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彼女は確かにここにいた 14


理解が追い付かず、黙って梨沙の目を見つめ返す。ふざけているというわけでもない。驚かせようとしているわけでもない。ただぼんやりとやっぱりそうだよなと思った。みあにしか見えないくらいに梨沙はみあに似ている。


だけど梨沙のことばの意味するところはわからなかった。


「みあは、私です」


同じ意味のことばを梨沙は繰り返す。

何が言いたいのだと視線で訴えた。


「私は解離性人格障害を患っています」


聞いたことのない言語のように聞こえた。文章というよりは一つ一つの音として聞こえる。


「多重人格と言えばわかりやすいかもしれません。私のなかには私の他にあと四人の人格がいます。分かっているだけで。私たちが知らないだけで、本当はもっといるのかもしれません」


心臓が低い音で、でも全身に響き渡るくらいの大音量でゆっくりと鳴っている。粘性のある汗がこめかみや背中を伝っていく。


「みあは、そのなかの一人です」


自分が今何を言われているのか全く理解ができなかった。個室の天井から俯瞰しているようで、自分の姿すら自分の目で見えるようだった。まるでスクリーンに投影された映画を見ているようだ。現実味が無くて、揺らいでいる。


唾を呑むと、喉が鳴った。


「どうして……」


何がどうしてなのかわからない。自分でも何を言えばいいのかわからない。横目で個室のドアが開くことをひたすら祈った。そしてびっくりしたでしょ、と満面の笑みを浮かべたみあが登場してきてくれればいい。


「こんな話、どうしたら信じてもらえるのかもわかりません。私には他の人格でいるときの記憶はありません。ミツさんのこともみあに話を聞いた洋に聞くまで全然知りませんでした」

「みあが人格の一つとして現れるようになってから、まだ二年も経っていません。ある日梨沙と大喧嘩をして家を飛び出して、帰ってみると突然みあがいました。彼女は大人しい人格で現れても特に悪さをするわけでもなく、家のなかに引き籠っていることがほとんどでした」


洋が梨沙が記憶していない部分の話をする。


「別人格のなかには不安定で、危険な者もいます。それに比べてみあはいつも穏やかで、だから彼女が現れることは、もちろん人格が増えたことに対しての心配はありましたが、それ以上の不安はとくにありませんでした」


懸命に洋の話を映像として頭の中で再生してみようとしたが、劣化したフィルムを再生するみたいに雑音が混ざってぷつりぷつりと途切れる。


「彼女も退屈を持て余していたのか、梨沙のパソコンを触っていることが多かったです。でもあるときから本棚にある僕の本を貸してほしいと頼むようになって、そのうちに外に出かけて本を買ったり映画のDVDを借りたりしてくるようになりました。それ自体は特に悪いことにも思わなくて好きなようにさせていました。だけどそれとともに梨沙でいる時間よりみあでいる時間のほうが長くなってきていて……」


まだ会ったこともなかったころの自分が、それでも彼女に影響を与えていたことを一瞬だけ喜んで、それからすぐに複雑な気持ちになった。


「梨沙以外の人格たちが他所で新しい人間関係を築くことは今までにもあったから、そんなに心配をしていたわけでもなかったんですが……」


洋が続けるべきことばを発すのを躊躇い、視線を落とした。


「私は普段、他の人格たちと直接話をすることはできません。その代わりに先生に勧められたこともあって、交換ノートをやってるんです。ある日、自分の携帯を見たらミツさんとのメールがいっぱい残ってて。別の誰かのものだってことはわかってたんですけど、でも内容を見たんです。そうしたら……、カップルみたいだったから、みあに聞いてみたんです」


これです、と梨沙が一冊のキャンパスノートを取り出した。ペラペラとページを捲っていき、あるところで手を止めた。


 みあへ ミツくんってだれ? 


几帳面そうな整った字で書かれていた。


 梨沙へ 付き合ってるの。


一つ一つの文字が独立しているような、丸い文字が並んでいた。


「それからしばらくして、今度はみあが他の皆に内緒で書いていた日記を見つけました。あまりにもミツさんのことばかり書かれていて、みあの想いもあなたの想いも書かれていて、ああ、これはもうどうにかしなければいけないなって思いました」

「どうにかって……」

「だってみあに将来は無いから」


それまで探り探り弱弱しい声で話していた梨沙が、そこだけやけにはっきりと言い切った。カッと一瞬で頭に血が上るのを感じて、鼻から大きくゆっくりとした息を吐き切ることでなんとか抑えつけようとする。


「あなたがみあとの将来を本気で考えていればいるほど、早く止めなくちゃいけないと思っていました。……みあも、それをわかってくれていたはず」


数か月前の彼女の姿が、今目の前にいるかのように鮮明に蘇る。


未来の話をしようとしたとき、決まって彼女は寂し気に微笑みながら話題を反らした。できるだけ詳しい話にならないように、懸命に。あの涙で滲むような声をはっきり覚えている。変化を恐れているのだと思っていた。この先しばらくの間会えなくなることへの、不安だとばかり思っていた。


そんなものではなかった。彼女の孤独。不安。未来を語れば語るほど、想像せざるを得なくなって、一体どれほどの恐怖のなかにいたのだろう。


未来を求めることなど到底できず、それどころかいつか終わらせなければならないことをわかっていながら、それでも今だけはと願いながらここまで来た。


どんな気持ちで隣で笑っていたのだろう。


みあ。

もう一度、名前を呼びたかった。


俺たちに終わりを運んできた二人の前で、泣いてしまいたくはなかった。


「本格的な治療を始めようと思ってるんです。みあは穏やかな性格をしてるけど、なかには暴走してどうしようもなくなる人格もあるんです。それをこのままにしておくのは、もう危ないのかなって……」


みあの左手首にある無数の傷を思い描く。あの傷跡たちは彼女のものであって、彼女のものではなかったのだ。


「……治療をしたら、みあは」


少し想像すればすぐにわかるはずなに、尋ねずにはいられなかった。


「全部の人格を統合して、私になるはず」

「みあは、消えるっていうこと」

「そういうことになると思います」


吸って吐く。呼吸を意識する。そうしていないと今にも視界が滲みそうだ。


「もっと言うならちゃんと治すために、もうみあとは会わないでほしい。ミツさんと過ごす時間はみあにとって、あまりにも幸せ過ぎるから」


なんて残酷なことを言う女だろうと思った。みあと同じ顔をしながら。彼女に未来は残されていないのに。彼女から未来を奪うくせに。


「また何かあればいつでも連絡ください」


店を出る直前に、梨沙と洋の連絡先が書かれたメモを渡された。それを無言で受け取る。


「あとこれは、あなたに持っていてもらうべきだと思う」


そう言って梨沙に一冊のノートを手渡された。


「みあの日記です。念のためにコピーは取ってあるので、持っていてください」


二人に背を向けて歩き出した途端、鼻の奥がツンとして舌の奥がしょっぱくなった。受け取ったノートを鞄にしまうこともできずに、夜の繁華街の隅を泣きながら歩いた。


みあとの終わりは覚悟をしていた。

そのはずなのに、今どうしようもなくみあに会いたい。


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