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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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10/11

変わらない街、変わりゆく街

朝、窓を叩く雨音で目が覚める。


目を開けた瞬間、私は笑っていた。


急いでカーテンを開ける。


灰色の空。


濡れたアスファルト。


傘を差して歩く人。


その景色が、今日は少しだけ愛おしかった。



朝食を済ませると、私は傘を持って家を出た。


自然と足が速くなる。


路地へ向かう道も、もう迷わない。


雨の日だけ現れる街は、今日も静かに私を迎えてくれた。


石畳は濡れて光っている。


雨粒が水たまりに小さな輪をつくる。


胸の奥に張っていたものが、ゆっくりほどけていく気がした。


「ただいま。」


思わず、小さな声がこぼれた。


自分でも驚いて、少しだけ照れ笑いをする。



最初に向かったのは花屋だった。


店先には桔梗が並んでいる。


自然とその花に目が留まった。


「こんにちは。」


女性が微笑む。


「こんにちは。」


私は答える。


「桔梗、咲きましたね。」


そう言うと、女性は少し驚いたように目を丸くした。


「覚えていてくださったんですね。」


私は頷く。


花の名前を覚えるなんて、半年前の私なら考えもしなかった。



けれど、ふと気づく。


店先が少し寂しい。


花の数が、以前より少ない。


「今日は仕入れが少なかったんですか?」


何気なく尋ねる。


女性は少しだけ考え、それから首を横に振った。


「……いいえ。今年は、あまり咲かなくて。」


そう言って微笑んだ。


けれど、その笑顔はどこか力がなかった。


私はそれ以上聞けなかった。



雨宿りへ向かう。


扉を開けると、いつものベルが鳴った。


珈琲の香りがふわりと漂う。


その香りを胸いっぱいに吸い込む。


「ああ、この匂いだ。」


心の中で呟く。


今日は窓際の席が空いていた。


ノートを書く男性はいない。


初めてだった。


少しだけ落ち着かない。


店主が珈琲を運んできてくれる。


「いつもの香りですね。」


私が言うと、店主は穏やかに笑った。


「覚えてくださったんですね。」


その一言が、少し嬉しかった。



窓の外を眺める。


雨は降っている。


それなのに、街が静かすぎる気がした。


以前は気にならなかった静けさ。


今日は、その静けさが広く感じる。


席がいくつか空いているからだろうか。


それとも。


理由を考えたが、答えは見つからなかった。



店を出て、雨燕時計店へ向かう。


店の扉を開ける。


カチ。


コチ。


いつもの音。


けれど、一つだけ違和感があった。


店の奥に置かれた柱時計が止まっている。


私は思わず近づいた。


「壊れたんですか?」


店主は時計を見つめたまま答えた。


「少し、休んでいるだけですよ。」


私は小さく笑う。


「時計も休むことがあるんですね。」


「ええ。」


店主は穏やかに頷いた。


「長く動くためには、休む時間も必要ですから。」


その言葉は時計に向けたものなのか、それとも私に向けたものなのか、分からなかった。



帰り道、広場へ向かう。


東屋には少女がいた。


今日も本を抱えている。


「こんにちは。」


少女は頷く。


「こんにちは。」


東屋の屋根を叩く雨音を聞きながら隣に立った。


「今日は誰か来た?」


少女は少し考えてから首を横に振る。


「まだ。」


「そっか。」


沈黙が流れる。


雨を見つめる。


少女がぽつりと言った。


「前はね」


「ん?」


「もっと、雨の音が大きかった気がする。」


耳を澄ませる。


屋根を叩く雨。


石畳に落ちる雨。


十分に聞こえている。


「そうかな。」


そう答えながらも、私はもう一度耳を澄ませた。


どこか物足りない。


そんな気がした。



帰る時間になった。


街を振り返る。


変わらない石畳。


変わらない街灯。


変わらない雨。


それなのに、何かが少しずつ変わっている。


その正体は、まだ分からなかった。



夜。


日記を開く。


今日は久しぶりに街へ行けたことを書く。


桔梗のこと。


珈琲の香りのこと。


休んでいる柱時計のこと。


少女の言葉を書く。


そして最後に、こう記した。


「久しぶりに街へ行けた。


変わらない景色に安心した。


けれど、変わらないと思っていた景色の中にも、小さな違いがあった。


花の数。


静けさ。


雨音。


どれも気のせいかもしれない。


でも、気のせいではないような気もする。


雨の日の街は、今日も私を迎えてくれた。


次の雨の日も、また雨の街へ行けますように。」


ノートを閉じる。


窓の外では、まだ雨が静かに降っていた。

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