彼女は確かにここにいた 12
みあからの連絡が途絶えた。
あの初詣の日以来というもの、みあからは連絡も無いどころか、こちらから掛ける電話にも送るメールにも全く反応が無い。出会ってからこんなことは初めてで、心配になって久しぶりにツイッターを開いてみたが、タイムライン上にも彼女の気配は無かった。
もちろん心配も不安もあったけれど、それとともに一度お互いに冷静になる必要があると感じていた。お互い、いや、特に自分自身が。彼女と過ごす日々があまりにも幸せ過ぎて、まるで自分の人生ではないのではないかと疑うほどで、舞い上がっていた。もしかしたら一刻も早く彼女が自分だけのものであるという証明を欲していたのかもしれない。
就職が決まって、自分の心にゆとりを取り戻したら改めてしっかりと謝ろうと思う。鼻から大きく息を吐いて吸い、ビルの自動ドアを潜った。
何枚もの履歴書を書き損じて無駄にし、何社もの会社にエントリーをし、何人もの面接官と話をし、考えすぎて眠れない夜を何度も繰り返し、そしてやっと再就職が決まった。
季節はもう春を迎えていた。
その年に新卒で入社した新人たちよりも一か月ほど出遅れてのスタートを切ることとなった。
新しい仕事は商社での貿易事務だ。貿易関係の仕事は激務だという噂をよく耳にしていたから、最初は敬遠していたものの、少しでも外国と関わりを持てるというところが単純にかっこよかったし、営業職に比べればよっぽど自分に向いているような気がした。
内定の通知の電話を切った直後、早速みあに報告をしようと思ったけれど繋がらなかった。念のために送ったメールにも一切返信は無かった。
胸の中に今までとは異なった不安がもくもくと真夏の積乱雲のように膨らんできて、居ても立っても居られなくなった。
そしてふと気が付く。みあが住んでいる場所をはっきりとは知らない。暮らしている町は知っているけれど、実際に家まで行ったことはない。これじゃあ自宅に安否を確認しに行くこともできない。
やっぱりみあのことを何も知れていない。
その事実に改めて愕然とする。これじゃあ彼女に万が一のことが起こっても、気が付けない。駆けつけることもできない。それどころかこのまま二度と会えない可能性さえある。
不意に眩暈を感じた。
仕事が始まるまでの三週間の間、ワイシャツや靴を買ったり必要なものを少しずつそろえたりしながら、何もかもが手に付かない日々が続いた。本当はこの期間にみあをどこか旅行にでも誘おうと考えていた。今まで離れている時間が長かった分、濃い時間を一緒に過ごしたいと思っていた。それなのに電話もメールも無い。
いつもサイレントにしていたスマホに着信音量を上げた。電話が鳴るたびに期待する。だけどそこにみあの名前は無い。代わりに駿介と表示されていた。
「もしもーし」
長閑な駿介の声がする。遠くで音楽みたいな音が鳴っている。時間を確認すると二十時過ぎだった。もしかしたら今日もどこかでライブを終えた後なのかもしれない。
「もしもし」
「どうした? なんかテンション低くない?」
「んーまぁ……」
答えながらベッドに倒れこんだ。身体が酷く重たい。
「就活、行き詰っとんの?」
「あー……それは」
みあのことで頭がいっぱいで、報告することを忘れていた。
「とりあえず就職は決まった」
「まじで?」
「まじ」
「おめでとう。いつから働くの?」
「五月」
「もうすぐやん」
「もうすぐだよ」
「緊張しとんの?」
「緊張もしとる」
「だからそんなテンション低いわけか」
「……それもある、たぶん」
「なんだそれ」
電話の向こうで女性の声がした。そしてその声が俺の名前を呟いたように聞こえた。たぶん、レイカだ。
「みあちゃんにはもう報告した?」
そう尋ねられた瞬間、答えるべきことが見当たらなくて、というより口にしてしまえばそれが現実なのだと認めざるを得なくなるような気がして、何も言えなかった。代わりに涙が出そうになる。
「……ミツ?」
その奇妙な間に、何かを察したのか親友の声色が変わる。
可笑しい。みあと連絡が取れないだけで、こんなにもボロボロに傷ついているなんて。
「もうダメかもしれん……」
自分の声が情けなさすぎて、バカみたいで、女々しくて、笑えるのに、涙が出る。
えっ、なに、とレイカの驚いた声と駿介が何か話す声が聞こえる。
「今から行くわ」
それだけのことばを伝えて電話がぷつりと切れると、今度こそ涙が出た。惨めな声も出た。スマホを握りしめてベッドの上で丸まって、子供よりも無様に泣いていた。
駿介はレイカが運転する軽自動車で現れて、強引なほどの力で俺を家から引きずり出した。酔っぱらっているわけでもないのに、自分の足で立っているのか駿介に寄りかかっているのかわからなかった。そんな状態で現れた二度目ましての俺を見て、レイカがぎょっとした顔をする。
ああ、どうしようもなく惨めだ。どうしてこんなふうになったのかもわからない。
どこかのアメリカの映画で見たようなテディベアが転がされた後部座席に押し込まれて、ぼんやりと通り過ぎていく景色を眺めていた。車の中では最近色んなところで名前を目にするようになったバンドの曲が流れている。きれいごとばかり言いやがって。いつもなら励まされるような歌詞にも苛立つ。
途中で一度コンビニで停まって、レイカが車を降りた。ビニール袋を提げて彼女はすぐに戻ってきて、再び車を走らせる。平日の夜の高速道路。
辿り着いたのは、海だった。人工的に作られた綺麗な砂浜。高いところに照明があって、浜辺がほんの少しだけ照らされている。駿介がスマホでレイカの足元を照らしていた。海のほうを向いて三人で並んで腰を下ろす。レイカが袋の中から缶ビールを取り出して俺と駿介に手渡す。彼女は一人でマウントレーニアのコーヒーにストローを刺した。
暗闇に波の音だけが響く。安っぽくてフィクションみたいな現実。
そういえばみあとは海に来たことが無かったな。泳ぐのは嫌いだけれど、海は好きなのに。
思い出の無さにさえ、今は涙が出る。
せっかく時間を割いてくれた二人に、何かを話さなくてはいけない気がする。でも事情を説明するという機能の歯車と歯車が噛み合わずに、動かないというよりはカラカラと空回りしている感じだ。
握りしめた缶のプルトップを上げても、中身は見えない。
「なにがあったー」
やけに間延びした声で駿介が言った。質問というよりも呟きみたいな雰囲気だった。
潮風が冷たい。寒いねと笑いながら寄り掛かる相手が、そばにいなくて宙ぶらりんだ。
「みあが音信不通なんだよね」
ことばにしてしまえば、たったそれだけだった。波が引いてもう一度打ち寄せてくる。優しい音が、ことばの余韻を奪っていく。
「いつから?」
「もう三か月ぐらい」
そんなにも長い間、一人でお利口な犬みたいに待っていたのか。思っていたよりも長かった。もう答えは出ているんじゃないのか。気づかないふりをしているだけなんじゃないのか。しまっておいたはずの感情が喉を這い上がってきてはぽろりぽろりと口から落ちていく。ビールの水面に吸い込まれるみたいに。
たどたどしく事情と経緯を話した。
「そもそもみあのこと、よく知らんのだよね。通ってる大学のことも、家族のことも、これまでどんな人生を生きてきたのかも。そういう話をするといっつもなんとなく躱されてさ。聞いとけば良かったのかもしれんけど、みあが嫌がってんなら関係を壊すのが怖くて聞けんかった」
でも聞いても聞かなくても破綻したのなら、もう少し探ってみても良かった。謎は想像力を掻き立てて、存在が深いところに刺さる。
「一回、別人みたいな恰好してきたこともあったしさ。派手な化粧して普段着ないようなワンピース着て、煙草の匂いまでさせてさ。正直俺の知らないとこで何してんだろってめっちゃ勘ぐった。騙されてるんじゃないかって思うこともあった。左手首にリスカの跡もあるし、いろいろ……、そういう、いろいろある子なんだなって思ってはいたけど……」
それでも目を瞑ったのは、それ以上に彼女を愛していたからに過ぎないのだけれど。
「凄く良い子そうだったけど……」
レイカが遠慮がちにそう言う。頭のなかがもやっとして晴れなくて、数日後に切る予定だった髪を搔き乱す。
「良い子だとかそういう問題じゃなくて、知ろうとしなかった俺が悪い。もし……、もし本当に精神的に不安定でさ、それを必死に俺に隠そうとしてたんだったら……、みあに万が一のことがあったらどうしよう」
「それは考えすぎだって」
駿介が大きな声で言った。レイカもそうだよ、と繰り返す。
「急に連絡取れなくなって心配なのはわかるけど……、今のミツもだいぶやばいよ。お前のほうが心配になるわ」
「そうですよ。みあさんもちょっと考える時間が欲しいんじゃないですか」
「だったらせめてそう言ってほしかった。何も言わずにいなくなるなんてさ」
波の音が絶えず聞こえる。俺に音楽の才能があったなら、一曲作りたくなるような夜だ。だけど完成させたところで、一番聴いてほしい人はいなくて――、そんなことを堂々巡りに考えていた。
「普通に考えたら、自然消滅ってことだよな。これ」
さっきまで感情で震えていた声が、奇妙に冷静さを取り戻していた。二人ともが沈黙する僅かな間があった。それが何を意味するかわかっていたけれど、恐れていたほど傷ついたりはしなかった。本当はもうずっと分かっていた。
「とりあえず、飲め。スミノフもあるしチューハイもあるし……、好きなやつ選べって」
最大限に励まそうとしてくれる親友とその恋人の努力はしっかりと伝わった。まだどこまでも気持ちは荒んでいたけれど、お礼を言わなければいけない気がした。缶の半分くらいのビールを一気に流し込んで、小さな声でありがとう、といった。
頭がぽーっとして心臓がどきどきする。このまま波打ち際まで走っていきたい。波に足を取られて溺れるだろうか。でももうずっと溺れているような気分だ。
それ以上はもう話したくなくて、しばらくはまだ一人で傷ついていたくて、できるだけ明るい声で関係のない話をしてビールを飲んだ。




