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彼女は確かにここにいた 16


 そしてそのチャンスは、何の前触れもなく突然舞い込んできた。


とある七月の金曜の夜、仕事を終えて部屋でパソコンを触っているとスマホが鳴った。文字を打つ手を止めてディスプレイを確認すると、みあ、と表示されていた。


一瞬どきりとしたが、すぐに梨沙とみあが同じ番号であることを思い出し、自分を落ち着かせた。


「もしもし」


懐かしい声がした。あの日々の暖かい香りがする。たったその一言で、声の主が梨沙ではなくみあであると直感した。


「みあ……」

「みつくん、久しぶり」


反射的に溢れ出した涙に口を塞がれて、何も言えなくなる。


「みつくん、勝手にいなくなったりしてごめんね。でもお願い、一つだけわがままを聞いてほしいの」

「……なに?」

「会いたい」


よく待ち合わせをしていた駅からあるいて十五分ほどの場所にある老舗陶器メーカーの記念館。名前ぐらいなら一度は聞いたことがあっても今まで足を踏み入れたことが無かった。小川が流れていたり林や芝生があったりして、都会の真ん中だというのに呼吸がしやすいような解放感がある。


土曜日の昼間、カップルや小さな子どもを連れた三世代の家族たちが散歩をしている。噴水の傍にあるレンガ造りの腰掛に、彼女は座っていた。


その姿を認めた瞬間に、駆け出してすぐにでも抱きしめたい気持ちが身体のなかを渦巻いて、だけどそれとは反対に足がすくんだ。気配に気が付いたのか、みあが不意に顔を上げる。そしてゆっくりと立ち上がり、こちらに手を振った。


いつものような優しい色合いの柔らかなブラウスとスカートを纏っていた彼女は、紛れもなくみあだった。それはよく見ればあの夜、居酒屋で話をした梨沙であるのに、それでもみあだった。


二人の間の重力が引っ張る力だけで、足を進める。彼女の前に立つ。言語野にエラーでも発生しているかのように、ことばが出てこなかった。


「ほんと、久しぶりだね」


くっきりと縁取りがなされた凛と響くその声が、耳にとても心地よい。


「ごめんね。急にいなくなったりして。……それ以外にも、いろいろと」


みあが俯く。その視線の先をなんとなく追うと固く握られた両手に辿り着いた。


「もう聞いたんだよね、私のこと」


反応を伺うようにみあが顔を上げる。真夏の風にしなやかに揺れるひまわりのようだと思った笑顔が、今は弱弱しかった。一層泣いてしまったほうが良いような笑顔だった。静かに頷く。


「そっか……。びっくりしたよね」


また頷く。


「意味わかんないかもしれないけど、でも梨沙が言ってたことは全部ほんとのこと。だから、ごめんね。みつくんの大切な時間をいっぱい奪っちゃって、ごめんね」


見ていられないような出来の笑顔だったから、思わず身体が動いた。震えるみあの手を取った自分の手まで震えていた。そのまま抱きしめたらいつものように安心をしたかもしれなかったのに、それ以上動けなかった。みあは責める様子もなく、穏やかにさらに微笑んだ。


「……そんなこと、言わないでくれよ」


どうにかそれだけ絞り出した。


「……梨沙さんが、治療するために会うなって言ってたけど、こんな風に会って大丈夫なの」

「大丈夫だよ」


みあが俺の手を取って、握りなおした。


「最後にどうしても直接お別れを言いたかったの」


思わず顔を上げる。みあの瞳をまじまじと覗き込んだ。


「洋さんには許可を取って来たし、行き先も伝えてきた。梨沙もきっとわかってくれる。だから……、だからね。最後に一回だけいつもみたいにデートして」


心とか頭がそのことばの意味を処理して解析して理解するより早く、身体が反応していた。右の目じりから前触れなく流れて落ちていったそれを見つけたみあが、眉尻を下げた。もう、と言いながらバッグからピンク色のハンカチを取り出して、そっと頬を拭われた。その生地の柔らかさがいつまでもそこに残った。


「行こう」


みあに引っ張られるようにして街を歩く間も何を話せば良いのかまるでわからなかった。いつもなら途切れることなく会話が続く二人なのに、今は足音しかない。


思考が纏まらない。梨沙の治療のためには会わないほうが良いはず。重ねられた嘘の数々。もう二度と会えなくなるということ。しっかりと手を握って迷いなく歩みを進める彼女が、障害の副産物でしかないという不可思議な事実。取り留めも無い考えが頭のなかを渦巻いて、どれも形を成す前に崩壊していった。


辿り着いたのは初めてのデートで訪れて以来、何度か通ったカフェだった。


「どれにする? なんか新しいのも出たみたいだね」


みあがフォトアルバムみたいになったメニューをこちらに向ける。食欲は感じず、選ぶという行為さえ億劫だけれど視線を落とした。どれにしようかな、と明るい声がする。


彼女は散々迷った挙句、季節のフルーツタルトとカフェラテを注文した。俺はいつものように彼女が最後の二択まで残して選ばなかったケーキとホットコーヒーにした。


そんなに迷うのなら二つとも食べればいい、とは言えなかった。その後に最後なんだから、と聞こえない一言が続くような気がした。


運ばれてきたケーキを見て、みあはいつものように歓声を上げて笑顔を浮かべた。やっと作られていない素の嬉しそうな表情を見たような気がして、肩や首の辺りにあった重さがふっと消えた。


「みあ」

「ん?」


さっそくフォークに伸ばしていた手を止めて、みあが顔を上げる。


「写真、撮ってもいい?」


笑顔より濃くなる。大輪の鮮やかな黄色のひまわりだ。


「可愛く撮ってね」


そっとケーキが載った皿を持ち上げて顔の傍に持っていく。にっこりと微笑むみあをスマホで撮った。


「いただきまーす」


フォークをタルトに刺す姿を。小さく切り分けたそれを口へ運ぶ姿を。美味しさに顔をほころばせるところを。美味しい、と声を漏らして目を輝かせるところを。俺に感想を伝えようとするところを。未だに写真を撮り続けていることに気が付いて、恥ずかしそうにむくれるところを。一瞬たりとも見逃せない。


「もう、いつまで撮ってるの? コーヒー冷めちゃうよ」


こうして何でもない日に会っているときでも、俺はみあの写真を撮っていた。だけどもっと撮っておけば良かったのかもしれない。


「ねえ、就活どうだったの?」


俺がようやくスマホを置いてケーキを食べ始めると、みあがそう切り出した。


「大変だったけどなんとかなったよ」

「今のお仕事はどんな感じ? 大変?」


会えなかった間にできた空白を埋めようとするかのように、みあは話を聞きたがった。俺はそれに応えようと、できるだけ詳しくできるだけ前向きに聞こえるように話そうと努めた。仕事量の多さになかなか慣れなくて辛いと思うことあったけれど、こうしてみあが話を聞いてくれるなら。みあと過ごす未来を手に入れるためならまだいくらでも頑張れるのに。


もうそれが叶わない夢だということは、理解よりもっと深いところでわかっている。


「もう、みつくん……」


みあがもう一度ハンカチを出す。手を伸ばして俺の両頬を拭った。知らない間に泣いていたらしい。自分で気が付かなかったことに動揺してみあの顔を見た。彼女はそっと頷く。


「そろそろ出よっか。私、本屋さんに行きたくて」


空になったプレートとカップを残して、カフェを出る。


背後でドアが閉まった瞬間、空気がセピアになったのを感じた。

敢えて目を反らして、みあと並んで歩く。

これからこうやって少しずつすべてがただの思い出に変わっていく。

そんなことを考えてしまっては、泣き出しそうになるのを必死で堪えた。

みあの手を強く握ると、同じくらいの強さで握り返された。

俺がこんな調子なのに、みあは少しも泣かない。

どれだけ幸せで満ち足りた日々を重ねても、いつかこんな日が来ることをずっと彼女は知っていた。


本棚の迷路で迷いながら、様々な本を手に取って眺めた。二人で読んだ本を見つけては、短く感想を口にしあった。あの本が今流行っているらしいとか、この小説は今度映像化されるらしいとか、そんなどうでも良いことしか話せなかった。本当はもっと別に言わなくてはならないことがある気がするのに。


みあが数冊の本を買って、書店を出た。どちらかが言い出すわけでもなく、商業ビルの外に出て目に付いたコンビニに入ってアイスコーヒーをテイクアウトした。コーヒーを零さない程度の速度で歩きながら、記念館へと戻った。空の青が深くなり、橙色が流れ込んでいる。もうほとんど人影は無い。背の高いランプに明かりが灯っていた。ベンチに並んで腰かけた。日が長い季節とは言え、少しずつ辺りは暗くなっていく。このまま太陽が完全に沈んでしまったらみあは消えてしまうんじゃないか。


隣にいる彼女の肩に手を回した。少しでも離れたら不安で、触れていたかった。そのまま彼女を抱きしめる。もう一度会えたら言おうと思っていたことが、あるはずだったのに。黙ったままみあの柔らかな茶色の髪に鼻先を埋めた。


そしてふと、腕の中でみあが震えていることに気が付いた。不規則に身体を揺すっている。


みあが泣いていた。


「みあ……?」


そっと身体を離して顔を覗き込んだ。


「ごめん。みつくん、私消えたくないよ。やっぱりみつくんのことがすき。離れたくない」


そう言われて、もう一度今度はできる限りの力で彼女を抱きすくめた。堪えることも出来ずに泣いた。


例えばこのままみあを連れ去ったのなら、二人は一緒にいられるのだろうか。それくらいの勇気と狡さを発揮するべきなのではないか。もっと必死で抗うべきものに抗うべきなのではないか。この先の未来が手に入るのなら、他の何を引き換えにしても構わない。


「みあ、ごめん。俺、みあに謝らなくちゃいけないことがあってさ」


なに、とくぐもった声がした。


「みあが書いてた日記、梨沙さんがくれてさ。全部読んじゃった」


みあは腕の中で大人しく俺の声を聞いていた。


「一緒にいた日のこともいなかった日のことも、俺が書いた小説のことも書いてあって。それだけじゃなくて梨沙さんと洋さんのこともさ。だからもうわかってる。みあがどれだけ俺のことを想っていてくれたか。梨沙さんのことも考えて、板挟みになって悩んでたことも知ってる。だからもう良いよ。俺はみあといた日々が人生で一番幸せだったから。それで、良いんだよ」


胸の中でみあが声を上げた。その背中をできるだけ強い力で擦った。歯を食いしばっても嗚咽が漏れた。


「みあも駿介も褒めてくれたし、もう一回小説書いてみるよ。みあのことを書いてみる。この先ずっと残るように」


みあが顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった真っ赤な顔。大きく一度、頷いた。そうしてまた抱き合って、二人で涙を流し続けた。傍から見れば滑稽で無様だろう。それでもこんな姿はきっとお互いの前でしか晒せない。


お互いの身体に縋りつくようにして身体中の水分を出し尽くすように泣いた。


 静まり返った広場に唐突に電子音が鳴り響く。みあのバッグから聞こえていた。悪い予感がして身体に力が入った。みあがそっと離れていく。


「……そろそろ時間みたい。洋さんが迎えに来てくれることになってるの」


みあの背中に回した腕を、それでもほどけずにいた。


「だからもう行って。私はみつくんを置いて歩いていけそうにない」


そよ風のような力で胸を押される。その目を見つめたまま、首を横に振った。


「みあが行って。俺はみあの後姿まで全部覚えて、いつか書かなくちゃいけないから」


沈黙のなかで見つめ合った。そしてみあはふっと微笑む。


「そっか……」


みあが足に地面を踏みしめる。そっと慎重に、だけど今度は確実に身体を離した。彼女が立ち上がっても俺は動けずにいた。こっちを向いたまま、みあが手を振る。自分の手を持ち上げることもできずに、ずっとみあの顔だけを見つめた。


みあが一歩、また一歩と後退るように遠のいていく。着信音がずっと鳴り響いている。今になってやっと手を伸ばすと、応えるようにみあもこちらへ手を伸ばした。手首辺りに触れた指先が、するすると滑っていく。


最後にお互いに指先と指先が触れて、そして離れる。

この瞬間を、一生忘れないだろう。


みあが背を向ける。身を翻す瞬間に、顔が歪むのが見えてしまった。呼吸ができなくなるくらい嗚咽が漏れた。歯や唇の隙間から声が零れる。立ち上がって、追いかけて、抱きしめたい。


だけど背を向けたみあの勇気と決意を、無駄にするわけにはいかない。


華奢な背中が見えなくなるまで、そこから動くこともできないままにただ見つめ続けていた。

空の色彩さえ褪せて、いまがすべて過去に変わっていく。


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