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第十九話 ただいま

新橋の夜。


灯り。


人の声。


車の警笛。


十一月の冷たい風。


弦一郎は九年庵の入口に立ち、夜の空気を深く吸った。


永田鉄山の言葉が、まだ頭に残っていた。


——あなたが正しければいい。


東條英機の言葉も。


——帝国の兵士は、数字だけで動くものではありません。


あの亀裂。


小さい。


細い。


でも。


確かに、あった。


永田鉄山一人を説得すれば、全部が終わる。


そんな話ではない。


永田がいる。


東條がいる。


岡村がいる。


そのほかにも。


何本もの線が、同じ時代を別々の方向から走っている。


弦一郎は軍服の襟を少し立てた。


そして、新橋駅の方へ歩こうとした。


一歩。


出る。


そこで止まった。


「……え?」


九年庵の真向かい。


新橋の通り。


人が、いない。


正確には。


通行人が全部、両側へ寄っていた。


誰も通りの中央へ出ない。


中央には、軍服が並んでいた。


海軍。


武装した水兵と陸戦隊要員。


何列も。


小銃。


銃剣。


革帯。


軍靴。


夜の新橋。


街灯。


その光を受けながら、整然と立っている。


完全武装。


弦一郎は、その光景をしばらく理解できなかった。


——何だこれ。


さらに。


上から音が聞こえた。


航空発動機。


弦一郎は顔を上げる。


夜空。


編隊灯がいくつか動いている。


三式艦上戦闘機。


数機。


新橋より東京湾側の上空を旋回していた。


低く街の上へ降りてくるわけではない。


でも。


音は十分届く。


弦一郎は通りを見る。


空を見る。


もう一度、通りを見る。


——待て。


——俺一人迎えに?


それから。


一番前に、人影が見えた。


正装。


口髭。


背筋。


鷹の目。


山本英輔。


帝国海軍中将。


連合艦隊司令長官。


弦一郎を見た。


その瞬間。


山本の顔に、弦一郎が今まで見たことのない表情が浮かんだ。


怒り。


だけではない。


安心。


だけでもない。


言いたいことが山ほどある。


だが。


全部言う前に、まず一発やらなければならない。


そんな顔だった。


山本英輔は大股でこちらへ歩いてきた。


※  ※  ※


弦一郎は、そこに立っていた。


逃げなかった。


そして。


来た。


ぱん。


後頭部に平手。


重くはない。


でも。


いい音がした。


新橋の夜に、かなり響いた。


「このバカ者が!」


山本英輔の声は抑えられている。


だから余計に怖い。


「奥さんのそばにいろと言っただろうが!」


「長官、あれはまだ奥さんでは——」


「黙れ!」


もう一発来るかと思った。


来なかった。


代わりに、口髭が揺れた。


「何でこんなところまで来て」


「陸軍の芋侍どもと酒を飲んどる!」


「酒が飲めるからって——」


一拍。


「命まで粗末にするな!」


弦一郎は黙った。


後頭部が少し熱い。


でも。


その言葉より。


目の前を見る。


武装水兵。


陸戦隊要員。


夜空の航空機。


そして。


山本英輔。


そこで、頭の中の何かが動いた。


以前、自分が山本に言ったことを思い出す。


——ただ。


——一人で戦っているのではないと。


——そう知りたい。


山本英輔は返した。


——やるべきことをやれ。


東郷平八郎。


——じゃあここで何しとる。


——やれよ。


弦一郎は、もう一度通りを見る。


これ。


救出だけではない。


山本英輔は、自分が扉へ挟んだ紙を見た。


新橋。


九年庵。


夜九時。


永田鉄山。


その四つを見て。


ここへ来た。


しかも。


一人ではない。


意味は明白だった。


永田鉄山へ見せるため。


——この少佐は一人ではない。


——後ろに海軍がいる。


政治。


威嚇。


そして。


保護。


全部、同時。


弦一郎は九年庵へ一人で入ったつもりだった。


自分では、そう思っていた。


でも。


外には人がいた。


待っていた。


その感覚が、突然胸を押した。


目が少し熱くなる。


弦一郎は顔を動かさない。


必死に押さえる。


山本英輔が気づいたか。


気づいていないか。


分からない。


そのとき。


後ろで九年庵の扉が開いた。


※  ※  ※


永田鉄山が出てきた。


岡村寧次。


その隣。


東條英機。


さらに後ろ。


三人とも通りを見る。


武装した海軍の人員を見る。


頭上の航空発動機を聞く。


そして。


山本英輔を見る。


弦一郎は、永田鉄山の顔を見ていた。


恐怖ではない。


驚きだけでもない。


計算。


この配置。


この人数。


この時間。


この場所。


連合艦隊司令長官本人が出てきた意味。


永田鉄山は理解している。


少し間を置いて。


永田が歩く。


山本英輔へ。


礼。


穏やか。


「山本中将」


声も穏やかだった。


「今夜は、海野少佐を少し酒席へお招きしただけです」


一拍。


「中将にご心配をおかけしたのであれば、申し訳ありません」


一瞬で。


今夜、九年庵で起きたこと全部が変わる。


招攬。


思想。


満蒙。


拒絶。


全部。


——少し酒を飲んだ。


そういう話へ変える。


永田鉄山の体面を残す。


山本英輔の体面も残す。


海軍と陸軍が正面からぶつからない。


弦一郎はその言葉を聞いた。


——うまい。


そう思った。


山本英輔は黙って永田鉄山を見る。


鷹の目。


夜。


街灯。


危ない静けさが、少し続く。


それから。


山本が一歩前へ出た。


「永田君」


永田鉄山を見る。


階級で呼ばない。


役職でも呼ばない。


ただ。


永田君。


「こいつは——」


一拍。


「俺のところの人間だ」


さらに。


「余計なことを考えるな」


それだけ。


短い。


説明はない。


でも。


意味は十分だった。


海野弦一郎は、連合艦隊側にいる。


勝手に触るな。


勝手に引っ張るな。


その政治的な意味を、永田が分からないはずがない。


永田鉄山は、しばらく山本を見る。


怒らない。


反発もしない。


ただ。


頭の中で一度計算している。


そして。


計算が終わる。


軽くうなずく。


「承知しました」


それ以上、何も言わなかった。


山本英輔は向き直る。


「行くぞ」


弦一郎。


「はい」


歩く。


永田鉄山の横を通る。


そのとき。


一度だけ見る。


永田は弦一郎を見ている。


表情は読み切れない。


怒りではない。


脅しでもない。


さっき座敷の最後で見たものと同じ。


完全には切り捨てきれない何かを見る目。


弦一郎は、さらに後ろの東條英機を見る。


東條は立っている。


通り。


海軍。


山本。


弦一郎。


全部を見ている。


顔はほとんど動かない。


また記録している。


そんな目だった。


弦一郎は前を向いた。


山本英輔についていく。


武装水兵たちも、静かに動き始める。


隊列を崩さない。


撤収。


上空の航空機の発動機音も、少しずつ遠ざかる。


通行人は、まだ道の両側にいる。


誰も声を出さない。


ただ見る。


海軍の一団が、新橋の夜を去っていく。


※  ※  ※


数歩歩いたところで。


山本英輔が、前を向いたまま言った。


「中で何を話した」


弦一郎は答える。


「算数です」


山本は歩き続ける。


止まらない。


「結果は?」


「断りました」


口髭が少し動く。


「そうか」


一言。


それだけ。


弦一郎は隣を歩く。


目はまだ少し熱い。


何か言いたい。


——ありがとうございます。


でも。


その言葉では小さい。


小さすぎる。


今夜。


新橋で待っていた人たち。


あの武装。


頭上の飛行機。


山本英輔自身が来たこと。


全部が。


「ありがとうございます」


その一言には入りきらない。


だから。


言わなかった。


ただ、隣を歩いた。


新橋。


灯り。


二人の影が前へ伸びる。


一つは長く。


一つは少し短い。


そして。


山本英輔が突然言った。


「それにしても」


一拍。


「逗子で奥さんが一人で待っとるのに」


弦一郎。


嫌な予感。


「長官——」


「新橋まで来て、芋侍と酒か」


「長官、それはですね——」


「終電」


一拍。


「なくなるぞ」


弦一郎が止まった。


「……え?」


山本英輔の歩調が少し速くなる。


「急げ」


弦一郎は時計を見る。


「……やば」


ついていく。


歩調が速い。


さっき。


武装した海軍要員と航空機を連れて新橋へ来た男が。


今。


言っている。


——終電に間に合え。


弦一郎は山本英輔の背中を見る。


日露戦争。


そこから一九三〇年まで歩いてきた。


海軍中将。


連合艦隊司令長官。


その男が、自分の終電を心配している。


弦一郎は下を向いた。


少し笑った。


本当に少し。


声も出ないくらい。


それから顔を上げ、山本英輔を追った。


※  ※  ※


終電。


車内は静かだった。


夜の神奈川。


窓の外では灯りが一つ。


また一つ。


後ろへ消えていく。


逗子へ向かう。


弦一郎は窓際に座り、外を見る。


今夜のことを一つずつ沈ませる。


九年庵。


永田鉄山。


岡村寧次。


東條英機。


——これは深い学問ではありません。


——算数です。


——お断りします。


——あなたが正しければいい。


——帝国の兵士は数字だけで動くものではありません。


そして。


外。


山本英輔。


平手。


海軍。


——こいつは俺のところの人間だ。


そして。


最後。


——終電がなくなるぞ。


弦一郎は少し息を吐いた。


目を落とす。


膝。


自分の手。


そこで。


別のことが浮かんだ。


千代。


いや。


遙。


彼女は、もう自由だった。


高橋是清が身請けの金を払った。


新喜楽には、もう縛られていない。


逗子の家に住まなければならない理由もない。


自分を待つ義務もない。


どこへ行ってもいい。


何を選んでもいい。


弦一郎は窓の外の黒を見た。


今まで。


考えなかった。


自分はずっと、何かをしてきた。


海老を剥いた。


竹野内豊を作った。


危ないと思ったら前に立った。


東京が危険だと思ったら、逗子へ移した。


でも。


それは全部。


自分がしたかったから、した。


彼女へ聞いていない。


——望んでいるか。


その問いが、初めてちゃんと頭に入った。


弦一郎は黙った。


彼女が下を向く横顔を思い出す。


高脚の空の杯。


抹茶大福。


——アイスクリームの作り方が分からなかったけど。


——あの形は覚えていた。


そして。


逗子。


窓。


海。


彼女は、あそこにいるのか。


待っているのか。


それとも。


もういないのか。


弦一郎は自分の胸の中に、少し変なものを感じた。


怖い。


とは違う。


でも。


答えを知りたいような。


知るのが少し怖いような。


——彼女は。


——望んでいるのか。


問いを置く。


答えは出さない。


窓の外。


夜が流れる。


逗子が近づく。


※  ※  ※


逗子駅。


夜。


静か。


海風。


塩の匂い。


横須賀とは少し違う。


弦一郎は駅を出て歩く。


もう少し覚えた道。


あの家へ向かう。


歩きながらも、頭の中には問いが残っている。


——彼女は望んでいるか。


答えはない。


家に着く。


扉の前で止まる。


鍵束を取り出す。


山本英輔から渡された鍵。


錠前へ差す。


回す。


一瞬。


手が止まる。


もし。


誰もいなかったら。


なぜ、そんなことを考えたのか。


自分でも分からない。


扉を開く。


そして。


千代がいた。


※  ※  ※


玄関。


千代は正座していた。


端正。


背筋は真っ直ぐ。


その姿勢は、新橋で何年もかけて身につけた仕事と礼儀が全部染み込んだ姿勢だった。


でも。


顔が違う。


弦一郎は入口に立ち、千代を見る。


その表情を、うまく言葉にできない。


それから。


千代が言った。


「おかえりなさい」


弦一郎は止まった。


完全に止まった。


——おかえりなさい。


心の準備がない。


今夜。


九年庵。


永田。


東條。


岡村。


算数。


拒絶。


外。


海軍。


山本。


平手。


終電。


全部あった。


それが。


扉を開いた瞬間、消えた。


目の前に残ったのは。


一人。


玄関で待っていた女性。


そして。


——おかえりなさい。


弦一郎は、しばらく何も言えなかった。


それから中へ入る。


軍靴を脱ぐ。


上着を掛ける。


振り返る。


千代は、まだいる。


「少佐」


千代が言う。


「お食事は召し上がりましたか?」


「すぐに何か——」


「いや」


弦一郎は言った。


普通の声。


でも。


そこで少し止まる。


終電の中で考えた問いを思い出す。


——彼女は望んでいるか。


そして。


玄関で待っていた。


——おかえりなさい。


弦一郎は口を開いた。


「俺」


千代を見る。


「海野弦一郎といいます」


千代の目が少し動く。


弦一郎は続けた。


「これからは——」


一拍。


「弦一郎と」


「呼んでください」


※  ※  ※


千代の息が、一瞬止まった。


本当に一瞬。


何も吸えない。


——弦一郎と呼んでください。


それだけ。


男の名前。


でも。


彼女には違って聞こえた。


ずっと。


少佐だった。


客ではない。


でも。


客に近い男だった。


守ってくれる人だった。


でも。


距離があった。


階級で呼ぶ。


職業で呼ぶ。


——少佐。


それを今日。


一つ外した。


——弦一郎。


名前で呼んで。


そう言った。


千代は下を向いた。


耳が熱い。


耳の根も赤い。


自分でも分かる。


訓練された声を整える。


「……はい」


弦一郎はうなずいた。


そして。


本当にそれだけを言いたかったように。


窓を見る。


「座りましょう」


千代。


「はい」


二人は座った。


窓の外。


逗子の海。


夜。


黒い。


静か。


何も話さない。


でも。


気まずい沈黙ではなかった。


それぞれ重いものを持っている。


弦一郎。


九年庵。


国。


戦争。


未来。


千代。


自由。


過去。


これから。


でも。


同じ部屋にいる。


それだけで、少し重さが軽くなる。


そんな沈黙だった。


弦一郎は海を見る。


終電で浮かんだ問いが、もう一度出てくる。


——彼女は望んでいるか。


横を見る。


千代は下を向いている。


まだ、答えは分からない。


でも。


一つ分かる。


今夜。


彼女はここにいた。


待っていた。


扉を開いたら。


「おかえりなさい」


そう言った。


それが何を意味するか。


まだ分からない。


でも。


それは事実だった。


弦一郎は、そこまで考える。


それ以上は行かない。


また窓の外を見る。


黒い逗子湾。


静かだった。


※  ※  ※


千代は隣に座っている。


心の中で、一度言う。


——弦一郎。


四文字。


名前。


でも。


彼女の中では。


今まで「少佐」と呼んでいた人が、突然違う重さを持つ。


——弦一郎。


もう一度、心の中で呼ぶ。


声には出さない。


まだ出せない。


でも。


その名前は、自分の中にもうある。


彼女の本名は——。


遙といった。


彼は。


「弦一郎と呼んでください」


そう言った。


彼女は。


「おかえりなさい」


そう言った。


その二つの言葉が、どれだけ大きいか。


彼は、まだ知らない。


彼女は知っている。


窓の外。


逗子湾。


黒い。


静か。


海風が、少しずつ馴染んできた塩の匂いを運ぶ。


胸の中。


あの名前のないもの。


まだ名前はない。


でも。


そこにある。


重く。


温かく。


※  ※  ※


——第十九話 了——

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