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雨の匂いがする  作者: 璃雨


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2/5

雨の日の喫茶店

一週間ぶりに雨が降った。


朝起きてカーテンを開けたとき、少しだけ嬉しかった。雨だ。


そう思った自分に驚く。


以前なら、洗濯物が乾かないとか、出かけるのが面倒だとか、そんなことばかり考えていたはずだった。


けれど今は違う。


窓を叩く雨音を聞きながら、私はあの街のことを思い出していた。


あの日見つけた、不思議な道。


夢だったのかもしれない。


そう思いながらも、確かめたい気持ちは消えなかった。


傘を持って家を出る。


住宅街を抜け、見覚えのある角を曲がる。


すると、そこには今日も石畳の道が続いていた。


私はほっと息をつく。


そして、ゆっくりと歩き始めた。


街は相変わらず静かだった。


石畳を打つ雨音。


軒先から落ちる雫の音。


遠くで鳴る扉の鈴。


聞こえる音は確かにあるのに、不思議なくらい騒がしさがない。


人通りは少なくなかった。


花を並べる店主。


本を抱えて歩く少女。


窓辺で編み物をしている老人。


誰も急いでいない。


まるで街全体が雨の速度で呼吸しているようだった。


風が吹く。


焼きたてのパンの香りが流れてくる。


少し進むと、今度は珈琲豆を挽く香ばしい匂いがした。


雨に濡れた石畳の匂いと混ざり合い、胸の奥が少しだけ温かくなる。


懐かしい、そう思った。


けれど何を懐かしいと思ったのかは分からなかった。


店の並ぶ通りを歩く。


どの店の看板にも、見慣れない文字が添えられていた。


文字なのか模様なのかも分からない。


眺めても意味は読み取れない。


それでも不思議と不安にはならなかった。


この街では、それが当たり前なのだろう。


通りの角を曲がったところで、私は足を止めた。


小さな店だった。


木枠の窓から橙色の灯りが漏れている。


軒先から落ちる雨粒が、一定のリズムで石畳を叩いていた。


入り口の横には古い木の看板が立て掛けられている。


『雨宿り』


白い文字は少し掠れていた。


長い間、雨に濡れ続けてきたような看板だった。


初めて見る店なのに、前から知っていたような気がした。


私は扉を押した。


カラン。


小さな鈴の音が鳴る。


店内は暖かい。


木の机と椅子。


壁いっぱいの本棚。


窓辺には観葉植物が並び、柔らかな灯りが店を照らしている。


客は数人いた。


本を読んでいる人。


ノートに何かを書いている人。


窓の外の雨を眺めている人。


誰も話していない。


それなのに居心地の悪さはなく、むしろ静けさそのものが店の一部のようだった。


「いらっしゃい。」


声をかけられて顔を上げる。


カウンターの向こうに、一人の女性が立っていた。


年齢はよく分からない。


けれど優しい目をしていた。


「お好きな席へどうぞ。」


私は窓際の席に腰を下ろした。


メニューを開く。


雨音ブレンド。


曇り空のミルクティー。


帰り道の珈琲。


少し迷ってから、私は「帰り道の珈琲」を頼んだ。


やがて運ばれてきた珈琲から、柔らかな湯気が立ちのぼる。


カップを持ち上げる。


そして、一口飲んだ。


その瞬間だった。


胸の奥で何かが揺れた。


湯気の向こうに、別の景色が浮かぶ。


私は小学生だった。


窓の外では雨が降っている。


向かいの席には母が座っていた。


母は白いカップを手にして、ゆっくりと珈琲を飲んでいる。


その香りがテーブルの上を漂っていた。


私は大きなパフェを前にして、夢中でスプーンを動かしている。


アイスクリームが少しずつ溶けていく。


母はそんな私を見て、時々笑った。


何を話していたのかは覚えていない。


店の名前も思い出せない。


けれど、母の珈琲の香りだけは覚えていた。


特別な日ではない。


誕生日でもない。


何かのお祝いでもない。


ただ雨の日に、母と喫茶店へ入っただけだ。


けれど確かに幸せだった時間。


窓を流れる雨粒。


食器が触れ合う小さな音。


母の珈琲の香り。


そして、パフェの甘さ。


あの頃の私は、それがずっと続くものだと思っていた。


私は手の中のカップを見つめた。


この珈琲は、あの日の味ではない。


店も違う。


けれど香りだけが、遠い記憶への扉を開いてくれたような気がした。


母との記憶を思い出したあと、璃菜はゆっくりと珈琲を飲んだ。


窓の外では雨が降り続いている。


石畳を打つ音が、遠くから聞こえる鐘の音と重なっていた。


ふと視線を上げると、少し離れた席の男性と目が合った。


四十代か五十代くらいだろうか。


開いたノートの上に万年筆を置き、こちらを見ていた。


気まずくなって視線を逸らそうとしたとき、男性が小さく微笑んだ。


「その珈琲、美味しいですか?」


不意の問いに、璃菜は少し驚いた。


「え?」


「帰り道の珈琲。」


男性はメニューの名前を口にした。


「気になっていたんです。」


璃菜はカップを見つめた。


まだ少しだけ温かい。


「美味しいです。」


そう答えると、男性は満足そうに頷いた。


「それなら今度頼んでみようかな。」


それだけだった。


男性は再びノートへ視線を落とし、璃菜も窓の外へ目を向けた。


それ以上、言葉は交わさなかった。


けれど帰る頃には、不思議とその短いやり取りが心に残っていた。

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