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第三話 ドドドド

新橋の通りは、まだそこにあった。


弦一郎は歩き続けた。


足の裏が砕石の路面を踏み、人の波が脇を流れ、右手を路面電車がチンチンと音を立てながら走り過ぎていく。


すべてはまだそこにあった。


だが、彼はもう何も見ていなかった。


レーダー報告書。


第三射撃管制システムのセンサードリフト。


結語がまだ書けていない。


明日が締め切り——。


違う。


明日じゃない。


あの報告書は二〇二六年の「いずも」の上にある。


もう戻れないかもしれない場所に。


それでも足は止まらなかった。


頭に浮かぶのは、あの老農民の目だった。


額が石畳に届きそうなほど深く頭を下げた、あの姿勢。


骨の底まで届くような恐怖。


膝が地面に当たったときの、鈍く重い音。


弦一郎は頭を振り、その光景を追い払おうとした。


だが消えなかった。


代わりに上山義雄の顔が浮かんだ。


「海野、正直に言えよ。どこの? 新橋か銀座か?」


あの軽々しい、まったく隠そうともしない、からかうような笑み。


士官次室に広がった笑い声。


閉鎖環境の中で、たまに訪れる気楽な空気。


それから、美緒。


彼女が言った言葉ではなく、去り際に見せた、あの振り返り。


プラダのジャケット。


フェラーリのエンジン音。


そして、遠ざかっていく後ろ姿。


清潔で、決然としていて、一切の迷いがなかった。


それだけだった。


七年間を、一度の振り返りで終わらせた。


弦一郎の足はまだ動いていた。


顔には何の表情も浮かんでいなかった。


通行人が脇を流れ、ときおり彼をちらりと見る者がいる。


軍服。


飾緒。


少佐の袖章。


それを認めると、彼らは頭を下げて道を譲った。


弦一郎は、それにも気づかなかった。


頭の中は煮えたぎる湯のようだったが、顔だけは冷たい石のようだった。


そのまま歩き続けた。


※  ※  ※


新橋の一角に入ると、路傍に七、八台のタクシーが並んでいた。


明るい黄色の車。


橙と黒の二色に塗り分けられた車。


八月の直射日光を受け、ボンネットのメッキが眩しい白光を放っている。


四角く背の高い車体が、地面に重い影を落としていた。


フォード・モデルA。


弦一郎の足が、わずかに遅くなった。


タクシーを拾おうとしたのではない。


目が先に反応したのだ。


あの車体のライン。


四角い輪郭。


博物館や古い映画でしか見たことのない造形が、今、目の前で生きている。


ガラスケースに収められた展示品ではない。


エンジンを回し、実際に人を運ぶ機械として。


次に匂いが来た。


キャブレター付近から漂う、濃いガソリンの臭気。


焼けた金属のような刺激を帯び、八月の熱気と混ざり合って、喉の奥を締めつけるような匂いを作り出していた。


エンジン音も、現代の車とはまるで違った。


ドドドド、と粗く響く。


現代のエンジンのような、低く均一な唸りではない。


ド、ド、ド、と一発一発がはっきりしている。


まるでトラクターのようで、まだ完全には洗練されていない機械が、どうにか動き続けているような音だった。


車体全体がエンジンのリズムに合わせてわずかに震え、熱気の中で生き物のように息づいていた。


弦一郎は、その場で二秒ほど眺めた。


やがて、運転手たちがこちらに気づいたのが分かった。


連鎖反応だった。


一番近くの運転手が最初に気づき、次に二台目、三台目へと続いていく。


まるで無言の信号が列の中を伝わったかのように、すべての運転手が動き始めた。


動き方は、ほとんど同じだった。


アクセルをそっと踏む。


クラッチをゆっくりとつなぐ。


そして車を、少しずつ弦一郎の方へ寄せてくる。


突っ込んでくるわけではない。


ただ、寄せる。


驚かせたくはない。


しかし、ほかの車に先を越されたくもない。


そんな意図が透けて見えた。


ドアの位置を弦一郎に合わせるように車を寄せ、運転手は窓から上半身を乗り出した。


それでも両手は、死んでも離すものかというようにハンドルを握っている。


顔には、弦一郎がこれまで見た中でも屈指の、へつらうような笑みが浮かんでいた。


歪んでいた。


痛々しいほど必死に作られた笑顔だった。


視線が軍服から飾緒、そして袖章へと、上から下まで走る。


その目の中には、弦一郎が見過ごせないものがあった。


サービス業の型通りの愛想ではない。


本物の——。


少し絶望を帯びた、懇願だった。


大恐慌。


その言葉が頭をよぎった。


すると、あの笑顔の意味が突然分かった。


あれは接客用の表情ではない。


最も厳しい時代に、自分と家族を養おうとしている男が、軍服を着た客を目の前にした瞬間、絞り出せるすべてだった。


弦一郎は一番近い車に歩み寄り、ドアを開けて乗り込んだ。


「新橋駅まで」


運転手が振り返った。


その顔いっぱいに広がった感謝が、弦一郎を溺れさせそうだった。


「へい、少佐どの! しっかり掴まっていてください、すぐ出ます!」


ドアが閉まった。


※  ※  ※


車内にエアコンはなかった。


当然だ。


八月の真昼。


密閉された車内。


弦一郎は後部座席に座り、自分がゆっくりと蒸されていくのを感じた。


まず来るのは熱気だった。


その次が匂いだ。


キャブレターから漂うガソリン臭が、どこかの隙間から車内へ染み込んでくる。


それが古い皮革の匂いと混ざっていた。


現代の車のシートに使われる加工された合皮とは違う。


粗く、どこか動物そのものの気配を残した古い革。


座ると硬く、体には馴染まない。


表面には長年使われ続けたことで生まれた、不均一な艶があった。


そこに煙草の匂いも混じっている。


運転手の胸ポケットには「敷島」が一箱差し込まれていた。


現代のフィルター付き煙草のような軽さはない。


もっと直接的で、鼻を刺すような煙草臭が、車内のあらゆる隙間に染みついていた。


ドドドド。


エンジンは同じ歌を繰り返している。


車体全体が震え、砕石の路面がさらに不規則な揺れを加えた。


一度跳ねる。


また跳ねる。


弦一郎の背中は、そのたびに座席へ軽く打ちつけられた。


ガソリン蒸し器。


心の中で、この車に対してひどく正確な定義を下した。


そして、今は考えたくないことから逃げるように、意識を車へ向けた。


フォード・モデルA。


一九二八年から三一年にかけて製造。


排気量三・三リットルの四気筒エンジン。


定格出力四十馬力。


どこかで読んだだけの数字が、今、この車に乗ったことで初めて質感を持った。


四十馬力。


「いずも」のガスタービン主機の出力は、ほぼ十万馬力。


目をつむっていても言える数字だった。


それが彼の仕事だったからだ。


毎日、整備スケジュールと可動率の数字を相手にしてきた。


四十馬力と十万馬力。


その距離の真ん中に、今、自分は座っている。


ドドドド。


弦一郎は耳を澄ませ、エンジン音のリズムから何かを読み取ろうとした。


点火間隔が均一ではない。


おそらく一番か三番シリンダーのプラグにカーボンが溜まっている。


あるいは、キャブレターの混合比がずれている。


この気温なら、燃料過多にもなりやすい。


燃焼が不完全になる。


だからガソリン臭が強い。


だからドドドドであって、均一な唸りにはならない。


大した問題ではない。


プラグを交換し、キャブレターのアイドル調整ニードルを少し絞れば改善するはずだ。


そんなことを考えている自分に気づいた。


そして、それがほんの少し、自分を落ち着かせていることにも気づいた。


この車のエンジンを、本気で心配しているわけではない。


技術的な問題は、自分の知っている言葉だからだ。


二〇二六年でも、一九三〇年でも、エンジンの問題はエンジンの問題だ。


症状がある。


原因がある。


解決策がある。


すっきりしていて、確かだった。


今、直面しているほかのすべてとは違う。


運転手は前で鼻歌を歌っていた。


曲と呼べるほど形になってはいない。


鼻歌を続けながらハンドルを少し左へ切り、前方の人力車を避けて、またまっすぐ進んでいく。


弦一郎は窓にもたれた。


窓の外の通りが、目の前を流れていく。


そして、あのドドドドというリズムに、今は考えたくないものが入り込む余地を、一時だけ埋めてもらった。


※  ※  ※


新橋駅に着いた。


弦一郎は布製の古い財布を取り出し、中を開いた。


一円紙幣を一枚抜き、運転手に渡した。


運転手はそれを受け取った。


すると、先ほどまでのへつらうような笑みが、本物の安堵と感謝へと変わった。


「ありがとうございます、少佐どの! お気をつけて!」


弦一郎は車を降りた。


新橋駅の入口に立ち、あのフォードのドドドドという音が遠ざかっていくのを聞いた。


熱気はまだそこにあった。


軍帽を整え、駅の中へ歩いていった。


※  ※  ※


横須賀軍港の正門。


午後四時。


衛兵が敬礼した。


弦一郎はうなずき、そのまま中へ入った。


足取りはほとんど自動的だった。


頭はまだ完全には戻っていない。


「さっき何が起きたのか」と「これからどうするのか」の間を、意識だけが漂っていた。


そのとき——。


正面から歩いてくる人物が見えた。


弦一郎の足が止まった。


止めようとしたのではない。


体の方が先に止まった。


その人物は、五十代ほどに見えた。


体は引き締まり、背筋は鉄棒のようにまっすぐ伸びている。


歩き方には、弦一郎にはうまく言葉にできない、骨の底から滲み出るような威圧感があった。


訓練で身につけた、意識的な直立ではない。


もっと深いところから来るものだった。


この男の背骨は、生まれてから一度も曲がったことがないのではないか。


規則だから背筋を伸ばしているのではない。


そもそも曲げるという発想そのものがないように見えた。


一歩一歩が確かだった。


迷いがない。


弦一郎は海自で何年も過ごし、上級将校を何人も見てきた。


歩き方は、人によって違った。


意識して姿勢を正している人。


習慣的に力を抜いている人。


常に次の命令を考えながら歩いているような人。


だが、目の前の人物は違った。


この男は、一歩一歩を最後の決断のように踏み出していた。


退路はない。


そして、退路など必要ともしていない。


顔は古銅色だった。


輪郭がはっきりしている。


頬骨が高く、顎の線は硬い。


口髭はきれいに整えられ、上唇には古い写真でしか見たことのない、あの時代特有の形が残されていた。


そして目。


弦一郎の視線が、その目に少しだけ止まった。


鷹の目。


比喩ではなかった。


本当に捕食者に狙われたような感覚を覚える目だった。


冷静で、鋭く、こちらを貫く。


数え切れないほどの生死の場面で磨かれ、人も物事も本質だけを見るようになった、そんな直接さがあった。


その視線が自分へ向いた瞬間、弦一郎は奇妙な感覚を覚えた。


自分の中にある偽りも、不確かさも、その視線の前では隠しようがなく、一目で見抜かれてしまうような感覚だった。


それから視線を下げた。


肩章。


中将。


星二つ。


脳が照合を終えるまでに、一秒かかった。


山本英輔。


連合艦隊司令長官。


日露戦争の古兵。


海軍航空の発展を推進してきた人物。


対馬海峡からこの一九三〇年八月までを、生き抜いてきた男。


その本人が今、横須賀軍港の午後の陽光の中に立ち、あの鷹の目でこちらを見ていた。


次に何をすべきか考える暇もなく、薩摩訛りの声が頭上から降ってきた。


「海野! どこへ行っとったんじゃ、このバカタレが!」


弦一郎は反射的に直立不動になった。


「何度言うたか分からんぞ。上山の真似をして芸妓遊びに行くな、体に毒じゃ。何度言うても聞かんのか、おはんは!」


山本英輔は目の前で立ち止まった。


鷹のような目が、上から下まで一度だけ弦一郎を走査した。


この部下が戻ってきたとき、何かおかしなところがないか確かめるように。


視線は直接的で、愛想など一切なかった。


ただ見る。


ただ確かめる。


やがて口髭がかすかに動き、口には出さない何かの判断を下したようだった。


弦一郎はその場で背筋を伸ばしたまま、この場面にふさわしいと思われる表情を保った。


その一方で——。


頭の中の、本来なら目の前の海軍中将に百パーセント集中すべき場所へ、どうしても抑えられない考えが浮かんできた。


どう見ても渋いおじさまなのに。


彫りの深い顔。


引き締まった体。


あの背筋。


あの目。


歩き方。


話すときの手の位置。


骨の底から滲み出る、演じる必要さえない威圧感。


そこに立って何も言わなくても、存在しているだけで絵になる。


なのに、口を開くと——。


薩摩弁。


「バカタレ」


「どこへ行っとったんじゃ」


台無しだ。


弦一郎は心の中でそっとため息をつきながらも、直立不動の姿勢は崩さなかった。


「長官、東京へ私用の買い物に参りました」


「買い物」


山本英輔は、その二文字を繰り返した。


まったく信じていない。


そう言っているのと同じ口調だった。


その目が弦一郎の顔に留まり、ほんの一秒だけ長く止まった。


何かを見極めようとしているようだった。


「上山と一緒か?」


「いいえ。上山少佐は別の用がございまして、自分は一人で——」


「もういい」


山本英輔は手を振った。


右手のその動作には、薩摩男らしい、苛立ってはいるが本気で怒っているわけではない豪快さがあった。


まるで空気の中から、これ以上続けたくない話題そのものを払い散らすようだった。


「ついて来い。海軍部、兵棋演習じゃ」


返事を待つこともなく、もう向きを変えて歩き始めている。


大将というのは、こういうものなのか。


その背中についていきながら、弦一郎は思った。


返事を待たない。


なぜなら、返事は最初から決まっているからだ。


これは招待ではない。


命令だ。


ただ、招待に似た口調を使っているだけだ。


二歩ほど進んだところで、山本英輔が口を開いた。


「あん売国の外交官どもが」


声は大きくなかった。


だが一言一言がはっきりしていて、抑え込まれた、いつ爆発してもおかしくない怒りを帯びていた。


ずっと燃え続けていた火に、突然風が吹き込んだようだった。


「よくもロンドンでああいう条約に判を押して帰ってきよったもんじゃ。七生報国、一発入魂じゃと? 笑わせるな。行くぞ海野、海軍部じゃ。兵棋演習で奴らの糞を全部押し出してやる」


「糞」と言った瞬間、右手が横へ大きく振られた。


怒りが高まるにつれて体まで自然に動く。


そんな薩摩男らしい直接さだった。


弦一郎は黙ってその後ろについて歩いた。


薩摩訛りの怒声を聞きながら、その背中を見る。


日露戦争からこの一九三〇年まで、一度も曲がったことのないような背筋。


そして——。


ロンドン海軍条約の兵棋演習。


その言葉が頭の中へ落ちた瞬間、背筋が冷えた。


恐怖ではない。


あることに突然気づいたからだった。


この兵棋演習を知っている。


聞いたことがある、という程度ではない。


学んだのだ。


もう戻れない二〇二六年の、どこかの教室で。


この歴史をケーススタディとして読んだことがある。


かなり丁寧に。


試験に出るから。


あの数字を知っている。


論点も知っている。


艦隊派がどんな論理で条約を攻撃するのかも。


条約派がどう反論すべきなのかも。


そして、正しい答えが何だったのかも知っている。


山本英輔の後ろを歩く。


横須賀軍港の午後の陽光が横から差し込み、二人の影を長く伸ばしていた。


そのとき——。


さっきまでレーダー報告書と、美緒の振り返りと、老農民の目を抱えていた頭が、突然ひどく冷静になった。


澄みきるほどに集中した。


そして、これまで一度も考えたことのなかった問いへ、意識が焦点を合わせた。


俺には、一枚札がある。


※  ※  ※


——第三話 了——

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