止まったままの時間
春だった景色は少しずつ色を変え、季節は夏へ向かおうとしている。
けれど私は、まだ同じ場所にいる気がした。
求人サイトを開く。
募集要項を読む。
応募ボタンを眺める。
そして閉じる。
そんな日を何度も繰り返していた。
今日も雨だった。
傘を差し、石畳の道を歩く。
気づけば足は自然と喫茶店「雨宿り」へ向かっていた。
店の扉を開く。
珈琲の香り。
柔らかな灯り。
いつもの静けさ。
そして――
前回来たときに見かけた男性がいた。
同じ席。
同じノート。
同じ万年筆。
男性も私に気づいたらしく、軽く会釈をした。
私も頭を下げる。
それだけのはずだった。
けれど、帰り道の珈琲が運ばれてきた時だった。
「やっぱり頼んでしまいました。」
声がして顔を上げる。
男性のテーブルにも同じ珈琲が置かれていた。
思わず少し笑う。
「どうですか?」
「美味しいですね。」
男性はそう言ってカップを持ち上げた。
窓の外では雨が降っている。
しばらく沈黙が続いたあと、不思議なくらい自然に言葉がこぼれた。
「私、仕事を辞めて半年なんです。」
言葉にすると、自分でも驚くほど重かった。
「半年も経っているのに、何も決められなくて…。」
窓の外を見る。
雨粒がガラスを流れ落ちていく。
「周りは働いているのに…。」
私は続ける。
「友達も前に進んでいるのに…。」
声が少し小さくなる。
「私だけ止まったままみたいなんです。」
男性はしばらく黙っていた。
そして窓の外へ目を向ける。
「雨の日って不思議ですよね。」
彼の声は穏やかだった。
私は黙って聞く。
「晴れの日は急がなきゃいけない気がするでしょう。」
男性は笑う。
「でも雨の日は違う。」
店の窓を雨粒が伝う。
「むしろゆっくり歩くべきだと思える。」
店内を見回した。
本を読んでいる人。
手紙を書いている人。
珈琲を飲んでいる人。
誰も急いでいない。
誰も何かに追われていない。
この街では、それが当たり前だった。
ふと思う。
半年間。
本当に止まっていたのだろうか。
悩んで。
迷って。
考えて。
苦しくて。
それでも毎日を過ごしてきた。
止まっていたように見えただけで、本当は少しずつ歩いていたのかもしれない。
その歩幅が、とても小さかっただけで。
気づけば珈琲は半分ほどになっていた。
雨は少し弱くなっている。
カップを両手で包んだ。
湯気がゆっくりと立ち上る。
まるで急がなくて良いと言われているようだった。
家に帰ると、私はノートを開いた。
しばらく考えてから、少しだけペンを動かす。
「季節だけが進み、私は同じものばかり見ていたと思っていた。
けれど、本当は少しずつ違う景色を見ていたのかもしれない。
雨に濡れた石畳も。珈琲の香りも。
半年前の私には見えていなかったものだった。」




