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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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雨の日の記録

以前より天気予報を見るようになっていた。


明日は雨。


その予報を見ると少しだけ安心する。


そんな自分が不思議だった。



街へ向かう。


石畳は今日も濡れている。


花屋の前を通ると、店先には前回とは違う花が並んでいた。


桔梗の姿はもう見当たらない。


少し立ち止まった。


名前を知った花を探してしまう。


それが少し可笑しかった。


花屋の女性がこちらに気づいて手を振る。


私も手を振り返した。


それだけで少し嬉しくなる。



「雨宿り」の扉を開く。


ベルの音。


珈琲の香り。


窓を叩く雨音。


いつもの席へ向かった。


そして気づく。


窓際の席に、あの男性が座っている。


今日もノートを開いていた。


万年筆が静かに動いている。


珈琲を飲みながら、その様子をぼんやり眺めた。


何を書いているのだろう。


以前から気になっていた。


けれど聞くほどのことでもない気がしていた。



しばらくして、男性が席を立った。


空になったカップを持ってカウンターへ向かう。


そのときだった。


テーブルの上にノートが開いたまま残されている。


慌てて目を逸らした。


覗き見るつもりはなかった。


ただ、視界の端に日付だけが見えた。


六月二十八日



それだけだった。



男性が戻ってくる。


再び席に着く。


少し迷った。


けれど、気になっていたことを聞いてみることにした。


「そのノート」


男性が顔を上げる。


「日記ですか?」


少しだけ考えてから、男性は笑った。


「似たようなものです。」


「毎回書いているんですか?」


「雨の日だけですね。」


窓の外を見る。


雨は相変わらず降り続いている。


「何を書いているんですか?」


今度は男性が少し考え込んだ。


「忘れたくないことを。」


そう答えた。



「特別なことですか?」


私が尋ねる。


男性は首を横に振った。


「むしろ逆です。」


窓辺の花瓶に目を向ける。


今日は白い花が挿してあった。


「珈琲が美味しかったこととか」


男性が言う。


「雨の音が静かだったこととか」


少し間を置く。


「今日見た花とか」


思わず笑った。


「花ですか。」


「花です。」


男性も少し笑う。


「そういうものほど、意外と忘れてしまうので。」



カップを見つめた。


珈琲の香りが漂っている。


母と行った喫茶店のことを思い出す。


大きなパフェ。


向かいに座る母。


珈琲の匂い。


思い出すのは、いつもそんなことだった。


特別な日だったわけではない。


ただの雨の日だった。



「忘れたくないことって」


ぽつりと言った。


「案外、小さなことなんですね。」


男性は頷いた。


「そうかもしれません。」


そして少しだけ窓の外を見た。


「だから書いているんです。」



帰る頃には雨が少し弱くなっていた。


店を出る。


石畳に雨粒が落ちる。


その音を聞きながら歩く。


花屋の前を通る。


白い花が並んでいる。


名前は分からない。


けれど、少し気になった。



その夜。


日記を開いた。


いつものように今日のことを書く。


花屋のこと。


珈琲のこと。


ノートを書く男性のこと。


書き終えてから、しばらくペンを止めた。


そして最後に一行だけ書き足した。


「特別な日だけが残るのだと思っていた。


けれど、本当に忘れたくないのは、こういう一日なのかもしれない。」


窓の外では、静かな雨が降っていた。

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