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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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9/11

雨を待つ日々

八月になった。


朝、目を覚ます。


カーテンを開ける。


青空だった。


小さく息を吐く。


最近、この動作が朝の習慣になっていた。


天気予報を見る前に空を見る。


そして、雨ではないことを知る。



蝉の声が部屋の中まで聞こえてくる。


眩しいほどの日差しが窓から差し込んでいた。


洗濯物はよく乾くだろう。


出かける人にとっては気持ちの良い天気なのかもしれない。


けれど私は、少しだけ肩を落とした。


雨が降らない。


今日も、あの街へは行けない。



朝ごはんを食べる。


食器を洗う。


本を読む。


途中で集中できなくなる。


ページを閉じる。


時計を見る。


まだ十時だった。


無職になってから、時間はゆっくり流れるようになった。


仕事をしていた頃は、一日があっという間だった。


気づけば昼休みになり、気づけば夕方になり、帰宅して眠る。


毎日が忙しく過ぎていった。


今は違う。


時計の針は動いているのに、時間だけが部屋に留まっているようだった。



昼過ぎ。


求人サイトを開く。


どの仕事も私には難しいと感じる。


私は画面を閉じる。


また別の求人を見る。


応募しようか迷う。


ノートを開く。


ページの上に「退職理由」とだけ書く。


ペンを持つ。


すぐには書けなかった。


「疲れた」


一度そう書いて、線を引く。


違う。


それだけではなかった。


また書く。


「少し休みたかった」


それもしっくりこない。


私はしばらくペンを持ったまま考えた。


ページを閉じる。


答えはまだまとまらなかった。


けれど、考えようと思えたことは、半年前の私にはなかったことだった。



夕方。


スーパーへ行く。


買い物かごには牛乳と食パン、それから卵。


夕飯を考えながら歩く。


仕事帰りらしい人たちとすれ違う。


スーツ姿。


制服姿。


駅へ向かう人たち。


私は買い物袋を持って反対方向へ歩いていた。


ふと、自分だけ時間の流れが違う場所にいるような気がした。


誰にも何も言われない。


それなのに、胸の奥が少し痛んだ。



家へ帰る。


夕飯を作る。


テレビをつける。


天気予報が始まる。


思わず手を止める。


「来週も厳しい暑さが続くでしょう。」


画面には晴れのマークが並んでいた。


私は静かにテレビを消した。



雨が恋しい。


そんなことを思う日が来るなんて、半年前の私は想像もしなかった。


雨の日は好きだった。


でも、待つほどではなかった。


今は違う。


私は雨を待っている。


雨が降れば、あの街へ行ける。


花屋の女性に会える。


雨宿りで珈琲を飲める。


ノートを書く男性が、今日も何かを書いているかもしれない。


時計店の店主は、また静かに笑ってくれるだろうか。


東屋の少女は、本を抱えて待っているだろうか。


私は気づかないうちに、あの街を思い浮かべていた。



それから、一週間が過ぎた。


雨は降らなかった。


毎朝カーテンを開けた。


毎日同じ青空だった。


白い雲が流れていく。


その景色は綺麗なはずなのに、どこか物足りなかった。



ある朝、空気が少しだけ湿っていた。


窓を開ける。


風が変わっている。


もしかしたら。


スマートフォンで雨雲レーダーを開いた。


遠くに小さな雨雲があった。


少しずつ近づいてくる。


胸が高鳴る。


久しぶりだった。


こんな気持ちになるのは。


何度も画面を更新した。


少し近づく。


また更新する。


けれど、一時間後。


雨雲は進路を変えてしまった。


私の住む街を避けるように、東へ流れていく。


画面から雨雲が消えた。


スマートフォンを静かに伏せた。


「……そっか。」


誰に言うでもなく呟く。


部屋には私しかいない。



午後。


本棚からノートを取り出した。


真っ白なページを開く。


ペンを持つ。


そして、雨の街の地図を描き始めた。


花屋。


雨宿り。


雨燕時計店。


東屋のある広場。


歩いた道を思い出しながら、ゆっくり線を引く。


正しい地図ではない。


記憶だけを頼りに描いた街だった。


それでも、描いているうちに少しだけ安心した。


忘れたくなかった。


あの街を。


あの雨の日を。



夜になっても雨は降らなかった。


窓を開ける。


乾いた夏の風が入ってくる。


空を見上げた。


星がよく見える。


晴れている証拠だった。


「明日は降るかな?」


そう呟いてみる。


返事はない。


けれど、明日の天気予報を見ようと思った。



その夜、日記にはこう書いた。


「あの街へ行けないことで、私は初めて気づいた。


私は何も変わっていないと思っていた。


けれど、本当は違った。


花の名前を覚えた。


珈琲の香りに足を止めるようになった。


雨の日を待つようになった。


そして、以前より少しだけ、自分のこれからを考えられるようになっていた。


変わるというのは、劇的なことではないのかもしれない。


誰かに褒められることでも、目に見える成果でもなくて。


昨日の自分より、ほんの少し違う景色が見えることなのかもしれない。」

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