雨を待つ日々
八月になった。
朝、目を覚ます。
カーテンを開ける。
青空だった。
小さく息を吐く。
最近、この動作が朝の習慣になっていた。
天気予報を見る前に空を見る。
そして、雨ではないことを知る。
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蝉の声が部屋の中まで聞こえてくる。
眩しいほどの日差しが窓から差し込んでいた。
洗濯物はよく乾くだろう。
出かける人にとっては気持ちの良い天気なのかもしれない。
けれど私は、少しだけ肩を落とした。
雨が降らない。
今日も、あの街へは行けない。
⸻
朝ごはんを食べる。
食器を洗う。
本を読む。
途中で集中できなくなる。
ページを閉じる。
時計を見る。
まだ十時だった。
無職になってから、時間はゆっくり流れるようになった。
仕事をしていた頃は、一日があっという間だった。
気づけば昼休みになり、気づけば夕方になり、帰宅して眠る。
毎日が忙しく過ぎていった。
今は違う。
時計の針は動いているのに、時間だけが部屋に留まっているようだった。
⸻
昼過ぎ。
求人サイトを開く。
どの仕事も私には難しいと感じる。
私は画面を閉じる。
また別の求人を見る。
応募しようか迷う。
ノートを開く。
ページの上に「退職理由」とだけ書く。
ペンを持つ。
すぐには書けなかった。
「疲れた」
一度そう書いて、線を引く。
違う。
それだけではなかった。
また書く。
「少し休みたかった」
それもしっくりこない。
私はしばらくペンを持ったまま考えた。
ページを閉じる。
答えはまだまとまらなかった。
けれど、考えようと思えたことは、半年前の私にはなかったことだった。
⸻
夕方。
スーパーへ行く。
買い物かごには牛乳と食パン、それから卵。
夕飯を考えながら歩く。
仕事帰りらしい人たちとすれ違う。
スーツ姿。
制服姿。
駅へ向かう人たち。
私は買い物袋を持って反対方向へ歩いていた。
ふと、自分だけ時間の流れが違う場所にいるような気がした。
誰にも何も言われない。
それなのに、胸の奥が少し痛んだ。
⸻
家へ帰る。
夕飯を作る。
テレビをつける。
天気予報が始まる。
思わず手を止める。
「来週も厳しい暑さが続くでしょう。」
画面には晴れのマークが並んでいた。
私は静かにテレビを消した。
⸻
雨が恋しい。
そんなことを思う日が来るなんて、半年前の私は想像もしなかった。
雨の日は好きだった。
でも、待つほどではなかった。
今は違う。
私は雨を待っている。
雨が降れば、あの街へ行ける。
花屋の女性に会える。
雨宿りで珈琲を飲める。
ノートを書く男性が、今日も何かを書いているかもしれない。
時計店の店主は、また静かに笑ってくれるだろうか。
東屋の少女は、本を抱えて待っているだろうか。
私は気づかないうちに、あの街を思い浮かべていた。
⸻
それから、一週間が過ぎた。
雨は降らなかった。
毎朝カーテンを開けた。
毎日同じ青空だった。
白い雲が流れていく。
その景色は綺麗なはずなのに、どこか物足りなかった。
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ある朝、空気が少しだけ湿っていた。
窓を開ける。
風が変わっている。
もしかしたら。
スマートフォンで雨雲レーダーを開いた。
遠くに小さな雨雲があった。
少しずつ近づいてくる。
胸が高鳴る。
久しぶりだった。
こんな気持ちになるのは。
何度も画面を更新した。
少し近づく。
また更新する。
けれど、一時間後。
雨雲は進路を変えてしまった。
私の住む街を避けるように、東へ流れていく。
画面から雨雲が消えた。
スマートフォンを静かに伏せた。
「……そっか。」
誰に言うでもなく呟く。
部屋には私しかいない。
⸻
午後。
本棚からノートを取り出した。
真っ白なページを開く。
ペンを持つ。
そして、雨の街の地図を描き始めた。
花屋。
雨宿り。
雨燕時計店。
東屋のある広場。
歩いた道を思い出しながら、ゆっくり線を引く。
正しい地図ではない。
記憶だけを頼りに描いた街だった。
それでも、描いているうちに少しだけ安心した。
忘れたくなかった。
あの街を。
あの雨の日を。
⸻
夜になっても雨は降らなかった。
窓を開ける。
乾いた夏の風が入ってくる。
空を見上げた。
星がよく見える。
晴れている証拠だった。
「明日は降るかな?」
そう呟いてみる。
返事はない。
けれど、明日の天気予報を見ようと思った。
⸻
その夜、日記にはこう書いた。
「あの街へ行けないことで、私は初めて気づいた。
私は何も変わっていないと思っていた。
けれど、本当は違った。
花の名前を覚えた。
珈琲の香りに足を止めるようになった。
雨の日を待つようになった。
そして、以前より少しだけ、自分のこれからを考えられるようになっていた。
変わるというのは、劇的なことではないのかもしれない。
誰かに褒められることでも、目に見える成果でもなくて。
昨日の自分より、ほんの少し違う景色が見えることなのかもしれない。」




