雨燕時計店
雨の日の街を歩いていると、少しずつ見慣れたものが増えてきた。
石畳の曲がり角。
花屋の店先。
雨宿りの窓辺の席。
以前は迷子のような気持ちで歩いていたのに、今では自然と足が向く場所がある。
それは少し不思議なことだった。
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その日、まだ入ったことのない通りを歩いていた。
細い路地だった。
建物の軒先から雨粒が落ちている。
見上げると、小さな看板が揺れていた。
「雨燕時計店」
以前から名前だけは知っていた。
けれど、なぜか入る機会がなかった。
少し立ち止まる。
そして扉を押した。
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店内は思っていたより静かだった。
壁一面に時計が並んでいる。
丸い時計。
四角い時計。
古い柱時計。
小さな置き時計。
様々な時計が、それぞれ違う音を刻んでいた。
カチ。
コチ。
カチ。
コチ。
音が重なっている。
なのに不思議とうるさくない。
雨音と混ざり合って、どこか心地よかった。
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「いらっしゃい。」
奥から声がした。
店主らしい男性が顔を上げる。
穏やかな目をしていた。
軽く会釈をする。
そして店内を見回していて、あることに気づいた。
時計ごとに時間が違う。
五分ほどずれているものもあれば、もっと違うものもある。
思わず尋ねた。
「時間が違うんですね。」
店主は頷いた。
「そうですね。」
まるで当たり前のことのような返事だった。
「直さないんですか?」
すると店主は少し笑った。
「全部を同じ時間に合わせる必要もありませんから。」
私は首を傾げる。
時計なのだから、正しい時間を示すものではないのだろうか。
そんな顔をしたのかもしれない。
店主は棚の上の時計を見ながら言った。
「急いでいる人もいれば、ゆっくり歩く人もいます。」
「はい。」
「時計も似たようなものです。」
ますます分からなくなる。
店主はそれ以上説明しなかった。
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店の奥に、小さな置き時計が並んでいた。
その一つを手に取る。
白い文字盤。
細い針。
飾り気のない時計だった。
けれど、なぜか気になった。
耳を近づける。
カチ。
カチ。
規則正しい音が聞こえる。
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「その時計は人気がありますよ。」
店主が言う。
「そうなんですか。」
「急がない時計なので。」
思わず笑った。
「時計にそんな違いがあるんですか?」
「ありますよ。」
店主は本気らしかった。
「人にもありますから。」
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時計を棚へ戻した。
ふと、仕事を辞めてからの日々を思い出す。
半年。
周りは進んでいた。
働いている友人たち。
昇進した同僚。
結婚した知人。
季節も変わった。
私は取り残されている気がしていた。
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店主は窓の外を見ていた。
「皆、同じ速さで進んでいるように見えますか?」
突然そう尋ねられる。
少し考えた。
「見えていたかもしれません。」
店主は頷いた。
「遠くから見るとそう見えるんです。」
雨粒が窓を流れていく。
「でも近くで見ると、案外ばらばらですよ。」
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店内の時計を見回した。
どれも違う音を刻んでいる。
違う時間を指している。
それでも壊れているようには見えなかった。
それぞれが、それぞれの場所で動いている。
ただそれだけだった。
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店を出る頃には、雨が少し強くなっていた。
私は軒先で立ち止まる。
背後から店主の声が聞こえた。
「焦らなくても大丈夫ですよ。」
私は振り返る。
店主は笑っていた。
「雨の日は足元が滑りますから。」
それだけだった。
仕事のことも。
将来のことも。
何も聞いていない。
それなのに、なぜかその言葉は胸に残った。
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雨の中を歩く。
石畳は濡れている。
確かに急いで歩けば転びそうだった。
私は少しだけ歩幅を小さくした。
雨宿りへ向かう道も。
帰り道も。
今日はいつもよりゆっくり歩いた。
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家に帰ってから、私は日記を開いた。
今日見た時計のことを書く。
店主の言葉を書く。
そして最後に、こう書いた。
「皆が同じ速さで進んでいるように見えていた。
けれど、本当は違うのかもしれない。」
雨の日の帰り道を思い出す。
急がない時計の音。
濡れた石畳。
小さくした歩幅。
それでも私は、ちゃんと前へ進んでいた。




