当たり前だった雨
七月に入っていた。
窓の外では蝉が鳴いている。
朝起きると、いつものように天気予報を見た。
晴れ。
明日も晴れ。
その次の日も晴れ。
しばらく画面を見つめてから、そっと閉じる。
最近、雨が少ない。
そんなことを思うようになったのは、あの街を知ってからだった。
雨が降らなければ、あの街へは行けない。
だから、以前より天気を気にするようになっていた。
⸻
結局、雨は六日後に降った。
傘を持って家を出る。
久しぶりの雨だった。
路地を抜ける。
雨の日だけの街へ続く道を歩く。
少しだけ足を速めた。
⸻
街は今日もそこにあった。
石畳。
雨に濡れた街灯。
軒先から落ちる雫。
見慣れた景色を見て、胸の奥が少しだけ緩む。
ほっとしている自分に気づいて、私は小さく笑った。
⸻
最初に花屋へ向かった。
店先には季節の花が並んでいる。
けれど、いつもより数が少ない気がした。
気のせいかもしれない。
店先の花を眺める。
女性がこちらに気づいて微笑んだ。
「久しぶりですね。」
「そんな気がします。」
私が答えると、女性は頷いた。
そして空を見上げる。
「最近、雨が少ないですから。」
雨は降っている。
けれど女性は、どこか遠くを見るような顔をしていた。
「去年はもっと降っていた気がするんですけどね。」
私は曖昧に頷く。
その言葉が少しだけ心に残った。
⸻
そのあと、雨宿りへ向かった。
扉を開く。
ベルの音。
珈琲の香り。
それだけで安心する。
いつもの席へ腰掛けた。
窓際を見る。
ノートを書く男性がいた。
けれど今日は、なかなかペンが動いていなかった。
窓の外を見ている時間の方が長い。
⸻
帰り道の珈琲が運ばれてくる。
しばらくして、男性がふと顔を上げた。
「久しぶりですね。」
私は笑った。
今日だけで二度目だった。
「最近、晴ればかりでしたからね。」
そう答えると、男性は頷く。
そして窓の外を見た。
「前はもっと降っていた気がするんですけどね。」
花屋の女性と同じことを言う。
私は少しだけ驚いた。
「皆そう言うんですね。」
男性は小さく笑う。
「そうですか。」
それから少し考えるような顔をした。
「雨の日の記録が減ってしまうので。」
ノートに視線を落とす。
私は何も言わなかった。
けれど、男性の言葉は妙に寂しく聞こえた。
⸻
雨宿りを出たあと、私は雨燕時計店へ向かった。
扉を開く。
店内にはいつものように時計の音が響いていた。
カチ。
コチ。
カチ。
コチ。
それぞれ違う速さで時を刻んでいる。
⸻
「こんにちは。」
店主が顔を上げる。
私はなんとなく言った。
「最近、雨が少ないですね。」
店主は少し黙った。
それから静かに頷く。
「そうですね。」
⸻
壁の時計を見上げる。
「この街にとっては、少し困ることかもしれません。」
私は首を傾げた。
「困る?」
店主は微笑む。
「雨の日の街ですから。」
私はつられて笑う。
けれど店主は、そのあとも時計を見つめていた。
「ずっと昔にも、一度あったそうですよ。」
「何がですか?」
「雨の少ない季節です。」
それだけ言うと、店主は話を終えてしまった。
続きを聞けなかった。
なぜだろう。
聞いてはいけない気がした。
⸻
帰り道。
広場の東屋の前を通る。
少女は今日も本を抱えていた。
屋根を叩く雨音を聞きながら、静かに座っている。
⸻
「こんにちは。」
私が声をかける。
少女は顔を上げて頷いた。
「最近、雨が少なかったね。」
何気なく言う。
少女は空を見上げた。
雨雲の向こうを見るように。
「そうだね。」
少し間が空く。
「また降るよ。」
私は言った。
⸻
雨は毎年降る。
梅雨もある。
夏になれば夕立もある。
当たり前のことだ。
⸻
少女はしばらく黙っていた。
そして小さな声で言った。
「そうかな。」
私は思わず聞き返す。
「降るでしょう?」
少女は答えなかった。
ただ本を抱きしめる。
その姿を見ていると、なぜだか胸の奥がざわついた。
理由は分からない。
けれど、その沈黙だけが妙に心に残った。
⸻
夜。
日記を開いた。
花屋の女性のことを書く。
ノートを書く男性のことを書く。
時計店の店主のことを書く。
東屋の少女のことを書く。
⸻
皆、同じことを言っていた。
最近、雨が少ない。
⸻
最後のページにこう書いた。
「最近、雨が少ない。
皆が同じことを言っていた。
それでも私は、また降るだろうと思っている。
雨は毎年降るものだから。
当たり前のように。
けれど、その当たり前を疑ったことは、一度もなかった。
当たり前だと思っていた雨が、当たり前ではないかもしれない。」
ペンを置く。
窓の外を見る。
雨はもう止んでいた。
雲の切れ間から、僅かに星が見えている。
その光を見ながら、私はなぜか少しだけ不安になった。
理由は、まだ分からなかった。




