第一話 八月の横須賀
八月の横須賀は、まるで街全体をオーブンに押し込んだかのような暑さだった。
海野弦一郎は横須賀軍港の正門の外に立ち、赤いフェラーリのテールランプが角を曲がって消えていくのを眺めていた。
エンジン音が消えると、世界が少し非現実的に思えるほど静かになった。
隣の歩哨は見て見ぬふりをしながら、視線を正面に固定したまま微動だにしなかった。
弦一郎は心の中で、その職業的な素養に感謝した。
美緒は何と言っていたか。
少し考えてみたが、彼女はいろいろなことを言っていた。
けれど、覚えているのは最後の一言だけだった。
「私たち、変わってしまったね、弦一郎」
それだけだった。
七年間を、三分で終わらせた。
彼はポケットに手を入れ、鍵を握った。
彼女のマンションの合鍵だった。
三年間持ち続け、今日返したばかりの鍵。
そして彼女は、自分が持っていた彼の部屋の鍵を、その手に押し返した。
冷たい鍵だった。
彼はそれを一瞬握りしめてから、ポケットに戻した。
歩哨の視線は、まだ正面を向いていた。
「着替えてくる」
弦一郎は、ほとんど独り言のように言った。
「ご苦労」
歩哨は微動だにしなかった。
※ ※ ※
午後の任務は同僚の田中に任せた。
理由は「体調不良」。
生まれて初めてこの理由で休みを取ったが、口に出した瞬間、実際に胃の具合が悪かったので、厳密には嘘ではなかった。
私服に着替え、基地近くのコンビニで缶ビールを六本買って、横須賀線に乗った。
どこへ行くかは決めていなかった。
電車に揺られながら窓にもたれ、丘と住宅地がゆっくりと後ろへ流れていくのを眺めた。
向かいの席では小学生がゲーム機で遊んでいて、音量を上げたまま電子音を鳴らしていた。
弦一郎は目を閉じた。
美緒とは高校で出会った。
彼女は後ろの席に座っていて、初めて言葉を交わしたのは、彼女の筆箱が落ちて弦一郎の足元まで転がってきたときだった。
あのころはまだ館山に引っ越す前で、彼は海を見たことのない内陸育ちの少年だった。
それから七年。
大学へ進み、海自の試験を受け、任官し、いずもに配属された。
彼女はずっと「応援してる」と言っていた。
そのころの弦一郎は、「応援」という言葉をもっと軽いものだと思っていた。
二人の間に置いても、重さなど感じないものだと。
あとになって、その言葉が時には息が詰まるほど重くなることを知った。
どちらが悪いわけでもない。
ただ、歩いているうちに、向かう方向が少しずつ違ってきただけだ。
プラダを着て、フェラーリでやって来て、三分で七年を終わらせた。
残酷と言うべきか、誠実と言うべきか。
少なくとも彼女は直接会いに来た。
メッセージだけで済ませなかった。
深夜に一人、スマホの画面を見つめさせるような別れ方はしなかった。
また電子音が鳴った。
弦一郎は目を開け、窓の外に東京湾がゆっくりと姿を現すのを見た。
※ ※ ※
中央防波堤の夕風は、ほんの少しだけ涼しかった。
弦一郎は堤の縁に腰を下ろし、足を宙に浮かせた。
目の前には東京湾の夜景が広がっていた。
遠くにはレインボーブリッジの灯り、そのさらに向こうには東京のスカイラインが見える。
まるで誰かがホタルをきれいに一列に並べたようだった。
一本目を開けた。
シュッ——。
ビールの泡が喉の奥ではじけた。
苦かったが、少しだけ気持ちがよかった。
この辺りには人の姿がなかった。
ときおり遠くの埠頭の道をトラックが通り過ぎ、その低いエンジン音もすぐに消えていった。
海風が、いくつもの匂いを運んできた。
塩と、わずかな軽油の匂い。
それに、海辺でしか嗅げない、言葉ではうまく表せない磯の匂い。
弦一郎が初めて海を見たのは、館山だった。
十二歳のとき、家族で引っ越したばかりのころだ。
父が「海が近い」と言っていたので、歩いて十分ほどのところにあるのだと思っていた。
ところが引っ越した翌朝、玄関を出ると、目の前に海があった。
「近い」どころではない。
本当に、そこにあった。
果てしなく広く、目がおかしくなったのではないかと思うほど青かった。
弦一郎は、その場に二十分ほど立ち尽くした。
動けなかった。
母は後になって言った。
あのときの顔は、幽霊でも見たようだった、と。
説明のしようがなかった。
ただ、胸の中で何かが開いたような気がした。
それまで存在することさえ知らなかった空間が、突然、形を持って目の前に現れたような感覚だった。
翌年には、海自に入ると言い出していた。
父は言った。
「まだ十三だ。よく考えろ」
弦一郎は答えた。
「考えた」
その後、その決断を疑ったことは一度もなかった。
海自の日々が必ずしもロマンティックなものではなく、システムレポートや整備スケジュール、可動率の数字、それに終わりの見えない書類仕事の方が、ずっと多かったとしても。
二本目を開けた。
東京湾の水面が街の光を反射し、無数の光の破片に砕けていた。
もし美緒が今ここにいたら、きっと「写真映えする」と言ってスマホを取り出すだろう。
何枚か撮り、その中から一枚を選んでSNSに上げ、英語のキャプションを添える。
彼女は、いつのころからか英語のキャプションをよく使うようになっていた。
それに気づいたのは、いつだっただろう。
三本目を開けた。
風が少し強くなり、髪を乱した。
直す気にもなれなかった。
明日はレーダーの可動率報告を提出しなければならない。
先週の定期整備で、第三射撃管制システムのセンサー値にドリフトが見つかった。
基本機能への影響はないが、規定に従って記録に残す必要がある。
下書きはもうできている。
あとは結語だけだ。
一口飲むと、苦みが舌の根に広がった。
まあいい。
明日でいい。
四本目を開けたころには、すっかり暗くなっていた。
弦一郎は横になり、背中を防波堤のコンクリートにつけて、頭上の空を見上げた。
東京の光害で星はほとんど見えず、明るい星だけがかろうじて確認できた。
館山にいたころは、夜になると星がよく見えた。
ときどき一人で屋根に上り、そこに寝転んで、何も考えないまま眠りに落ちることもあった。
あのころは、もっと何もかもがシンプルだった。
五本目を開けた。
頭がゆっくりと揺れ始めた。
けれど、不快な揺れではなかった。
尖っていたものがすべて、綿で包まれていくような感覚だった。
美緒の顔がぼやけ、輪郭だけになり、その輪郭さえもじわじわと溶けていった。
弦一郎は目を閉じた。
東京湾の海風は吹き続け、塩と軽油と、あの言葉にできない磯の匂いを運んできた。
遠くで、どこかの船が汽笛を鳴らしていた。
低く、長い音だった。
まるで誰かに別れを告げるように。
六本目はすでに開けていたが、飲み切ったかどうかは覚えていない。
最後に意識に残ったのは、ひどく具体的で、ひどく職業的なことだった。
「明日の報告……第三射管……センサードリフト……結語……」
そして、何もなくなった。
※ ※ ※
光がおかしい。
目覚めたとき、最初にそう感じた。
八月の朝、防波堤に寝ていれば、直射日光が容赦なく降り注ぐはずだ。
眩しく、熱く、もう少し寝ていたいと思わせるような光。
ところが今、顔に当たっている光は斜めから差し込んでいて、どこか奇妙な遮られ方をしていた。
まるで何か大きなものが、日差しを遮っているようだった。
匂いもおかしい。
防波堤なら、コンクリートと海水が混じった湿った匂いがするはずだ。
ところが今、鼻に入ってくるのは鉄と機械油、それに石炭が燃えるような重い臭いだった。
まるで巨大な機械の腹の中から直接吐き出されているような、重く沈んだ臭い。
背中に触れているものも違った。
感じているのはコンクリートの粗さではなく、金属甲板の凹凸だった。
わずかに温かく、かすかな振動が伝わってくる。
まるで艦の奥深くで、大型の機械が低く唸っているようだった。
服装にも違和感があった。
まだ目を開ける前から気づいていた。
首元には硬く、窮屈な感触がある。
Tシャツのコットンではなく、もっと厚みのある生地だった。
肩には何かの重みがあり、左肩から胸元にかけて斜めに何かが掛かっている。
硬い金属の飾りが肌に触れ、冷たさが伝わってきた。
弦一郎はゆっくりと目を開け、自分の身体を見下ろした。
帝国海軍の軍服だった。
濃色の、きちんと仕立てられた軍服。
金色の飾緒が左肩から胸元へ斜めに伸びている。
そして袖口の階級章は、見間違えようがなかった。
少佐。
弦一郎は三秒ほど、その袖章を見つめた。
それから顔を上げた。
巨大な管状のものが、視界の中央にあった。
灰色で、鈍い金属光沢を帯びている。
直径は、一目では把握できないほど大きかった。
だが完全に目が覚めるより先に、職業的な本能が動き始めていた。
弦一郎は目を細めた。
口径。
仰角。
倍径。
砲塔の構造。
甲板のリベット加工。
艦橋の輪郭。
視界に入る情報が一つずつ頭の中ではまり込んでいく。
よく知っているはずなのに、この角度から実物を見たことはない。
その輪郭が、じわじわと一つの答えへ収束していった。
長門型戦艦。
弦一郎はゆっくりと起き上がった。
後頭部がまだ少し痛んだが、今はそれどころではなかった。
「……くそ」
声はかすれていたが、語気だけははっきりしていた。
「四十五口径四十一センチ連装主砲じゃないか」
足音が聞こえた。
革底の靴が、金属甲板を踏む音だった。
規則正しく、こちらへ近づいてくる。
振り返ると、旧式の海軍軍服を着た若い水兵が立っていた。
十八か十九といったところだろう。
困惑と警戒が入り混じった目で、弦一郎を見ていた。
弦一郎は三秒ほど、その青年を見つめた。
すると水兵が、どこか今とは少しイントネーションの違う日本語で口を開いた。
「少佐殿、ご無事でありますか」
弦一郎は彼の顔を見た。
軍服の襟章とボタンを見た。
それから遠くに見える、見覚えのない海岸線へ視線を移した。
見知っているはずなのに、まったく見知らぬ東京湾だった。
しばらくして、弦一郎はできるだけ落ち着いた声で言った。
「水を一杯くれ」
少し間を置き、続けた。
「それと……今日は何日だ?」
※ ※ ※
——第一話 了——




