昨日とは違う花
雨の日が続いていた。
それはきっと梅雨のせいなのだろうけれど、少しだけ嬉しかった。
雨が降れば、あの街へ行ける。
そんなことを思うようになっている自分に気づいて、少し可笑しくなる。
六月の終わりの雨は静かだった。
傘を打つ音も柔らかく、街全体が薄い灰色のヴェールを纏っている。
石畳の道を歩いていると、ふと花の香りがした。
見ると、通り沿いの花屋が目に入る。
以前からそこにあったはずなのに、立ち止まったのは初めてだった。
店先には色とりどりの花が並んでいる。
雨粒を纏った花びらはどれも瑞々しく、曇り空の下でも鮮やかだった。
「いらっしゃい。」
店の奥から女性が顔を出した。
柔らかな笑顔の人だった。
「見ていきますか?」
「はい、少しだけ。」
私は並んだ花を眺める。
青や白、薄紫。
名前の知らない花ばかりだった。
「今日は桔梗がよく咲いているんです。」
女性が一輪の花を指差した。
紫色の花だった。
星のように開いた花びらが印象的だった。
「桔梗っていうんですね。」
「ええ。」
女性は嬉しそうに頷いた。
「この前までは紫陽花だったんですよ。」
私は少し驚く。
「そうなんですか」
「季節が変わると並ぶ花も変わるんです。」
女性は花の向きを整えながら続けた。
「毎日見ていると同じ景色に見えるんですけどね。」
雨が静かに降り続いている。
「でも本当は、少しずつ違っているんですよ。」
私はもう一度桔梗を見る。
確かにきれいだった。
けれど、それ以上のことは分からない。
先週の花との違いなんて、きっと私には見分けられない。
それでも、その言葉はなぜか心に残った。
⸻
花屋を後にして、喫茶店「雨宿り」の扉を開いた。
小さなベルが鳴る。
珈琲の香りがふわりと広がった。
窓際の席に座る。
しばらくして運ばれてきた珈琲を口に運んだときだった。
窓辺に置かれた小さな花瓶が目に入る。
そこには、一輪の紫色の花が挿してあった。
私は思わず少し笑う。
さっき見た花と同じだった。
カウンターの奥で店主が気づいたように顔を上げる。
「その花、桔梗ですよね。」
「ええ。」
店主は花瓶に目を向けた。
「今日、花屋さんに教えてもらったんです。」
そう言うと、店主は穏やかに笑った。
「桔梗という名前を知ると、前より目に留まるものですよ。」
私は花を見つめた。
もし花屋に寄らなかったら、この花にも気づかなかったかもしれない。
そこにあったのに。
見えていなかっただけで。
窓際では、あの男性が今日もノートを開いていた。
万年筆を動かす姿は相変わらず静かだった。
何を書いているのかは分からない。
けれど、以前のようなよそよそしさはもうなかった。
この街で見かける、知った顔のひとつになっていた。
雨の音を聞きながら珈琲を飲む。
それだけの時間だった。
それなのに、不思議と満たされた気持ちになる。
⸻
店を出る頃には、雨は少しだけ弱くなっていた。
花屋の前を通ると、女性がまだ店先に立っていた。
会釈をすると、女性も笑顔で手を振ってくれた。
少しだけ足を止める。
雨の街へ来るようになってから、まだそれほど時間は経っていない。
けれど。
気づけば、この街で知っている顔が増えていた。
⸻
その日の夜、日記を開いた。
今日見た桔梗のことを書く。
紫色だったこと。
星のような形をしていたこと。
花屋の女性の言葉。
そして店主の言葉。
しばらく考えてから、最後にこう書いた。
「桔梗という名前を知った。
それだけのことなのに、帰り道でも紫色の花が目に留まった。
見えていなかったのではなく、知らなかっただけなのかもしれない。
あの街には、まだ知らないものがたくさんある。」
窓の外では、まだ雨が降っていた。




