第二十話 今日
長門、山本英輔の執務室。
朝の陽光が窓から差し込み、横須賀湾の海面には、この執務室から何度も見てきた重みのある金色が浮かんでいた。
廊下から伝令の足音が聞こえる。
急いでいた。
「海野少佐、山本長官がすぐ執務室へとのことです。すぐに」
弦一郎は顔を上げた。
「すぐに」が二度言われた。
立ち上がり、廊下へ出る。
自然と歩調が速くなる。
そして執務室の前で止まった。
声が、扉の隙間から漏れていた。
少し聞く。
山本英輔の声ではない。
煙管の匂いまで漂ってきそうな薩摩弁。
聞き覚えのある声だった。
弦一郎は頭の中でその声を照合し——
足が一拍止まった。
それから深く息を吸い、扉を叩いた。
「入れ」
扉を開ける。
そして。
目が点になった。
※ ※ ※
山本英輔。
帝国海軍中将。
壁の旭日旗に正対して。
畳の上に跪いていた。
背筋は伸びている。
口髭は微動だにしない。
そして顔には、弦一郎がこれまで一度も見たことのない——非常に観念した表情が浮かんでいた。
その後ろ。
東郷平八郎。
八十二歳。
正装。
煙管を手に、杖を膝の脇へ置いている。
弦一郎が入ってくると、老いた目が一度こちらへ走った。
それから杖を取り上げ、山本英輔の隣の畳を指した。
「小僧、お前も来い」
一拍。
「跪け!!」
弦一郎は扉のところに立ったまま。
跪いている山本英輔の後ろ姿を見る。
東郷平八郎の杖を見る。
指された畳を見る。
そして頭の中で、とても冷静に一つの評価をした。
この部屋には。
帝国海軍の精神的象徴がいる。
その手には杖と煙管がある。
そして。
明らかに怒っている。
弦一郎は何も言わず部屋へ入り、山本英輔の隣に跪いた。
※ ※ ※
パシッ。
杖が弦一郎の肩に落ちた。
重くはない。
でも。
はっきりしていた。
「昨夜、何をしに行った?」
「九年庵です、閣下」
パシッ。
今度は煙管が山本英輔の頭に落ちた。
「お前は、昨夜何をしに行った?」
山本英輔は旭日旗に向いたまま、振り返らない。
とても静かな声で。
「新橋に迎えに行きました」
パシッ。
パシッ。
杖と煙管が交互に落ちる。
まず山本英輔の肩。
次に弦一郎の頭頂部。
「俺に知らせたか?」
二人は同時に答えた。
「知らせませんでした」
東郷平八郎は煙管を一口吹かし、手の中で転がした。
「麹町がどこにあるか、知っているか?」
山本英輔。
「知っています」
弦一郎。
「知っています」
「知っているのに、なぜ来ない?」
二人は同時に黙った。
パシッ。
パシッ。
杖と煙管が、また一度ずつ落ちた。
今度は少し重かった。
それから東郷平八郎は杖を畳に突き、それへ体を預けた。
煙管を一口吹かす。
並んで跪いている二つの背中を見る。
弦一郎は跪いたまま、後頭部に二つの軽い熱さを感じていた。
一つは昨夜、山本英輔が残したもの。
もう一つは、たった今、東郷平八郎が残したもの。
——ここ数日、俺の頭はあまり穏やかじゃないな。
そんなことを思った。
「今から言え」
東郷平八郎の声が後ろから来る。
「昨夜のことを最初から、漏らさず言え」
※ ※ ※
山本英輔が先に口を開いた。
薩摩弁で。
静かに。
旭日旗へ向かったまま、昨夜のことを話した。
弦一郎が招待状を受け取ったこと。
差出人が永田鉄山だったこと。
執務室の扉へメモを残していったこと。
それを知ってから一大隊と空中援護を動かし、新橋へ向かったこと。
永田鉄山が九年庵から出てきて詫びたこと。
そして。
自分が一言返したこと。
「その言葉を」
東郷平八郎が言った。
「はっきり言え」
山本英輔は答えた。
「永田に」
一拍。
「こいつは俺の人間だ。余計なことを考えるな、と言いました」
東郷平八郎はしばらく黙った。
煙管を一口吹かす。
パシッ。
ただし。
今回、煙管が山本英輔の肩を叩いた力加減は、さっきまでとまったく違っていた。
軽い。
その一打に、弦一郎にはうまく言葉にできないものがあった。
「そうか」
東郷平八郎は言った。
それだけ。
「それから?」
山本英輔は横を向き、弦一郎を一瞥した。
「こいつに言わせる」
弦一郎は深く息を吸い、声を落ち着かせた。
「閣下」
「まず、いくつか名前を挙げます」
少し間を置く。
「それから、昨夜話したことを閣下にも申し上げます」
東郷平八郎。
「言え」
※ ※ ※
「板垣征四郎」
東郷平八郎は煙管を一口吹かした。
何も言わない。
ただ。
老いた目の奥で、何かが回り始めた。
「石原莞爾」
「南次郎」
「本庄繁」
「土肥原賢二」
執務室が、しばらく静かになった。
その五つの名前が、この部屋の中で重みを持つ。
名前そのものが見知らぬわけではない。
ただ。
五つが一緒に並べられ。
それを口にしたのが弦一郎だった。
それで意味が変わった。
東郷平八郎は煙管を膝に置き、弦一郎の背中を見る。
「それから?」
弦一郎は続けた。
「閣下」
「この人たちは、満洲で計画を立てています」
一拍。
「文官政府の明確な認可を待たず、関東軍が自主的に主導する形で、満洲に対する行動を起こす計画です」
少し間を置く。
「文官政府には処理しきれないほど大きな既成事実を先に作る」
「そうなれば政府には、陸軍が作った現実を受け入れる以外の選択肢がほとんど残らない」
さらに。
「政府がその現実に耐えられず倒れれば、陸軍は権力を奪ったのではなく——」
一拍。
「文官政府が残した真空を埋めただけ、という形になります」
東郷平八郎が聞いた。
「なぜ、それを知っている?」
弦一郎。
「仙人に教えてもらいました、閣下」
東郷平八郎は弦一郎を見る。
老いた目が一度だけ動いた。
それから煙管を取り上げ、一口吹かす。
「そうか」
一拍。
「続けろ」
※ ※ ※
弦一郎は深く息を吸った。
「閣下」
「田中義一の件のころ、陸軍内部で、天皇制度そのものにまで踏み込んだ議論があったという話を——」
少し間を置く。
「お聞きになったことはありますか?」
東郷平八郎の煙管が止まった。
隣で跪いている山本英輔の口髭が、わずかに動く。
彼も、その声を知っていた。
以前。
「聞いた」
そう言っていたことがある。
東郷平八郎は長い間、黙った。
その沈黙には、弦一郎がこれまでこの老人から感じたことのないものがあった。
怒りでもない。
茫然でもない。
ずっと疑っていた。
でも誰も、はっきり言ってくれなかった。
そんなことを、今ようやく確認しようとしているような沈黙。
やがて。
「聞いたことはある」
東郷平八郎は言った。
少し間を置き、煙管を手にしたまま続ける。
「しかし、その声と満洲がどう繋がるのか」
「誰も説明してくれなかった」
弦一郎は答えた。
「閣下」
「あの声の目的は、単純に天皇制度そのものを廃止することではありません」
少し間を置く。
「天皇を国家の象徴として残したまま」
「実際に軍を動かす者が、国家の進む方向を決める」
一拍。
「そういう構造へ持っていくことです」
さらに。
「板垣征四郎と石原莞爾が満洲で準備している計画は、その論理の次の段階です」
「天皇制度を廃止する必要はない」
「ただ——」
一拍。
「陛下に『否』と言える状況を残さなければいい」
執務室が静かになる。
弦一郎は続けた。
「文官政府にも処理できないほどの既成事実を先に作る」
「そのあとで陛下の選択肢を、承認するか、軍との正面衝突を選ぶか、その二つにまで狭める」
「そうなれば」
一拍。
「形式の上では陛下の裁可でも」
「実際には、その裁可を必要とする現実を先に軍が作ったことになります」
横須賀湾の陽光は、まだ窓の外にあった。
金色の光が、部屋全体を重く押している。
東郷平八郎は煙管を置いた。
その動作は、この執務室ではどんな言葉よりも重かった。
目を閉じる。
長い間。
黙る。
何年ものあいだ。
見て。
聞いて。
感じてきたもの。
田中義一の件。
陸軍内部の声。
今挙げられた名前。
満洲で進んでいる計画。
それらが今。
一本の線でつながっていく。
そんな沈黙だった。
やがて目を開け。
弦一郎を見る。
「これは、いつのことだ?」
弦一郎は答えた。
「時間は多くありません、閣下」
東郷平八郎はしばらく黙った。
それから立ち上がる。
八十三歳。
背筋は、まだ伸びていた。
「英輔」
「車を用意しろ」
山本英輔はすぐに立ち上がった。
「はい」
東郷平八郎は弦一郎を見る。
「お前もついてこい」
そして扉へ歩く。
杖が畳を叩く音が、一つずつ響いた。
弦一郎と山本英輔も立ち上がり、その後へ続く。
弦一郎の膝は。
少し痺れていた。
※ ※ ※
東京。
牧野伸顕の官邸。
午後の陽光が応接室へ差し込んでいた。
静かだった。
横須賀とはまったく違う空気を帯びている。
東郷平八郎はそこに座っていた。
背筋を伸ばし。
煙管を手にしている。
牧野伸顕が入ってきた。
東郷平八郎を見る。
その表情に、弦一郎は少し引っかかった。
ただの驚きでもない。
礼儀上の表情でもない。
暗い部屋でずっと手探りを続けていた人間が。
突然。
隙間から一筋の光が差し込んでくるのを見た。
そんな表情だった。
牧野は近づき、礼をする。
「東郷閣下、よくいらっしゃいました」
東郷平八郎は煙管を一口吹かし、うなずいた。
「牧野」
一拍。
「座れ。話がある」
牧野伸顕は座った。
先ほどまでの表情が変わる。
こらえている。
押さえている。
そして。
待っていた。
そんな顔だった。
東郷平八郎は真っ直ぐ見る。
「牧野」
「帝国の陸軍が、何かを計画している」
一拍。
「陛下が知らぬうちに進み」
「文官政府には止められず」
「しかも帝国を取り返しのつかない道へ連れていくかもしれんものをだ」
牧野伸顕は。
「閣下のおっしゃるのは何ですか」
とは聞かなかった。
下を向く。
しばらく黙る。
それから言った。
「東郷閣下」
「陛下は、ご存知です」
応接室が静かになった。
東郷平八郎は牧野を見る。
「どれほどご存知か?」
牧野伸顕は顔を上げた。
押さえ込まれた憤り。
長い間こらえてきたもの。
それが表情に滲んでいた。
「閣下」
「陛下はここ数年、陸軍が一歩ずつ今日の位置まで来るのをご覧になっています」
「あの者たちが何をしているのか」
「その方向がどこへ向かっているのか」
少し間を置く。
「陛下は、どなたよりも深く憂慮しておられます」
そこにあるのは憤りだけではなかった。
一つのことが起きるのを目の前で見続けている。
しかし。
自分の手が縛られている。
伸ばしたくても伸ばせない。
そんな無力感だった。
「ですが」
牧野は続ける。
「陛下ご自身が直接政治へ介入することには、大きな制約があります」
「陛下が直接、あの者たちに『駄目だ』と命じる」
「一つ一つの計画に『許可しない』と仰せになる」
少し間を置く。
「そういう形を取れば」
「それ自体が別の問題を生みます」
東郷平八郎は何も言わない。
牧野は続けた。
「私は何度も申し上げました」
「この道を行けば、帝国そのものが崩れかねないと」
「陛下はそのたび」
「分かっている」
「憂慮している」
「方法を考えている」
「そう仰せになりました」
そして。
少し間を置く。
声が落ちる。
「しかし——」
「陛下にも、簡単に打てる手はない」
「私にも、ありませんでした」
その声には。
弦一郎がこの数か月、誰からも聞いたことのないものがあった。
自分の無力を。
自分の口で認める声だった。
※ ※ ※
東郷平八郎は聞いていた。
何も言わず。
牧野伸顕に最後まで言わせた。
それから煙管を一口吹かし、膝に置く。
「牧野」
とても静かな口調だった。
「陛下のお手が縛られていると、お前は言った」
「はい」
「しかし——」
一拍。
「陛下のお足まで縛られているわけではなかろう?」
牧野伸顕が、ぽかんとした。
東郷平八郎は続ける。
「明日」
「陛下に箱根へお出でいただけ」
牧野伸顕。
「箱根へ?」
「ご家族とともに、箱根へ」
東郷平八郎は言った。
「理由は言わなくていい」
「ただ、お出でいただくだけでよい」
牧野伸顕はしばらく黙った。
その意味が、少しずつ分かり始める。
天皇が東京にいない。
それだけで。
誰かが勝手に「天皇の御名」を持ち出して、目の前の行動へ即座に権威を与えることは難しくなる。
「閣下」
牧野が言う。
「ですが、陛下が箱根へ行かれるだけでは、陸軍の方は……」
「陸軍の方は俺が処理する」
東郷平八郎は言った。
「お前は陛下に、明日箱根へお出でいただけ」
少し間を置く。
牧野伸顕を真っ直ぐ見る。
「牧野」
「陛下がずっと憂慮し、方法を考えておられると言ったな」
止まる。
「今」
一拍。
「方法が来た」
「陛下には、その一歩を踏み出していただけ」
牧野伸顕は長い間、黙った。
応接室。
午後の陽光。
東郷平八郎の煙管。
弦一郎は隅に座り、一言も言わない。
やがて牧野が口を開いた。
「閣下」
「もし陸軍が従わなければ……」
東郷平八郎は牧野を見る。
対馬沖を見てきた。
あの老いた目で。
「牧野」
一拍。
「対馬沖を見たことがあるか?」
牧野伸顕は少しぽかんとした。
「ありません、閣下」
東郷平八郎は煙管を取り上げ、一口吹かす。
「あそこで一つ、戦をした」
「その前には、誰もが勝てるわけがないと言った」
少し間を置く。
「だが我々は勝った」
牧野伸顕を見る。
「我々が強かったからではない」
「相手に——」
一拍。
「我々が本当に準備していると、知らせたからだ」
牧野伸顕は長い間黙った。
そして聞いた。
「閣下」
「私は何をすれば?」
東郷平八郎。
「陛下に明日、箱根へとお伝えしろ」
一拍。
「それだけだ」
「それだけ……ですか?」
「それだけだ」
東郷平八郎は言った。
「残りは俺がやる」
※ ※ ※
牧野伸顕は立ち上がった。
書机の前へ歩く。
電話には手を伸ばさない。
筆を取る。
一枚の紙へ、いくつかの言葉を書く。
書き終える。
紙を折る。
封筒へ入れる。
侍従へ渡した。
それから振り返る。
午後の陽光の中。
東郷平八郎を見る。
「東郷閣下」
声は、とても低かった。
「陛下はここ数年」
少し間を置く。
「誰かが、これをやってくれるのを待っておられました」
さらに。
「ずいぶん長く」
「待っておられました」
東郷平八郎は煙管を一口吹かした。
窓の外を見る。
「分かっている」
一拍。
「だから今日来た」
※ ※ ※
弦一郎は隅に座ったまま、その場面を見ていた。
東郷平八郎。
八十三歳。
煙管。
伸びた背筋。
牧野伸顕。
侍従へ封筒を渡したばかりの手。
そして。
あの歯車たちを思った。
高橋是清。
幣原。
山本英輔。
東郷平八郎。
そこへ。
牧野伸顕。
そして。
今、侍従の手へ渡った封筒。
その行き先。
皇居。
歯車が噛み合う音を。
今日。
初めて本当に聞いた気がした。
弦一郎は下を向く。
膝の上に置いた自分の手を見る。
あの時間軸を思う。
一九三一年九月十八日。
柳条湖。
関東軍。
あと十か月。
今日から動き始めた、この歯車たちで。
十分なのか。
根は十分に張られているのか。
利益は先に育っているのか。
あの火が来たとき。
燃やされる薪は、もう減っているのか。
分からない。
でも。
一つだけ分かった。
今日の前まで。
あの時間軸は、弦一郎の中では固定されたものだった。
起きることを知っていた。
日付も。
場所も。
終点も。
でも。
今日の後は。
もう、そうではない。
弦一郎は顔を上げた。
東郷平八郎の後ろ姿。
煙管。
伸びた背筋。
そして。
もう一つ。
もっと小さなことを思った。
逗子。
海に向いた部屋。
玄関に正座していた姿。
「おかえりなさい」
それから。
自分が言った。
「弦一郎と呼んでくれ」
まだ。
その名前が彼女の口からどう聞こえるのかは知らない。
弦一郎はその考えを一度胸の奥へ押し込み、立ち上がった。
東郷平八郎の隣へ歩く。
今日は。
まだやることがたくさんあった。
※ ※ ※
翌日。
早朝。
箱根。
御用列車は夜のうちに東京を出て、夜明けに箱根へ着いた。
その動きに、大きな発表はなかった。
説明もない。
ただ。
事実だけが生まれた。
天皇御一家は今日。
東京にいなかった。
弦一郎は長門の甲板に立ち、横須賀湾の早朝を見ていた。
海風が塩と燃料油の匂いを運んでいる。
遠くの海面には。
早朝だけの軽い青。
まだ陽光に重く押されていない青があった。
弦一郎はそこに立ち。
その事実を頭の中へ沈ませる。
天皇御一家は。
今日。
箱根にいる。
その一つの事実が。
帝国の政界と軍界で何を意味するのか。
読む者は読む。
分かる者は分かる。
誰かが。
何かを始めた。
そして。
止めるつもりがある。
その合図だった。
弦一郎は深く息を吸った。
前へ歩く。
今日はやることがたくさんある。
明日は。
もっとある。
でも。
今日。
最初の一歩は踏み出された。
※ ※ ※
——第二十話 了——




