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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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8/11

当たり前だった雨

七月に入っていた。


窓の外では蝉が鳴いている。


朝起きると、いつものように天気予報を見た。


晴れ。


明日も晴れ。


その次の日も晴れ。


しばらく画面を見つめてから、そっと閉じる。


最近、雨が少ない。


そんなことを思うようになったのは、あの街を知ってからだった。


雨が降らなければ、あの街へは行けない。


だから、以前より天気を気にするようになっていた。



結局、雨は六日後に降った。


傘を持って家を出る。


久しぶりの雨だった。


路地を抜ける。


雨の日だけの街へ続く道を歩く。


少しだけ足を速めた。



街は今日もそこにあった。


石畳。


雨に濡れた街灯。


軒先から落ちる雫。


見慣れた景色を見て、胸の奥が少しだけ緩む。


ほっとしている自分に気づいて、私は小さく笑った。



最初に花屋へ向かった。


店先には季節の花が並んでいる。


けれど、いつもより数が少ない気がした。


気のせいかもしれない。


店先の花を眺める。


女性がこちらに気づいて微笑んだ。


「久しぶりですね。」


「そんな気がします。」


私が答えると、女性は頷いた。


そして空を見上げる。


「最近、雨が少ないですから。」


雨は降っている。


けれど女性は、どこか遠くを見るような顔をしていた。


「去年はもっと降っていた気がするんですけどね。」


私は曖昧に頷く。


その言葉が少しだけ心に残った。



そのあと、雨宿りへ向かった。


扉を開く。


ベルの音。


珈琲の香り。


それだけで安心する。


いつもの席へ腰掛けた。


窓際を見る。


ノートを書く男性がいた。


けれど今日は、なかなかペンが動いていなかった。


窓の外を見ている時間の方が長い。



帰り道の珈琲が運ばれてくる。


しばらくして、男性がふと顔を上げた。


「久しぶりですね。」


私は笑った。


今日だけで二度目だった。


「最近、晴ればかりでしたからね。」


そう答えると、男性は頷く。


そして窓の外を見た。


「前はもっと降っていた気がするんですけどね。」


花屋の女性と同じことを言う。


私は少しだけ驚いた。


「皆そう言うんですね。」


男性は小さく笑う。


「そうですか。」


それから少し考えるような顔をした。


「雨の日の記録が減ってしまうので。」


ノートに視線を落とす。


私は何も言わなかった。


けれど、男性の言葉は妙に寂しく聞こえた。



雨宿りを出たあと、私は雨燕時計店へ向かった。


扉を開く。


店内にはいつものように時計の音が響いていた。


カチ。


コチ。


カチ。


コチ。


それぞれ違う速さで時を刻んでいる。



「こんにちは。」


店主が顔を上げる。


私はなんとなく言った。


「最近、雨が少ないですね。」


店主は少し黙った。


それから静かに頷く。


「そうですね。」



壁の時計を見上げる。


「この街にとっては、少し困ることかもしれません。」


私は首を傾げた。


「困る?」


店主は微笑む。


「雨の日の街ですから。」


私はつられて笑う。


けれど店主は、そのあとも時計を見つめていた。


「ずっと昔にも、一度あったそうですよ。」


「何がですか?」


「雨の少ない季節です。」


それだけ言うと、店主は話を終えてしまった。


続きを聞けなかった。


なぜだろう。


聞いてはいけない気がした。



帰り道。


広場の東屋の前を通る。


少女は今日も本を抱えていた。


屋根を叩く雨音を聞きながら、静かに座っている。



「こんにちは。」


私が声をかける。


少女は顔を上げて頷いた。


「最近、雨が少なかったね。」


何気なく言う。


少女は空を見上げた。


雨雲の向こうを見るように。


「そうだね。」


少し間が空く。


「また降るよ。」


私は言った。



雨は毎年降る。


梅雨もある。


夏になれば夕立もある。


当たり前のことだ。



少女はしばらく黙っていた。


そして小さな声で言った。


「そうかな。」


私は思わず聞き返す。


「降るでしょう?」


少女は答えなかった。


ただ本を抱きしめる。


その姿を見ていると、なぜだか胸の奥がざわついた。


理由は分からない。


けれど、その沈黙だけが妙に心に残った。



夜。


日記を開いた。


花屋の女性のことを書く。


ノートを書く男性のことを書く。


時計店の店主のことを書く。


東屋の少女のことを書く。



皆、同じことを言っていた。


最近、雨が少ない。



最後のページにこう書いた。


「最近、雨が少ない。


皆が同じことを言っていた。


それでも私は、また降るだろうと思っている。


雨は毎年降るものだから。


当たり前のように。


けれど、その当たり前を疑ったことは、一度もなかった。


当たり前だと思っていた雨が、当たり前ではないかもしれない。」


ペンを置く。


窓の外を見る。


雨はもう止んでいた。


雲の切れ間から、僅かに星が見えている。


その光を見ながら、私はなぜか少しだけ不安になった。


理由は、まだ分からなかった。

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