き、天候、風速、視界を確認する。
数字が読み上げられた。
距離二万メートル。
主砲口径四十センチ。
基準命中率三パーセント。
そして——。
サイコロが取り出された。
現代でよく見る六面体ではない。
多面体だった。
弦一郎が、どこかのボードゲーム展示会で見たことがあるような、妙に馴染みのある形だ。
サイコロが裁判役の手の中で一度転がされ、海図の縁へ投げられる。
転がり、やがて止まった。
裁判役が数字を見る。
表を確認する。
「命中」
続いて被害判定。
再び表が開かれる。
「機関室。中破。速度半減」
青軍の参謀が海図上の艦艇模型を動かした。
弦一郎は、その一連の手順を見ていた。
物差し。
計算尺。
参照表。
サイコロ。
このシステムの論理は理解できる。
そして——。
限界も理解できる。
海図の上で数センチ動いた模型が表しているのは、何千トンもの鋼鉄だ。
何百人もの人命だ。
何時間にも及ぶ、本物の戦闘だ。
それを表から引き出した数字と、サイコロで決める。
弦一郎は黙って見続けた。
※ ※ ※
演習中盤。
赤軍の参謀が、通常とは少し違う動きを取り始めた。
側面からの包囲。
火力の分散。
青軍の反応時間を引き延ばす。
弦一郎はわずかに目を細めた。
賢い。
その瞬間だった。
統裁部の上官が眉をひそめた。
「米軍がそんな動き方をするわけがない」
赤軍の参謀の手が止まった。
顔を上げ、上官を見る。
「やり直し」
沈黙が落ちた。
赤軍の参謀はしばらく動かなかった。
やがて、海図上の模型を元の位置へ戻した。
弦一郎の視線が、その参謀の顔に一秒だけ留まった。
何も言わなかった。
演習は続いた。
※ ※ ※
それから——。
陸奥と山城の番が来た。
裁判役が距離を測る。
表を引く。
サイコロを投げる。
転がる。
止まる。
数字を確認する。
被害判定表を開く。
「撃沈と判定」
青軍の参謀が手を伸ばし、陸奥の模型を海図から取り上げた。
横に置く。
続いて山城。
同じ手順。
サイコロが転がり、止まった。
「撃沈と判定」
山城の模型も海図から消えた。
部屋が静かになった。
数秒後。
統裁部の上官が口を開いた。
「それは認めん」
弦一郎の眉が、わずかに動いた。
「我が海軍主力が、そう簡単に沈むわけがなかろう」
そして——。
「やり直しじゃ」
青軍の参謀が陸奥の模型を戻した。
山城も戻す。
まるで何も起きなかったかのように。
裁判役が新しいページを開く。
参謀たちは演習を続けた。
誰も何も言わない。
まるで、それが完全に合理的で、正常で、説明する必要さえないことであるかのように。
弦一郎は黙っていた。
だが——。
いつの間にか、右手が拳になっていた。
隣に立つ山本英輔は何も言わない。
口髭も動かなかった。
※ ※ ※
演習は、誰もが最初から知っている結論へ向かって進んでいった。
帝国海軍はいかなる条件下でも勝利できる。
条約は不必要な束縛である。
皇国の興廃此の一戦にあり。
その精神さえあれば、トン数の差など問題ではない。
統裁部の上官が立ち上がった。
そして結論を読み上げる。
「今次兵棋演習は証明した。ロンドン条約の制限トン数の下においても、皇国の興廃此の一戦にあり、大和魂と将兵の意志によって、西太平洋において決定的勝利を収めることが可能であると——」
弦一郎の口が動いた。
声は小さかった。
ほとんど独り言だった。
「こんな演習の仕方じゃ……帝国海軍は宇宙人の艦隊にだって勝てるな」
隣の山本英輔が、ほんの少しだけ顔を向けた。
鷹の目が弦一郎を捉える。
その奥で、何かが一瞬光った。
次の瞬間。
山本英輔の手が、弦一郎の背中を押した。
強くはない。
しかし方向は明確だった。
前へ。
「弦一郎」
声は大きくない。
だが、部屋中にはっきりと聞こえた。
「おはんがまとめろ」
弦一郎の足が半歩前へよろめいた。
そこで止まる。
全員の視線が向いた。
兵棋演習を続けていた参謀たち。
「やり直しじゃ」と命じた統裁部の上官。
まだ算盤と計算尺を持っている助手たち。
全員が——。
突然前へ押し出された、この少佐を見ていた。
弦一郎の頭が、その一秒だけ猛烈に回転した。
俺は誰だ。
ここはどこだ。
俺は何をしている。
一度、深く息を吸った。
統裁部の上官へ向き直る。
そして、自分でも驚くほど落ち着いた声で口を開いた。
「恐れながら……統裁部の長官方に、一つ伺いたいのですが」
一拍置いた。
「ただいまの長門は——」
部屋中の視線が、彼に集まる。
「いかなる海象の下、夜間三万メートルの距離において、百分の十の命中率を出すことができるのでしょうか」
音が消えた。
全員が、すぐにその意味を理解したわけではない。
しかし——。
理解した者から、顔色が変わっていった。
統裁部の上官の唇が動いた。
声は出なかった。
誰かが咳払いをした。
それから——。
沈黙。
弦一郎は、ただ立っていた。
挑発するような顔ではない。
皮肉でもない。
ただ答えを待っている。
真剣な技術将校の顔だった。
誰も答えなかった。
※ ※ ※
そのとき——。
部屋の隅で、ソファに座っていた人影が動いた。
弦一郎は、それまでその存在にまったく気づいていなかった。
丸かった。
太っている、というだけではない。
全身に丸みを帯びた質感がある。
顔も丸い。
腹も丸い。
ソファに座る姿勢まで丸い。
まるで達磨の起き上がり小法師が、部屋の隅にどっしり置かれていたようだった。
その老人が——。
笑った。
豪快に。
隠す気など微塵もない。
腹の底から突き上げてくるような笑い声だった。
しかし、その笑い声は意外にも丸かった。
尖っていない。
鋭くない。
丸く、厚みがある。
長い歳月に磨かれたような、言葉にしにくい質感を帯びていた。
その笑い声が、さっきまで粛然としていた統裁部を一周した。
誰も、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
弦一郎は老人を見る。
目が細くなるまで笑っている。
肩まで揺れている。
ソファの上で体全体がかすかに揺れ、本当に達磨の起き上がり小法師のようだった。
やがて老人は笑いを収めた。
そして立ち上がろうとした。
その動きには妙に真剣なものがあり、かえって笑いを誘いそうだった。
どう見ても重心が丸い方へ寄っている。
普通の人より少し余分に力を使って、ようやく立ち上がった。
服を整える。
それから、弦一郎の前まで歩いてきた。
何も言わない。
ただ——。
指で弦一郎を二度、指差した。
お前、覚えたぞ。
そう言っているようだった。
それから老人は向きを変え、山本英輔の方へ歩いていった。
「大甥っ子よ」
声まで丸かった。
まだ笑いの余韻が残っている。
「おじさんに付き合って一杯やらんか。ええ料亭があるんじゃ」
そして振り返る。
また弦一郎を指差した。
「坊主。おまえも来い」
山本英輔は何も言わなかった。
ただ——。
動いた。
扉へ向かって。
弦一郎はその場に立ち、二人の後ろ姿を見た。
丸々とした後ろ姿。
鉄棒のような後ろ姿。
どうやら、ついていくべきらしい。
弦一郎も後に続いた。
三人が扉へ向かう。
統裁部の上官の前を通り過ぎるとき、弦一郎は目の端でちらりとその顔を見た。
さっきまで結論を読み上げていた口は閉じている。
その顔には、簡単には言い表せない感情が混ざっていた。
怒り。
困惑。
衆人環視の中でやり込められ、それでも反論できない恥。
そして、もっと深く、もっと現実的なもの。
山本英輔。
連合艦隊司令長官。
高橋是清。
元総理。
どちらも——。
敵に回せない。
扉が閉まった。
廊下では、高橋是清が前を歩いている。
丸い後ろ姿。
歩き方は意外なほど安定していた。
笑いの余韻がまだ消えていないらしく、ときどき小さな笑い声が漏れる。
何か可笑しい考えが、まだ頭の中を転がり続けているようだった。
山本英輔がその隣を歩く。
口髭は微動だにしない。
弦一郎は二人の後ろについていった。
数歩歩いてから、ふと気づいた。
たった今。
自分が言った、あの一言。
あれが——。
元総理を笑わせた。
連合艦隊司令長官に背中を押させた。
統裁部を丸ごと黙らせた。
そして——。
酒に誘われた。
あの札を、切ったのだ。
※ ※ ※
——第四話 了——




