彼女は確かにここにいた 13
慣れない仕事と残業でくたくたになる。なんとか家に辿り着いて軽い食事をして風呂に入ってベッドに身を投げ出すと、すぐに朝が来る。他のことをする余裕も考える余白も無くなった。
この頃、小説さえまともに読めていない。読書をしていて睡魔を感じるなんて、生まれて初めてだった。吊革にさえ掴まれない満員電車の十五分間で、もしもあのブログを更新したらまたみあはコメントをくれるだろうかなんて想像する。毎日同じ時間の電車に乗って同じ景色を見て、同じようなことを繰り返し考える。
忙しい一週間を終えて、何の予定も無い金曜の夜。
帰りの電車を待つホームで、久しぶりにみあに電話を掛けた。期待はしていなかったけれど、やはり応答は無い。
一つため息を吐く。一つの決意みたいな、区切りみたいな呼吸。
もう一度スマホの画面に目を落とす。
いつでも連絡してきて。ずっと待ってるから。
もしもう別れたいと思っているのなら、それでも良いよ。
だから一度連絡をください。心配しています。
それだけ打って読み返しもせずに送信した。
こちらから連絡をするのは、これが最後にしようとなんとなく覚悟が決まった。
通関用の書類を作ったり納期の調整をしたり受発注をしたりと業務は多岐に渡るし、どれもが量も多ければスピードも求められる。やらなくてはいけないことに追われている内にあっという間が過ぎていく。朝八時に出社して、夜は二十二時頃まで会社に残っていることもざらじゃなかった。
だけど新しいことを少しずつできるようになっていく自分が嬉しくて、その達成感が胸の奥にぽっかりと空いた大きな穴を隠していくようだった。
その日もオフィスを出たのは、二十一時半頃だった。業務に追われて、鞄に入れたまま触れることさえなかったスマホを確認すると、着信履歴と留守電が残っていた。
その名前を見た瞬間、呼吸が止まって汗が噴き出た。スマホを握る手が大きく震えている。
みあ。
彼女の名前を呟いたのかもしれない。メッセージの再生ボタンを押して、スマホを耳に当てる。
「えーっと……」
電話で話すときのみあによく似た声だった。
「みあについて話したいことがあります。いつでも良いので、ご連絡ください」
それだけだった。理解が追い付かない。最悪な事態が頭を過りそうで、だけど形を成す前に崩れていく。電話の主が誰なのかもわからない。でも、みあではない。
会社から出るやいなや発信ボタンを押していた。事態を把握できてはいないけれど、とにかくこれ以上はもう一秒も待てそうになかった。
数秒間、無機質なメロディが流れる。
「はい」
みあに似た声が答える。混乱のなかに懐かしさまで混じって、何も言えなくなる。
「……ミツさん、ですよね?」
「そうです」
身体が反射的に声を出す。
「突然連絡して、驚かせてごめんなさい。私はみあの……、姉の、梨沙です」
姉。みあに姉妹がいたことも知らなかった。彼女はいつも自分の家族の話をしたがらなかった。
「みあに、何かあったんですか?」
声もスマホを持つ手も震えていた。聞くのが怖いけれど、だからこそ早く聞いてしまいたかった。
「いえ、そういうわけではないんです」
「……みあは元気ですか?」
言いたいことは他にもっとたくさんあった。それら全てを染み込ませた一言が重たく消える。
「元気ですよ」
この数か月間肩や背中に入りっぱなしだった力がふと抜けた。ひとまず、想像していた最悪の事態にはなっていないらしい。だけど安心したのも束の間、それならば現状は不可抗力でこうなったわけではなく、みあが望んで引き起こしたことだということになる。
「元気ですけど、どうしてもみあの恋人の、あなたに……伝えておかないといけないことがあるんです」
だからゆっくり話ができそうな日はあるかと聞かれ、本当は今すぐにでも何もかもを知りたかったけれど、ぐっと堪えて土曜日だと答えて、約束を取り付けた。
それからの二日間は仕事がまるで手に付かなかった。やっとだいたいの基本的なことは一人でこなせるようになっていたのに初歩的なミスを頻発し、普段自己中心的な振る舞いをしている上司にまで体調を気遣われる始末だった。
それでもなんとか平日を乗り切って、土曜日の十八時。
駅前でみあの姉だという梨沙と名乗る女性と待ち合わせをした。金色の時計が見える位置で立ち止まる。そういえば初めてみあと会ったのも、この場所だった。
この状態を付き合っていると呼べるのならだが――、恋人の家族と会うのはこれが初めてだった。そのせいで余計な緊張もある。視線を彷徨わせて、顔も知らない人を探す。
すると真っ直ぐこちらへ向かってくる二人組が視界に入った。ちょうどみあと同じくらいの身長の小柄な女性と百八十センチ以上ありそうな細長い印象のある男が並んで歩いてくる。
「みあ……」
思わずそう声が漏れた。言われなくてもその女性が梨沙であることは一目瞭然だった。それぐらいに妹であるみあにそっくりだった。メイクや髪形、ファッションで印象は異なっているものの、全体的に似ている。
「ミツさんですよね? 初めまして。梨沙です」
梨沙が首だけで会釈をする。
「こっちは彼氏の洋です。私だけじゃちゃんと説明できるか不安で、連れてきました。勝手にごめんなさい」
正直梨沙は一人で現れるものとばかり思っていたから、予期せぬ長身の男の登場に面食らったものの、それはもはやどうでもいいことの一つでしかなかった。
「とりあえず移動しましょうか」
洋が先頭を歩き、その後を並ぶわけでもなく俺と梨沙が付いていく。案内されたのは完全個室の居酒屋だった。今度は洋と梨沙が並んで座り、その正面に俺が腰を下ろした。
「遠慮せずに何でも頼んでください」
洋がメニューを開いてこちらへ向ける。
正直食欲は全くと言っていいほど無かったけれど、その場の雰囲気を少しでも和ませるためにアルコールと食事は必要だと感じて、適当なものを見繕って頼んだ。
まず届いた生ビールに手を伸ばす。乾杯をする雰囲気でもないし、だからと言って勝手に飲んで良いのか悩んでいると、洋が先に口を付けた。それを見て安心してビールを飲んだ。
何から尋ねれば良いのかわからず、口を開きかけては閉じる。
黙ってビールを飲む。普段にはないくらいのペースでジョッキを空けても一向に酔いが回る気配は無い。
「……みあは、元気なんですよね」
とにかく何か突破口が欲しくなり、電話の時と同じ質問を繰り返した。
「……はい」
梨沙がこくりと頷く。
「どうして突然連絡も取れなくなったんですか。こんなことをお姉さんに聞いてもどうしようもないかもしれないけど。もう終わったって思ったほうが良いのか、……あまりにも突然過ぎてわからないままで」
そう言うと梨沙はちらりと洋のほうを見て、それから視線を落とした。
「みあはあなたに逢いたがっていました」
俯いた梨沙の代わりに洋が答える。
「みあは今でもあなたのことを想っています」
「じゃあどうして……。せめてメールの返事ぐらいしてくれても良いのに」
「あなたが将来のことを考えるぐらい、みあを大切に想っていてくれているということは知っています。だからこそどうしても伝えなくちゃいけないことがあって、今日はここまで来てもらいました」
梨沙は一つ一つ慎重にことばを選ぶようにしてそう言った。そして真っ直ぐに俺の目を見つめる。その表情がやはりみあに似ていて、心臓が大きく低く鳴った。
「私は、みあです」




