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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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6/11

雨燕時計店

雨の日の街を歩いていると、少しずつ見慣れたものが増えてきた。


石畳の曲がり角。


花屋の店先。


雨宿りの窓辺の席。


以前は迷子のような気持ちで歩いていたのに、今では自然と足が向く場所がある。


それは少し不思議なことだった。



その日、まだ入ったことのない通りを歩いていた。


細い路地だった。


建物の軒先から雨粒が落ちている。


見上げると、小さな看板が揺れていた。


「雨燕時計店」


以前から名前だけは知っていた。


けれど、なぜか入る機会がなかった。


少し立ち止まる。


そして扉を押した。



店内は思っていたより静かだった。


壁一面に時計が並んでいる。


丸い時計。


四角い時計。


古い柱時計。


小さな置き時計。


様々な時計が、それぞれ違う音を刻んでいた。


カチ。


コチ。


カチ。


コチ。


音が重なっている。


なのに不思議とうるさくない。


雨音と混ざり合って、どこか心地よかった。



「いらっしゃい。」


奥から声がした。


店主らしい男性が顔を上げる。


穏やかな目をしていた。


軽く会釈をする。


そして店内を見回していて、あることに気づいた。


時計ごとに時間が違う。


五分ほどずれているものもあれば、もっと違うものもある。


思わず尋ねた。


「時間が違うんですね。」


店主は頷いた。


「そうですね。」


まるで当たり前のことのような返事だった。


「直さないんですか?」


すると店主は少し笑った。


「全部を同じ時間に合わせる必要もありませんから。」


私は首を傾げる。


時計なのだから、正しい時間を示すものではないのだろうか。


そんな顔をしたのかもしれない。


店主は棚の上の時計を見ながら言った。


「急いでいる人もいれば、ゆっくり歩く人もいます。」


「はい。」


「時計も似たようなものです。」


ますます分からなくなる。


店主はそれ以上説明しなかった。



店の奥に、小さな置き時計が並んでいた。


その一つを手に取る。


白い文字盤。


細い針。


飾り気のない時計だった。


けれど、なぜか気になった。


耳を近づける。


カチ。


カチ。


規則正しい音が聞こえる。



「その時計は人気がありますよ。」


店主が言う。


「そうなんですか。」


「急がない時計なので。」


思わず笑った。


「時計にそんな違いがあるんですか?」


「ありますよ。」


店主は本気らしかった。


「人にもありますから。」



時計を棚へ戻した。


ふと、仕事を辞めてからの日々を思い出す。


半年。


周りは進んでいた。


働いている友人たち。


昇進した同僚。


結婚した知人。


季節も変わった。


私は取り残されている気がしていた。



店主は窓の外を見ていた。


「皆、同じ速さで進んでいるように見えますか?」


突然そう尋ねられる。


少し考えた。


「見えていたかもしれません。」


店主は頷いた。


「遠くから見るとそう見えるんです。」


雨粒が窓を流れていく。


「でも近くで見ると、案外ばらばらですよ。」



店内の時計を見回した。


どれも違う音を刻んでいる。


違う時間を指している。


それでも壊れているようには見えなかった。


それぞれが、それぞれの場所で動いている。


ただそれだけだった。



店を出る頃には、雨が少し強くなっていた。


私は軒先で立ち止まる。


背後から店主の声が聞こえた。


「焦らなくても大丈夫ですよ。」


私は振り返る。


店主は笑っていた。


「雨の日は足元が滑りますから。」


それだけだった。


仕事のことも。


将来のことも。


何も聞いていない。


それなのに、なぜかその言葉は胸に残った。



雨の中を歩く。


石畳は濡れている。


確かに急いで歩けば転びそうだった。


私は少しだけ歩幅を小さくした。


雨宿りへ向かう道も。


帰り道も。


今日はいつもよりゆっくり歩いた。



家に帰ってから、私は日記を開いた。


今日見た時計のことを書く。


店主の言葉を書く。


そして最後に、こう書いた。


「皆が同じ速さで進んでいるように見えていた。


けれど、本当は違うのかもしれない。」


雨の日の帰り道を思い出す。


急がない時計の音。


濡れた石畳。


小さくした歩幅。


それでも私は、ちゃんと前へ進んでいた。

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