第二話 白大根
「報告、海野少佐殿——」
水兵は水を差し出すと同時に、バッと直立不動の姿勢をとった。
背筋を伸ばし、弦一郎の顔のどこか一点に視線を固定する。そして、まるで重要な命令を暗唱するかのように、一言一言はっきりと言った。
「本日は昭和五年、八月十五日であります!」
海野弦一郎はコップを受け取り、一口飲んだ。
冷たい。ただの水で、何の味もしなかった。
その直後、心臓がひとつ大きく跳ねた。
彼はコップを置き、両手で顔を覆った。指の隙間から覗く目は虚ろだった。
昭和五年八月十五日。
脳みそが、その日付に三秒ほど引っかかった。
八月十五日といえば、終戦の日だ。
玉音放送。
小学四年生の歴史の授業で、その録音の文字起こしを読んだことがある。
昭和天皇が、雑音を通して届く声で終戦の詔書を読み上げ、全国の人々がラジオの前でそれを聞いた——。
弦一郎はゆっくりと顔から手を離し、まだ不動の姿勢を保っている若い水兵を見た。
長門艦上で玉音放送を聞くつもりか、俺は。
いや、それは一九四五年の話だ。
今は一九三〇年。あと十五年ある。
水兵はしばらく待っていた。
しかし、少佐からその後の指示がないと分かると、困惑した表情を浮かべ、少し身を傾けて声を低くした。
言うべきかどうか迷うような口調だった。
「少佐殿……このままだと、第一士官次室のカレーの時間が終わってしまいますが」
弦一郎は彼を二秒ほど見つめた。
それから立ち上がり、軍服を整えて言った。
「行こう」
※ ※ ※
匂いが先に来た。
士官次室の扉が見える前から、弦一郎はもうそれを嗅いでいた。
どこからかカレーの香りが漂ってくる。
濃く、牛脂の重みとスパイスの辛みを帯び、その奥には、すぐには言い表せない何かの底味があった。
艦内特有の機械油と鉄の匂いに混じり、不釣り合いなはずなのに妙に馴染んだ香りになっていた。
水兵の後について廊下を歩くと、足音が反響した。
そして第一士官次室に踏み込んだ瞬間、足の裏の感触が変わった。
弦一郎は思わず半歩だけ足を止めた。
意識してのことではない。体が勝手に反応したのだ。
甲板なら鋼板で、硬く冷たく、かすかな振動があるはずだった。
だが今、足の下にあるのは絨毯だった。
厚く、弾力があり、どこか格式ばった場所でしか感じないような、改まった感触がある。
下を向いて一瞥すると、濃い色の絨毯には幾何学模様が入り、縁には細い金の縁取りが施されていた。
きちんと手入れされており、目立った摩耗もない。
顔を上げ、部屋を見渡した。
広くはないが、よく整頓されている。
長テーブルが壁に沿って並び、その上には真白なテーブルクロスが敷かれていた。
きれいにアイロンがかけられ、角までまっすぐに整えられている。
テーブルの食器が目に入った。
弦一郎は数歩近づいて見た。
ボーンチャイナの皿だった。
白地に、細い海軍ネイビーブルーの縁取り。
半透明で、廊下の灯りにかざせば光を通しそうだった。
スプーンは銀メッキ。
手に持つとずっしりと重く、裏面には読み取れない刻印がある。
弦一郎は心の中でつぶやいた。
ここは軍艦か、帝国ホテルか。
すでに着席していた数人の将校がちらりと彼を見たが、すぐに視線を戻して食事を続けた。
弦一郎は窓際の席を見つけて座り、軍帽を横に置いて襟を直した。
やがて、給仕兵がお盆を持って入ってきた。
白い制服は糊がきいてぴしりとしており、襟も袖口もきれいな直線を描いている。
狭い空間で長く働くうちに身についたのだろう、場所を取らない軽やかな歩き方だった。
給仕兵はお盆をテーブルの端に置き、順番に食器を並べていった。
まず、カレーライス。
麦飯の香りが先に来た。
純粋な白米の甘みとは違う、麦特有の素朴な香りだった。
弦一郎はいずもでも食べたことがあったが、もうずいぶん長いこと、その味を思い出していなかった。
次にカレーソース。
深褐色で、濃厚だった。
牛脂と小麦粉を手で炒め、時間をかけて煮込んだような質感がある。
市販のルーの均一な滑らかさとは違い、わずかな粒感が残り、表面には油の光沢が浮いていた。
その下には、大きなジャガイモと牛肉のかたまり。
色は濃く、明らかに長時間煮込まれている。
横には福神漬け。
赤、橙、黄色の細かな具材が並び、色が鮮やかすぎて少し非現実的にさえ見えた。
それからミルク。
グラスの表面には水滴がつき、触れれば冷たいことが分かった。
最後に給仕兵が小皿を運んできた。
サラダと、バナナが一本。
弦一郎は目の前に並んだ一卓を見て、しばらく黙った。
海軍規定の冷たいミルク一杯。
そのことは知っていた。
カルシウムの補給と、辛みを和らげるため。
帝国海軍が定めた食事基準の一部だった。
海自の講習で読んだことがある。
当時は特に気にも留めず、歴史上のちょっとした脚注として覚えていただけだった。
今、そのグラスが目の前にある。
表面についた水滴が、ゆっくりとガラスを伝って落ちていった。
弦一郎はスプーンを取り、カレーをかき混ぜた。
そこで手が止まった。
器の縁に顔を近づけ、一息吸い込む。
コーヒー。
カレーの中に、コーヒーの香りが混じっていた。
ほのかで、あるかなきかという程度だった。
しかし、鼻は間違えなかった。
深煎りしたコーヒー豆のほろ苦さがカレーのスパイスに絡み合い、うまく言葉にはできないが、妙に馴染みのある余韻を作り出していた。
スプーンで一口すくい、ゆっくりと口に運んだ。
まず、カレーソースの濃厚さが来る。
牛脂の旨みと、スパイスの辛み。
そのあとを追うように、麦飯が口の中でほぐれ、素朴な甘みが広がった。
そして最後に——コーヒー。
苦く、軽く、遠いこだまのように、すべての味の一番底に潜んでいた。
「……長門のカレー、コーヒー粉を入れてるのか?」
声に出していたことに、自分でも気づいていなかった。
隣の将校が顔を上げた。
当然だろう、とでも言いたげな、それでいて少し「今日どうした」という表情だった。
「そうだよ、うちの艦の伝統だろ。海野、どれだけ食べてまだ知らないんだ?」
弦一郎は彼を見た。
頭の中で素早く考える。
この人は自分を知っている。
正確には、この体の元の持ち主を知っている。
「海野」と呼んでいる。
「少佐」ではなく、私的な場での呼び方だ。
少なくとも、二人がある程度親しいことは分かった。
「……昨夜、あまり眠れなくて」
弦一郎はそう言った。
「頭がまだ回っていない」
その将校は首を振って少し笑い、また下を向いて食事を続けた。
弦一郎はもう一度カレーを見た。
いずもで何度カレーを食べたか分からない。
毎週金曜日、欠かさず。
いずものレシピは長門とは違う。
それでも、どこか底に共通するものがあった。
波に揺られながら、鉄の廊下の向こうで、同じ制服を着た人々に囲まれて食べる。
その感覚だけは、同じだった。
もう一口すくい、コーヒーの余韻を舌の根で少し味わった。
九十六年。
同じカレー。
同じ伝統。
ここから彼の時代まで受け継がれ、その間には、彼が阻止しようとしている戦争さえ横たわっている。
弦一郎はその一口を飲み込み、冷たいミルクを手に取った。
乳脂肪の甘みが、舌先に残った辛みを少し和らげる。
グラスをテーブルに戻し、何も言わなかった。
※ ※ ※
「上山! 昨日言ってた料亭、どこだ?」
斜め向かいから声が聞こえた。
声量は小さくない。
閉鎖空間で長く暮らしているうちに、自然と身についたような気安さがあった。
弦一郎は目を上げ、声の方向を見た。
話しているのは中尉だった。
その向かいには、弦一郎と同じくらいの年齢の少佐が座っている。
細身で、顔の輪郭がはっきりしていた。
鼻筋が通り、顎の線が鋭い。
今は茶碗を持ち、自信ありげな表情で答えていた。
「新橋の方だよ。二ヶ月前に予約して、今夜やっと番が来た」
「芸妓か?」
「当たり前だろ。料亭に行って芸妓を呼ばなきゃ、何のために行く」
その少佐——上山義雄は茶碗を置き、声を低めた。
もっとも、それほど低くはなかった。
「今度のお小菊は京都から来たって聞いたぞ。三味線が上手くて、顔も……」
少し間を置き、目の端で周囲をさっと見渡す。
「いい」
「上山少佐」
隣で誰かが軽く咳払いした。
一応の注意らしい。
上山義雄は気にせず手を振り、カレーを食べ続けた。
「言ったことは事実なのに、何が問題だ」とでも言いたげな平然とした顔だった。
弦一郎は下を向き、スプーンでカレーをゆっくりとかき混ぜながら二秒ほど考えた。
それから口を開いた。
「上山、今夜何時に上京する?」
上山義雄は顔を上げた。
少し意外そうに弦一郎を見たあと、何か合点がいったらしく、男同士のからかうような笑みを浮かべた。
「何でそんなこと聞くんだ、海野?」
「買い物がしたい」
「買い物?」
上山義雄はゆっくりと繰り返した。
それから中尉の方を向く。
「聞いたか、買い物だってよ」
中尉は笑いながら下を向き、ご飯をかき込んだ。肩が少し揺れている。
「海野、正直に言えよ。どこの? 新橋か銀座か? 心当たりが何軒かあるぞ。紹介しようか」
「買い物は買い物だ」
「はいはい」
上山義雄は手を振った。
まったく信じていない様子で、口角を上げている。
「俺の車に乗っていい。ただし待たないからな。何時に出てくるかは自分で何とかしろ」
弦一郎はうなずき、また下を向いてカレーを食べ続けた。
周囲の何人かが笑い出した。
意味深長で、それでいて閉鎖環境にたまに訪れる気楽な笑い声が士官次室に広がり、やがて消えた。
弦一郎は鼻で笑い、説明もせず、バナナの皮をむいて一口かじった。
甘い。
一九三〇年のバナナも、二〇二六年のバナナも、同じ甘さだった。
※ ※ ※
午後二時。
弦一郎は長門の舷側に立ち、当直衛兵に報告を済ませてから、舷梯の方へ歩いた。
舷梯は鉄製で幅が狭く、両側には手綱が渡されていた。
踏み込むと頼りない弾力があり、一歩ごとに金属がかすかに震えた。
手綱を握り、一歩ずつ下りていく。
横須賀湾から海風が吹きつけ、塩と燃料油の匂いを運んできた。
八月の太陽が横から差し込み、海面を白く輝かせていた。
公務内火艇が下で待っていた。
小型の蒸気艇だった。
船体は濃いグレーで、ところどころ塗装が剥げている。
艇には水兵が二人いた。
一人は後方で舵を握り、もう一人は艇首に立って、下りてくる弦一郎を見ていた。
表情は職業的な無表情だった。
弦一郎は艇に乗り込んで艙内に腰を下ろし、軍帽を押さえた。
「出発」
エンジン音が鈍く響き始めた。
低く、規則的な振動。
ドドド、と腹に響く。
燃料が燃える匂いが艇尾から漂い出し、内火艇はゆっくりと長門の舷側から離れた。
海面に白い航跡を引きながら、横須賀の軍用埠頭へ向かっていく。
弦一郎は振り返った。
長門は横須賀湾の錨地中央に錨泊していた。
三万二千トンの艦体が、そこに静かに存在している。
高い艦橋が青空の中にくっきりと浮かび上がり、主砲の砲身が陽光の下で冷たい光を放っていた。
舷側の鋼板は濃いグレーで、沈黙しているだけなのに、重圧的な存在感があった。
艦の上から外を見るのと、外から艦を見るのとでは、まったく違う。
その輪郭を眺めていると、頭から振り払えない考えが浮かんだ。
一九四六年七月、ビキニ環礁。
米軍の核実験、クロスロード作戦。
長門は標的艦の一隻に選ばれた。
七月一日のエイブル実験は空中爆発。
長門は生き残った。
そして七月二十五日のベーカー実験。
水中爆発。
長門は大きな損傷を受けた。
それでもすぐには沈まなかった。
数日間持ちこたえた末、七月二十九日の未明、誰にも看取られることなく静かに沈んだ。
沈んだとき、甲板には誰もいなかった。
葬儀もなく、儀式もなく、最後に転覆した瞬間がどんなものだったかを記した者もいない。
弦一郎はしばらく、その艦影を見つめた。
八月の陽光の中で、長門は静かに停泊している。
舷側の鋼板が光の加減で、ほとんど優しささえ感じさせるような濃いグレーに見えた。
やがて弦一郎は前を向き、内火艇の進む方向を見た。
ドドド、とエンジンが鳴り続ける。
海面は穏やかだった。
白い航跡が艇の後ろに広がり、すぐに波へ溶けていった。
※ ※ ※
上山義雄の車が、新橋駅の近くで弦一郎を降ろした。
車窓が下がり、意味深長な笑顔が覗く。
「夜は待たないからな」
「待たないって言っただろ」
上山義雄はすでに襟を直していた。
心はもう、小菊と名のつく芸妓のところへ飛んでいるらしい。
「気をつけろよ、海野。迷子になるなよ」
車は走り去った。
弦一郎は路傍に立ち、その車が角を曲がって消えるのを見送った。
それから振り返る。
一九三〇年八月の東京。
午後二時、新橋。
弦一郎はそこに立ったまま、まず何もせずに街の音を受け入れた。
自分の知っている東京の音ではなかった。
地下鉄放送の穏やかな女声もなければ、コンビニのドアの電子音もない。
イヤホンから漏れる音楽も、スマートフォンの振動音もない。
代わりに聞こえるのは、路面電車のチンチンという音だった。
右手の通りをゆっくりと走り過ぎ、鉄輪がレールに擦れる音は、想像していたより大きく、生々しい。
人力車夫の掛け声も聞こえる。
短く、力強く、喉の奥から絞り出すような声だ。
道端のどこかの店からはラジオ放送が流れていた。
雑音交じりで、何を言っているのかすぐには聞き取れない。
さらに遠くからは、かすかな三味線の音が聞こえた。
半開きの窓から漏れてくるような、細い音だった。
弦一郎はゆっくりと前へ歩き始めた。
街の人は想像より多く、そして想像していた以上に西洋化されていた。
一九三〇年の東京といえば、和服の世界だと思っていた。
しかし、数歩歩いただけで、その考えが違っていたと分かった。
もちろん和服はある。
たくさんある。
だが洋服も少なくなかった。
しかも特別な場で着るものではなく、日常着として着られている。
男性のほぼ半分はスーツ姿だった。
帽子は丸いものか、つばの広いもの。
型は古い写真で見たものと同じだ。
肩線が低く、襟が細く、生地も重そうだった。
だが着ている本人たちには自然で、決して衣装には見えない。
それから女性。
角で足を止めると、前を二人の女性が並んで歩いていた。
一人は和服姿。
濃紺の地に、白い細かな模様。
博物館の写真で見たことのある髪型に結い、歩き方も、幼いころからそうしてきたかのように歩幅が小さく端正だった。
もう一人は洋装だった。
クリーム色の服に、濃い色の薄手の上着。
スカートの裾はふくらはぎの中ほどまで伸び、髪は短く切られている。
ボブカットの弧が耳たぶに沿い、耳には小さなイヤリング。
歩幅は隣の和服姿の女性のほぼ二倍あった。
モガ。
Modern Girlの略。
昭和初期の東京についての本で、その言葉を読んだことがある。
だが、読むのと実際に見るのとではまるで違った。
彼女は、その時代のモダンそのものだった。
生きている。
一九三〇年八月の新橋を、その時代にしかない自信をまとって歩いている。
弦一郎は彼女が遠ざかるのを見送ってから、また前へ進んだ。
看板は手描きだった。
字体は丸くふっくらとしており、色は鮮やかすぎて少し非現実的にさえ見える。
仁丹。
朝日ビール。
どこかのデパートの夏の大売出し。
大きな映画広告もあった。
ポスターの女優が、サイレント映画時代の宣材写真で見たような誇張された美しい表情で、通りの人々を見下ろしている。
車も走っているが、数は少ない。
どれも丸みを帯びた旧式の車体で、ライトが大きな目のように見えた。
エンジン音は現代の車より大きく、排気ガスの匂いも違う。
より刺激が強かった。
道路には砕石が敷かれ、完全な舗装ではない。
歩くたびに、足の裏へ伝わる感触が二〇二六年の歩道とは違った。
角には新聞を売る少年が立ち、今日の見出しを叫んでいた。
弦一郎は数歩近づき、紙面を一瞥した。
昭和五年八月十五日。
足が少し止まった。
今日は一九三〇年八月十五日。
その日付に、また目が二秒ほど留まる。
そして自動的に、一九四五年の同じ日へ意識が飛んだ。
玉音放送。
終戦。
弦一郎は意識を引き戻し、紙面から目を離して再び歩き始めた。
あの一九四五年八月十五日まで、まだ十五年ある。
その数字をしばらく頭の中に置いてから、静かに沈めた。
※ ※ ※
どこへ行くかは決めていなかった。
買い物がしたいと言ったものの、特に欲しいものがあるわけではない。
ポケットの中の布製の古い財布には紙幣と硬貨が入っていた。
おそらく、この身体の元の持ち主の財産だろう。
金は足りると思う。
だが何を買えばいいのかも、この身分の人間が普段どこで買い物をするのかも分からなかった。
ただ、歩く必要があった。
自分の足でこの街の地面を踏み、自分の目で隅々を見て、自分の肺でこの時代の空気を吸う。
軽油の排気。
炭火。
人混みの汗。
どこかの店から漏れてくる揚げ物の香り。
そしてもう一つ、言葉にならない、木材と石炭の灰が混じったような、この時代特有の底の匂い。
それが必要だった。
自分の体に、これは現実だと教える必要があった。
脳が「仕掛けられたドッキリ」と「極めてリアルな幻覚」の間を、いつまでも揺れ続けないために。
西洋雑貨店の前を通った。
ショーウィンドウには、形は分かるがブランドの分からないガラス瓶の香水がいくつか並んでいる。
クリーム色の女性用手袋が、小さな木の台に飾られていた。
漢方薬の老舗の前も通った。
入口には乾燥した薬草の束が吊るされ、半開きの扉の隙間から匂いが染み出してくる。
苦く、古く、乾いた草木の匂いだった。
焼き芋売りの前を通ると、炭火の熱気とともに、焼き芋の甘く焦げた香りが顔に当たった。
記憶の中の秋祭りの匂い。
それが八月の東京に現れたものだから、思わず歩みが少し遅くなった。
そのとき、鈍い音が聞こえた。
振り返る。
木製の手押し車が、道端に転倒していた。
右斜め前、十歩ほど先。
車輪を上にして倒れ、白い大根が地面いっぱいに転がっている。
大きいものも、小さいものもある。
排水溝の縁まで転がったものもあれば、通行人の足元まで来たものもあった。
人々はそれを避けて歩いた。
眉をひそめて一瞥し、そのまま前へ進む者もいる。
洋装の女性が小さく驚きの声を上げたが、すぐに足を速めて去っていった。
車を押していたのは、年老いた農民だった。
背中が曲がり、顔には深い皺が刻まれている。
手は長年の労働で荒れ、関節が大きく膨らんでいた。
爪には、落としきれていない土が残っている。
老人は地面にひざまずき、散らばった大根を慌てて拾い集めようとしていた。
だが手押し車は、まだ横倒しのままだ。
一人では起こせないのだろう。
一本拾うたびに、また別の一本が遠くへ転がっていった。
弦一郎は歩み寄った。
しゃがみ込み、手押し車の柄を掴む。
力を込めて起こした。
重かった。
木製の車体と、まだ中に残っている大根の重み。
予想していたより、ずっと重い。
それでも力を入れると、手押し車はゆっくりと起き上がった。
車輪が地面に落ち、ようやく安定する。
弦一郎は振り返った。
「大丈夫ですよ。気をつけて」
そう言おうとした。
だが、その言葉は出なかった。
老農民が、彼の前に土下座していた。
さっきまで手押し車が倒れたため、地面で大根を拾っていた姿勢とは違う。
きちんと正座していた。
両膝を地につけ、両手を膝の前に置き、深く前へ身を傾けている。
額は、弦一郎の足元へ向いていた。
声が震えていた。
弦一郎がこれまでの人生で一度も聞いたことのない、本物の恐怖だった。
骨の底まで届くような恐怖が、その声に込められている。
「お、お奉行様……いや、お国の大使様、お許しを! あっしは滅相もない、わざとじゃございやせん……車が、このポンコツが急に動かなくなっちまって、お大人の行く手を阻んじまいました……どうか、どうかお命ばかりは……お許しを!」
弦一郎は固まった。
石畳にひざまずく老人を見た。
丸まった背中。
恐怖でかすかに震える肩。
額が地面まであと数センチという姿勢。
何と言えばいいのか分からなかった。
いや、何を言うべきかは分かっていた。
この老人を立ち上がらせるべきだ。
それは分かっていた。
だがその瞬間、体が凍りついて動かなかった。
目の前の光景を処理できなかったのではない。
むしろ、理解しすぎていた。
だからこそ、体が反応するまで少し時間が必要だった。
周囲の人々が立ち止まり、こちらを見ていた。
視線を感じた。
彼らが見ているのは、老農民ではない。
弦一郎だった。
彼が何を言うのかを待っている。
何をするのかを待っている。
帝国海軍少佐の軍服を着て、左胸に飾緒をかけた将校が、行く手を遮った農民にどんな裁きを下すのか。
弦一郎はそこに立ったまま、二秒ほど黙った。
その二秒は、これまでの人生のどんな二秒より長かった。
やがて手を伸ばし、老農民の腕を掴んだ。
そっと支えるのではない。
確かな力で、有無を言わせない強さで、その体を地面から引き起こした。
「立て」
声は、自分で思っていたより落ち着いていた。
「ひざまずくな」
老農民は引き起こされた。
だが表情は茫然としている。
目にはまだ怯えが残っていた。
これが何か、より厳しい罰の前触れではないのかと疑っているようだった。
体もまだ少し前へ傾き、完全には立ち直れていない。
弦一郎はそれ以上何も言わなかった。
地面に転がった白大根へ視線を移し、しゃがんで拾い始めた。
一本。
二本。
泥だらけで、ずっしりと重い。
土の中で長いあいだ育った、実の詰まった白大根だった。
土の湿り気と、生野菜特有の冷たい匂いがした。
泥を払って、手押し車に戻す。
三本目。
四本目。
排水溝の縁まで転がった一本は、溝の隙間に入り込んでいた。
手を差し込んで引っ張り出すと、指先が湿った泥と砕けた葉に触れた。
少し冷たく、少し粘ついた。
周囲の通行人は、まだ彼を見ていた。
誰も何も言わない。
五本目。
六本目。
最も遠くまで転がった一本も取りに行った。
すべて手押し車の上へ戻し、車が安定していることと、大根がもう転がり落ちないことを確認する。
それから立ち上がり、老農民へ軽くうなずいた。
老人はまだ少し前かがみのままだった。
唇が動いたが、声は出なかった。
その目には、弦一郎には読み解けない複雑な感情が浮かんでいた。
弦一郎は踵を返し、大股で隣の路地へ歩いていった。
逃げ出すようには見せまいとした。
だが——。
実際には、逃げていた。
※ ※ ※
路地には誰もいなかった。
狭い路地だった。
両側にはレンガの壁が続き、少し湿った匂いがする。
地面は不規則な石畳で、隙間には細い苔が生えていた。
頭上には、二棟の建物の間に切り取られた細い空が見える。
八月の青空だった。
澄み切っていて、雲ひとつない。
弦一郎は壁にもたれて立ち止まった。
背中がレンガ壁に触れ、軍服の生地越しに冷たさが伝わってくる。
下を向き、自分の手を見た。
右手の指の関節の間には、まだ泥がついていた。
さっき大根を拾い、排水溝の隙間へ手を入れたときについたものだ。
濃い色で、まだ少し湿っている。
皮膚の皺にも入り込んでいた。
親指でゆっくり拭ってみたが、きれいにはならなかった。
弦一郎は顔を上げ、壁にもたれたまま、呼吸が落ち着くのを待った。
あの農民がひざまずいた速さを思い出す。
迷いがなかった。
考えた末の動作ではない。
演技でもなかった。
反射だった。
この社会で何十年も生きてきた人間が、あの服を着た人間を目の前にした瞬間、脳から命令が届くより先に膝を折った。
熱いものに触れた手を引っ込めるように。
瞬きをするように。
繰り返し、繰り返し強化されて、本能になった動作。
膝が石畳に当たった、あの音。
鈍く、重い音が、まだ耳に残っていた。
弦一郎は下を向き、袖章を一瞥した。
金の飾緒が左肩から胸を斜めに渡り、八月の陽光に輝いている。
二〇二六年。
この服は博物館のガラスケースの中にある。
説明札があり、照明があり、観光客が傍で写真を撮っている。
だが一九三〇年では、この服が老人に何も考えさせず、膝を石畳につかせる。
弦一郎は手についた泥をズボンの腿で拭った。
きれいにならない。
もう一度拭った。
それでもまだ残った。
弦一郎は、それ以上拭うのをやめた。
路地の外では、東京の音が続いていた。
路面電車のチンチンという音。
人々のざわめき。
新聞売りの少年の叫び声。
どこかから流れてくる三味線。
細く、軽く、いくつもの壁を遠くから通り抜けてきたような音だった。
弦一郎はレンガ壁にもたれ、人のいない路地で長いあいだ立っていた。
路地の入口に差し込む光が、真昼の直射から少し傾いた角度に変わるまで。
それから、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
「本当に飛んだんだ」
それだけだった。
それ以上、言葉は出なかった。
本当に飛んだんだ。
※ ※ ※
——第二話 了——




